限界バリキャリ、月額50万で「プロのヒモ女子」を飼う。 〜天国か地獄か?帰宅即、全肯定甘やかし生活〜
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第1話 限界シグナルと秘密の扉
午前二時十七分。
東京都港区の高層ビル群は死んだように沈黙しているが二十八階の一室だけが不健全な明滅を繰り返している。
私の指先がキーボードを叩く音だけが乾いた空気を切り裂く。
タッ、タッ、タ……ッ。
リズムが乱れる。
右手の薬指が痙攣し《エンターキー》を押し損ねた。
チッという舌打ちが誰もいないフロアに響く。
自己嫌悪の音がする。
「……如月さん、まだ残ってたんですか」
背後から投げかけられた声に私は反射的に背筋を伸ばした。
脊髄に埋め込まれたパブロフの犬じみた条件反射。
振り返ると警備員が懐中電灯を下げて立っている。
「ええ。ニューヨークとの会議前ですので」
声は冷静だ。
喉の奥が焼け付くように熱いが声帯だけは完璧に調整されている。
「そうですか……あまり無理なさらないでくださいね」
「ありがとうございます。ですがこれが仕事ですので」
警備員は一礼して去っていく。
足音が消えるのを待って私は深く息を吐いた。
(嘘つき)
肺の中の空気がすべて泥のように重い。
(無理なんて、とっくに通り越してる)
視界の端がチカチカと明滅する。
偏頭痛の前兆だ。
私はデスクの引き出しを開け錠剤シートを取り出す。
水はない。
唾液で無理やり胃に流し込む。
食道を通る異物感が私自身の在り方と酷似している気がした。
ディスプレイに映る数字の羅列がゲシュタルト崩壊を起こし始める。
外資系コンサルティングファーム、シニアアナリスト如月玲奈。
二十九歳。
年収二千万円超。
業界紙が選ぶ《次世代のリーダー三十人》への選出。
完璧な経歴。
完璧な外見。
完璧な鎧。
けれどその内側では腐敗が進行していることを誰も知らない。
誰にも知られてはいけない。
スマートフォンが震える。
非通知設定の着信ではない。
クライアントからの緊急連絡だ。
午前二時の電話になんの躊躇いもなく出られる人間だけがこの席に座る資格を持つ。
「はい。如月です」
『夜分にすまないね。例のM&Aの件だが』
「はい。資料は三十分以内に送付可能です」
『頼もしいな。君に任せておけば安心だ』
「恐縮です。最善を尽くします」
通話終了ボタンを押す指が震えている。
(安心?)
スマートフォンをデスクに叩きつけたい衝動を理性だけでねじ伏せる。
(私が安心したい。誰か私を安心させてよ)
誰も彼もが私に《成果》と《解決》を求めてくる。
私は自動販売機じゃない。
コインを入れれば正解が出てくる機械じゃない。
椅子から立ち上がろうとして膝が崩れた。
ガタンと大きな音を立てて高級なオフィスチェアが転がる。
私は床に這いつくばったまま動けない。
冷たいカーペットの感触が頬に触れる。
埃の匂い。
空調の低い唸り声。
ああ、このままここで死んでしまえたらどれほど楽だろう。
明日になれば清掃員が冷たくなった私を発見して、それで終わり。
「……だめ」
掠れた声が出た。
私は這うようにしてバッグを引き寄せる。
内ポケットの奥深くにしまい込んでいた一枚のカード。
黒地に金の箔押し。
装飾は一切ない。
ただの電話番号と《Amour Liaison》という店名だけが記されている。
以前担当した女性役員が退職の際にこっそりと渡してくれたものだ。
『貴女は強すぎるわ。だからいつか折れる。その前にここに行きなさい』
その時は笑って受け流した。
怪しい宗教か新手のホストクラブだと思ったからだ。
けれど今の私にはこれが蜘蛛の糸に見える。
震える指でカードを掴む。
紙の端が指に食い込む痛みだけが現実だ。
(電話……しなきゃ)
視界が歪む。
涙ではない。
ただの生理的な反応だ。
私は泣かない。
泣き方なんて五年前に忘れた。
スマートフォンを操作する指が滑る。
発信音。
プルルル……プルルル……。
深夜二時半。
出るわけがない。
そう思っていた。
『お電話ありがとうございます。Amour Liaison、夜間受付担当でございます』
女性の声だ。
低く落ち着いた、それでいてビロードのように滑らかな声。
事務的なのにどこか体温を感じさせる響き。
「あ……」
言葉が出ない。
プレゼンでは何千語もの言葉を操る私がたった一言の助けを求められない。
喉が痙攣する。
『……お辛いのですね?』
受話器の向こうの声色がふわりと変わった。
マニュアル通りの対応ではない。
私の無言の呼吸音から状況を察したかのような、慈悲深い響き。
「わたし……」
『無理にお話しにならなくて大丈夫ですよ。ただ聞いていてください』
相手の呼吸音が耳元で優しく響く。
まるで隣で背中をさすられているような錯覚。
『貴女は十分頑張りました。もう戦わなくていいんです』
(なんで)
涙腺が決壊した。
名前も知らない相手にどうしてそんなことが分かるのか。
『お名前だけ教えていただけますか? あとは私どもがすべて手配いたします』
「……きさらぎ」
『如月様ですね。大丈夫。もう大丈夫ですよ』
その声は魔法のようだった。
呪文のように繰り返される《大丈夫》という言葉。
私は床に崩れ落ちたままスマートフォンを握りしめていた。
意識が遠のく。
最後に感じたのは冷たいオフィスの床の感触ではなく受話器越しに触れられたような温かな幻覚だった。
***
翌朝。
私は有給休暇の申請を出した。
入社以来初めての私的な理由による欠勤。
向かう先は病院ではない。
港区の閑静な住宅街にひっそりと佇む看板のない洋館。
Amour Liaison。
重厚な木製の扉の前に立った時、足の震えは止まっていた。
代わりに胸の奥で何かが騒いでいる。
これは契約だ。
私は自分に言い聞かせる。
ビジネスとしての癒やしを買いに来ただけ。
感情なんていらない。
ただ機能としての《救済》があればいい。
そう自分に嘘をついて私は扉の
冷やりとした金属の感触。
それが私の人生を変えるスイッチだとはまだ知らずに。
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