第2話 Aクラスの面談

案内されたのは地下にある面談室だったが《地下》という言葉から連想される閉塞感は皆無だった。

間接照明が柔らかく壁面を舐め、空気清浄機が静かに森の香りを吐き出している。

ソファの革は吸い付くように柔らかく、座った瞬間に身体の輪郭が曖昧になるような錯覚を覚えた。

「お待ちしておりました、如月様」

コーディネーターと名乗る四十代半ばの女性が現れる。

仕立ての良いスーツ、完璧にセットされた髪、そして何より《観察する目》を持っていた。

値踏みされている。


私は反射的に営業用の笑顔を貼り付け背筋を伸ばす。

「急な予約で申し訳ありません。紹介制と伺いましたが」

「ええ。本来であれば審査に二週間ほど頂戴しますが……昨夜のお電話の様子から緊急性が高いと判断いたしました」

コーディネーターは手元のタブレットに視線を落とすことなく微笑む。

「当サロンは単なる人材派遣ではありません。貴女様の《魂の欠落》を埋めるパートナーをご提案する場所です」

胡散臭い。

私の論理的思考回路が警鐘を鳴らす。

けれど昨夜のあの声の温もりだけがその警鐘をミュートにしていた。


「……具体的にはどのようなサービスを?」

「貴女が望むすべてです」

彼女はテーブルの上に三枚のカードを並べる。

「会話、食事、家事代行、そして添い寝。肉体関係以外のあらゆる《親密さ》を提供します。ランクはCからAまで」

「ランク?」

「パートナーの《共感能力》と《技術》による格付けです」

私は息を飲む。

人間をスペックで格付けし商品として陳列する。

あまりに非人道的で、だからこそ魅力的だ。

感情という不確定要素を金銭で管理できるのだから。


「一番上のランクをお願いします」

即答だった。

中途半端な慰めならいらない。

毒にも薬にもならない優しさなど私の頑丈な鎧には傷一つつけられないだろう。

「承知いたしました。Aクラスですね」

コーディネーターは一瞬だけ鋭い光を目に宿し、壁面にあるマジックミラーらしきガラスの方を見た。

「ちょうど一名、待機している者がおります。彼女は……少々特殊ですが」

「特殊?」

「ええ。適合するクライアントを選ぶのです。彼女自身が」

生意気な。

私は内心で毒づく。

商品が客を選ぶというのか。

「会わせていただけますか」

「では、こちらへ」

コーディネーターが操作盤に触れるとガラスの不透明度が変化し隣室が露わになる。


そこにいたのは、春だった。

そんな非論理的な比喩が脳裏に浮かぶほど彼女のまとう空気は異質だった。

クリーム色のニットワンピース。

緩く巻かれた栗色の髪。

窓辺の椅子に座り文庫本を読んでいる。

それが彼女の源氏名だと教えられた。

ふと彼女が顔を上げる。

ガラス越し。

こちらの姿は見えていないはずだ。

なのに視線が絡み合った。

心臓が跳ねる。

彼女はゆっくりと文庫本を閉じ、立ち上がり、そしてガラスの向こうから私に向かって微笑んだ。

営業用の完璧な笑顔ではない。

迷子の子供を見つけた時のような、あるいは傷ついた野良猫を見つけた時のような。

慈愛と、ほんの少しのが混じった瞳。


「……彼女で」

私の口が勝手に動いていた。

理性が追いつく前に本能が彼女を指名していた。

「彼女がいいです」

「……なでしこも、貴女を選んだようです」

コーディネーターの手元の端末が震える。

隣室からの通知だ。

『契約希望。最優先で』

短いメッセージが表示されているのが見えた。


数分後。

彼女が面談室に入ってきた。

空気が変わる。

張り詰めていた緊張の糸が彼女の歩調に合わせて緩んでいく。

「初めまして、玲奈さん」

名前を呼ばれただけで鳥肌が立った。

声だ。

「貴女が……」

「はい。昨夜はお辛かったですね」

彼女は私の前のソファに腰を下ろさず私の隣に膝をついた。

床に直に。

そして私の凍りついた指先を両手で包み込む。

「冷たい」

彼女は悲しげに眉を寄せ私の手を自身の頬に押し当てた。

「温めますね」

「なっ、何を……」

「面談です。相性確認(マッチング)には肌の温度を知るのが一番早いですから」


詭弁だ。

けれどその温かさは圧倒的だった。

彼女の体温が血管を伝って心臓へと流れ込んでくる。

私の強張った肩から力が抜けていく。

「……私は、仕事が忙しいの。家には寝に帰るだけ。部屋も荒れてるし食事も適当。それでもいいの?」

私は予防線を張る。

幻滅されたくないという臆病な自尊心。

なでしこは私の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「だからこそ、私が必要なんです」

彼女は私の手の甲に唇を寄せるような仕草をし――触れる寸前で止めた。

その寸止めが、直接触れられるよりも遥かに扇情的に神経を逆撫でする。

「貴女の鎧、重そうですね。私が毎日、少しずつ脱がせて差し上げます」

「鎧なんて……」

「ありますよ。ここにも、ここにも」

彼女の指先が私の眉間、そして胸元を空中でなぞる。

触れられていないのに熱を感じる。

「私に預けてください。貴女の疲れも、孤独も、全部」


それは悪魔の契約のようだった。

あるいは天使の救済。

私は頷くことしかできなかった。

契約書にサインをする手が震えていたのは恐怖からではない。

これから始まる《甘やかな破滅》への予感に、身体が歓喜していたからだ。


***


帰り際、コーディネーターが言った。

「彼女はAクラスの中でも特別です。くれぐれも……しすぎないようご注意を」

忠告は右から左へ抜けていった。

私の頭の中は既に、今夜から始まる彼女との生活で埋め尽くされていたのだから。


外に出ると、東京の空は相変わらず灰色だった。

けれどその灰色が少しだけ優しく見えたのは、ポケットに入れた契約書の重みのせいだろうか。


『月額五拾萬円』


それが私の聖域(サンクチュアリ)の値段だった。

安いものだ。

そう、この時はまだ本気でそう思っていたのだ。

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