第3話 鍵と契約書
土曜日の午後三時。
私の部屋はモデルルームのように死んでいる。
生活感というノイズが極限まで排除された空間。
埃ひとつないフローリング。
中身の入っていない冷蔵庫。
読みかけの本すらないリビングのテーブル。
それが私の城であり私の空虚さの証明だった。
インターホンが鳴る。
その電子音は私の心臓を直接鷲掴みにするような暴力的な響きを持っていた。
来た。
私は無意識のうちに衣服の皺を伸ばす。
これから来るのは友人ではない。
恋人でもない。
月額五十万円の《契約者》だ。
深呼吸を一つ。
肺の中の空気を入れ替えビジネスモードの仮面を被る。
私はクライアント。
彼女はサービス提供者。
それだけの関係。
そう自分に言い聞かせて私はドアを開けた。
「お邪魔いたします、玲奈さん」
大和なでしこはそこにいた。
控えめなキャリーケースを一つだけ携えて。
服装は前回とは違う。
動きやすそうな白いブラウスに膝丈のスカート。
清潔感の塊のようなその姿は、この殺風景な廊下に咲いた一輪の百合のように見えた。
「……どうぞ。入って」
私の声は硬い。
緊張しているのが自分でも分かる。
自分のテリトリーに異物を招き入れるという本能的な拒絶反応と、それを上回る渇望が身体の中で喧嘩をしている。
彼女は靴を揃え、音もなく廊下を歩く。
その所作一つ一つが洗練されていた。
まるで最初からこの部屋の住人であったかのように空気に馴染んでいる。
リビングに通すと彼女は部屋の中を見回した。
値踏みするような視線ではない。
傷ついた患部を確認するような、静かで優しい観察眼。
「綺麗な部屋ですね」
彼女は言った。
「でも、少し寒そうです」
温度の話ではないことは私にも分かった。
私はポケットから用意していたものを取り出す。
合鍵だ。
銀色の無機質な金属片。
この部屋への、そして私のプライベートな領域へのアクセス権。
「これ……約束の」
差し出した私の指先は微かに震えていたかもしれない。
彼女はそれを両手で包み込むように受け取った。
彼女の手のひらの熱が冷たい金属を通して私の指に伝染する。
「お預かりします。貴女の聖域を、私が守りますから」
守る。
その言葉が胸の奥の柔らかい場所を刺した。
(大げさな。ただの家事代行と何が違うの)
心の中で悪態をつくことで私は辛うじて主導権を保つ。
「まずは荷解きをさせていただきますね。玲奈さんは……そうですね、そこのソファに座っていてください」
「手伝うわ。私の荷物も整理しなきゃいけないし」
「いいえ」
彼女の声は柔らかいが拒絶の意思は鋼鉄のように固かった。
「契約書の第3条をご確認ください。《クライアントは在宅時、パートナーの指示に従い可能な限り休息を取ること》」
そんな条項あっただろうか。
私が記憶を探っている間に彼女は微笑みながら私をソファへと誘導し、ふわりとブランケットをかけた。
「座っていてください。貴女の仕事は《休むこと》です」
強制的な休息。
私は毒気を抜かれたようにソファに沈み込む。
キッチンから水音が聞こえ始めた。
私の部屋のキッチン。
今まで湯を沸かすくらいにしか使われてこなかった場所。
そこに誰かが立ち、生活の音を奏でている。
トントントン。
包丁がまな板を叩くリズミカルな音。
くつくつと鍋が煮える音。
換気扇の回る音。
それらがBGMとなって私の思考を鈍らせていく。
いつもなら週末も持ち帰った仕事の資料に目を通している時間だ。
けれど不思議と焦燥感はない。
むしろその音が、私の荒れ狂う神経を一本ずつ丁寧に解きほぐしていくような感覚。
(変なの……誰かがいるのに、一人でいるより落ち着く)
***
一時間後。
テーブルに並べられたのはフルコースのディナーではなかった。
土鍋で炊かれた卵雑炊。
副菜は出汁の染みた茄子の煮浸しと、彩りの良い浅漬け。
湯気が立ち上るそれらは、見るからに消化に良さそうだった。
「……これ?」
私は拍子抜けした声を出す。
もっと豪華な、例えばA5ランクのステーキとか、そういうものを想像していたからだ。
「不満ですか?」
彼女はエプロン姿で小首を傾げる。
「冷蔵庫の中身を見て、貴女の顔色を見て、これが最適解だと判断しました。玲奈さんの胃腸、悲鳴を上げていますよ? 昨夜もコンビニのホットスナックとストロング缶だけでしょう」
図星だった。
ゴミ箱の中身まで見られたのか、それとも肌艶でバレたのか。
プロの観察眼に背筋が寒くなる。
「……いただきます」
レンゲで雑炊を掬い口に運ぶ。
熱い。
けれど火傷するような熱さではなく、身体の芯までじんわりと広がる優しい熱だ。
出汁の香りが鼻腔を抜ける。
舌の上で米粒が解け、卵の甘みが広がる。
「っ……」
美味しい。
という単純な言葉では表現できない。
許された味がした。
酷使され、痛めつけられ、無視され続けてきた私の内臓が、ようやくその存在を認められたような。
気がつけば私は無言で匙を進めていた。
涙が出そうになるのを飲み込みながら。
なでしこは向かいの席で、そんな私を静かに見守っていた。
食事をしないのかと目で問うと、彼女は首を振った。
「私は後でいただきます。今は、貴女が満たされるのを見ていたいので」
その視線は食事の光景を見ているのではなく、餌付けされる動物を愛でる飼い主のそれだった。
食後。
食器が片付けられ、少し濃い目のほうじ茶が出される。
私たちは改めて向かい合った。
テーブルの上には二通の契約書。
これから始まる共同生活のルールブックだ。
「確認事項です」
なでしこの声が仕事のトーンに変わる。
硬質で、クリアで、ビジネスライクな響き。
その切り替えに私は少しだけ安堵する。
そうだ、これは仕事なのだ。
さっきの雑炊も愛情料理ではない。
栄養管理という業務の一環だ。
「第一に、秘密保持。私の存在、及び当サービスの内容を第三者に漏洩しないこと」
「当然よ。私の社会的立場もあるから」
「第二に、金銭授受の厳守。基本料金は毎月二十五日払い。オプション費用は月末締め翌月払い」
「問題ないわ」
「そして第三に」
彼女は一瞬だけ言葉を切り、真っ直ぐに私の瞳を射抜いた。
「恋愛感情の禁止」
空気が張り詰める。
「私はプロのパートナーです。貴女に安らぎを提供し、生活を支え、精神的なケアを行います。ですが、私は貴女の恋人ではありません」
彼女は淡々と続ける。
「身体的な接触は、あくまでケアの一環としてのハグや添い寝までに留められます。性的な接触、および本気の恋愛感情の持ち込みは契約違反となり、即時契約解除の対象となります」
ドライな線引き。
それは本来、私が最も望んでいたことのはずだった。
面倒な感情のもつれはいらない。
責任もいらない。
金で買える範囲の都合の良い関係。
「……分かってる。私も、そういうのは求めてないから」
口ではそう言った。
けれど胸の奥でチクリと何かが刺さる音がした。
(じゃあ、さっきの優しさは何?)
(あの温かい雑炊は? あの心配そうな視線は?)
全部、演出。
全部、商品。
「よかったです。玲奈さんは賢い方ですから、ルールを守っていただけると信じています」
なでしこはふわりと微笑むと、立ち上がり、私の背後に回った。
「え?」
「契約成立の捺印代わりに」
彼女の腕が私の首に回される。
後ろからのハグ。
シャンプーの香りが私を包み込む。
背中に感じる彼女の胸の柔らかさと、規則正しい心拍音。
「これからよろしくお願いしますね、私のご主人様」
耳元で囁かれた言葉に、背筋が粟立つ。
彼女は恋愛禁止と言った直後に、平然と私の理性の境界線を踏み越えてくる。
矛盾している。
契約と行動が矛盾している。
けれど私の身体はその矛盾を拒絶できない。
むしろ、その腕の中に閉じ込められることに歓喜している。
「……よろしく」
絞り出した声は情けないほど震えていた。
彼女は満足そうに私の頭を一度だけ撫でると、パッと身体を離した。
「では、お風呂が沸いています。入浴剤はラベンダーにしておきました。ゆっくり温まってきてください」
彼女はもう、完璧なハウスキーパーの顔に戻っている。
私は逃げるように浴室へと向かった。
脱衣所の鏡に映った自分の顔は、見たこともないほど赤く、そして情けないほど緩んでいた。
(詐欺だわ、こんなの)
契約書には書かれていない。
この依存という猛毒については、一行も書かれていなかった。
(面接の後、口頭で伝えられたのはこのこと?)
浴室のドアを閉めても、彼女の気配がドアの向こうにあるという事実だけで、私の心拍数は下がりそうになかった。
これが、私の新しい日常。
甘やかで残酷な、檻の中の生活の始まりだった。
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