第4話 帰宅、3秒前

タクシーの窓を流れる東京の夜景は光の暴力だ。

赤。黄。青。

無秩序なネオンが網膜を焼き網膜の奥にある脳神経をヤスリで削るように刺激する。

私はシートに深く沈み込み目を閉じる。

遮断したい。

光も音も情報もすべて。


「……お客さん、着きましたよ」

運転手の無機質な声が現実に引き戻す。

支払いを済ませ重いドアを開ける。

深夜一時過ぎのタワーマンションのエントランスは相変わらず高級な墓標のように静まり返っている。

ヒールの音だけが響く。

カツ、カツ、カツ。

この音が嫌いだ。

自分が一人であることを思い知らせるから。

エレベーターの鏡に映る自分の顔を見る。

クマ。肌荒れ。充血した目。

年収二千万円の代償がこれだ。


(帰りたい)

自分の家に向かっているはずなのに帰りたいと思う。

(どこへ?)

そんな場所は世界のどこにもないのに。

二十八階のボタンを押す。

浮遊感。

いつもならこの瞬間に胃が縮むような孤独の発作が起きる。

暗く冷たい部屋。

埃の匂い。

コンビニ弁当の空き箱。

それらが待つへの帰還。

けれど今日は違う。

心臓の鼓動がわずかに早い。

不整脈ではない。

期待だ。

それを認めるのが怖くて私は強く拳を握りしめた。


廊下を進む。

私の部屋のドアの前に立つ。

指先が震えて鍵穴にうまく入らない。

(いるの?)

本当に?

(もし寝ていたら?)

(もし幻覚だったら?)

もしドアを開けていつもの暗闇が広がっていたら私はその絶望に耐えられるだろうか。

期待して裏切られるくらいなら最初から期待なんてしたくない。

それが私の処世術であり生存戦略だった。

カチャリ。

鍵が開く音がやけに大きく響いた。

私は深呼吸をし重いドアノブを回す。

覚悟を決めて。

暗闇と対峙する覚悟を。


「――あ」

世界が違った。

ドアの隙間から漏れ出したのは光だった。

蛍光灯の青白い光ではない。

暖炉のような琥珀色の灯り。

そして匂い。

柑橘系のアロマと出汁の香りが混ざり合った奇妙で泣きたくなるようなの匂い。

それが冷え切った廊下の空気を一瞬で塗り替えた。


「おかえりなさい、玲奈さん」


声がした。

幻聴ではない。

廊下の奥からパタパタという軽い足音が近づいてくる。

エプロン姿の大和なでしこ。

彼女は眠そうな目をこすることもなく完璧な笑顔でそこに立っていた。

まるでこの瞬間のためだけに一時間を、いや一生を待機していたかのように。


「遅くまでお疲れ様でした」

彼女は私の前に立ち自然な動作で手を伸ばす。

「鞄、持ちますね」

「あ……うん」

私の肩から重いトートバッグが消える。

物理的な重量だけではない。

《責任》という重圧まで一緒に引き剥がされたような軽さ。

「コートも」

彼女は私の背後に回り手慣れた手つきでトレンチコートを脱がせる。

抵抗できない。

されるがままだ。

私は玄関マットの上で棒立ちになっている。

靴を脱ぐ気力さえ湧かない。


「玲奈さん?」

彼女が顔を覗き込んでくる。

「……ただいま」

やっと出た言葉は掠れていた。

「はい。おかえりなさい」

彼女はふわりと微笑むと私の足元にひざまずいた。

「えっ」

「ヒール、お辛かったでしょう」

彼女の手が私の足首を掴む。

温かい。

その熱がストッキング越しに伝わり冷え切った末端の血管を一気に拡張させる。

彼女は丁寧に、まるでガラス細工を扱うようにパンプスを脱がせた。

解放感。

足指が自由になる感覚に思わずため息が漏れる。

「ふぅ……」

「ふふ。可愛い声」

「なっ……」

彼女は立ち上がり悪戯っぽく笑う。


「さあ、どうぞ。お風呂にしますか? それともご飯?」


古典的なフレーズ。

昭和のドラマでしか聞いたことのない台詞。

けれどそれを完璧なタイミングと声色で言われるとこれほどの破壊力を持つのか。

「……お風呂」

思考能力が低下している私は素直に答えることしかできない。

「かしこまりました。着替えは脱衣所に用意してあります」

彼女は私の背中にそっと手を添えリビングへと誘導する。


リビングは別世界だった。

間接照明だけが灯された薄暗い空間。

テーブルには湯気を立てるマグカップ。

ソファにはふかふかのクッション。

そして何より空気が

湿度も温度も、私をダメにするために計算され尽くしている。

「生姜湯です。お風呂の前に一口飲むと発汗作用が高まりますよ」

マグカップを渡される。

甘くスパイシーな香り。

一口飲むと喉から胃にかけて熱い塊が落ちていく。

「美味しい……」

「よかったです」

彼女は満足そうに頷く。

その笑顔を見た瞬間私の内側で何かが切れた。

プツン、と。

張り詰めていた糸が。

今日一日、いやこの数年間ずっと私を支えていたという名のワイヤーが。


「……っ」

視界が滲む。

「おや」

なでしこは慌てる素振りも見せずそっと私に近づいた。

「限界でしたか」

「ちが……別に、泣いてない」

「ええ、泣いてませんね。ただ目から汗が出ているだけです」

彼女はハンカチを取り出し私の目元を優しく押さえる。

子供扱いだ。

屈辱的だ。

なのに心地いい。

「頑張りましたね、玲奈さん」

その言葉は凶器だった。

一番言われたくて一番言われたくなかった言葉。

「今日も一日、偉かったです。生きて帰ってきただけで百点満点です」

「……子ども扱いしないで」

「子どもですよ。ここは貴女が大人でいなくていい場所ですから」

彼女は私の頭を胸に抱き寄せた。

よしよし、と一定のリズムで背中を叩く。

心音が聞こえる。

トク、トク、トク。

そのリズムに私の心臓が同調していく。

(ああ、ずるい)

(これは反則だ)

(お金を払っているからって、ここまでされたら……)

勘違いしてしまう。

自分が本当に愛されているのだと錯覚してしまう。


「……コート」

私は彼女の服の裾を握りしめる。

「ん?」

「脱がせてくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

「靴も……ありがとう」

「お安い御用です」

「待っててくれて……ありがとう」

言葉が止まらなくなる。

謝罪よりも感謝よりも《依存》の言葉が溢れ出す。

「ずっと……待ってて」

「ええ。契約期間中は」

彼女は残酷なほど正確に答える。

「契約が続く限り私は貴女のものです」

その一言が冷水を浴びせられたように私を現実に引き戻す……はずだった。

けれど今の私にはその《契約》さえもが救いに聞こえた。


お金さえ払えば彼女は裏切らない。

感情や気まぐれで私を捨てたりしない。

絶対的な保証。

それがどれほど安心できることか。

「……契約更新、予約しとく」

彼女の胸に顔を埋めたまま私は呟いた。

なでしこがくすりと笑う振動が伝わる。

「気が早いですね。まだ四日目ですよ?」

「いいの。……離さないで」

「はいはい。お風呂が冷めちゃいますよ」

「あと五分……このまま」

「じゃあ、あと五分だけ」

彼女は私のわがままを受け入れ抱擁の力を強めた。


私は泥のような安らぎに沈んでいく。

玄関からここまでのたった数メートルで私はエリート社員から無力な迷子へと成り下がった。

そしてそれを誰よりも望んでいた。

明日もまた戦場へ行ける。

この帰る場所があるなら。

そんな甘い予感を抱きながら私は彼女の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。

これが私の堕落の始まり。

あるいは再生の始まり。

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