#160 エイト・ランカシア・ラッズ 埃と板の上の夢
魚住 陸
エイト・ランカシア・ラッズ 埃と板の上の夢
第1章:埃と板の上の夢
1898年、ヴィクトリア朝末期のイギリス北部、ランカシャー地方の産業都市ウィガン。町の空気は、石炭の微細な粉塵と、綿工場から排出される油の粘りついた匂いで重苦しく澱んでいた。少年たちのほとんどは、朝から晩まで工場や炭鉱の地下で働き、僅かな賃金で家族の口を糊していた。
その重い現実から唯一解放される場所が、町の片隅にあるパブ「黒い石炭」の二階、埃まみれの稽古場だった。そこには、下駄ダンス一座「エイト・ランカシア・ラッズ」の8人の少年たちが集まっていた。彼らが履くのは、作業用の木靴の底に真鍮や鉄の鋲を打ち付けた、簡素なクロッグシューズだ。
一座のリーダー、ジョージ(13歳)は、他の少年たちよりも一回り大きく、その眼差しには歳の割に深い影が宿っていた。彼のステップは、ただ正確なだけでなく、内に秘めた焦燥と希望を叩きつけるように力強かった。彼の稼ぎは、肺を病んだ母親の薬代に消える。ダンスは、彼にとって芸術ではなく、家族の命綱だった。彼らが目指すのは、8人全員の動きと下駄の音が完全に一つになる完璧な群舞。それが、客の拍手と、ひいては高額な契約を勝ち取るための絶対条件だった。
その夜、座長が連れてきた新メンバーの存在が、張り詰めた緊張を一層高めた。
「お前らに告げる。今日から『エイト・ランカシア・ラッズ』は、このチャーリー(10歳)を含めた8人で動く。ロンドンから来たが、顔は利く。お前ら、仲良くやれ!」
チャーリーは、ランカシャーの少年たちのような貧困と埃にまみれた生活をしていない、どこか洗練された印象があった。彼の細い手と、故郷の訛りとは違うロンドンの発音が、ジョージの苛立ちを募らせた。ジョージにとって、この一座は、不確かな要素を許容する余裕がないほど、切実なものだったのだ。
第2章:ロンドンからの異邦人
新メンバーのチャーリーは、一座が共同生活を送る、狭く薄暗い寄宿舎に加わった。彼の持ち物は、他の少年たちの粗末なものとは違い、どこか垢抜けていたが、その存在はランカシャーの少年たちにとって、異質な「ロンドンっ子」として疎外の対象となった。
特にジョージは、彼の技術的な未熟さに神経を尖らせた。チャーリーのクロッグダンスは、軽やかさばかりが目立ち、ランカシャー特有の、床を叩き割るような泥臭い力強さが欠けていた。ステップは常に他の7人からわずかにズレ、一座の完璧なハーモニーを損なった。
「おい、ロンドンっ子。ランカシャーのクロッグは、お前のタップダンスじゃねえ。ここは炭鉱夫の魂を叩きつけろ。もっと低く、強く叩きつけろ!」
ジョージは容赦なく指導した。彼らは、石炭車の冷たい貨物室に身を寄せ合いながら、英国各地のミュージックホールを巡業し始めた。旅路は常に過酷で、食事も満足にとれない日が続いたが、舞台に立つ一瞬の熱狂だけが彼らを支えた。
ある小規模な地方公演での出来事。客席は賑わっていたが、舞台の隅で、チャーリーが激しく緊張し、足を踏み外しそうになった。完璧な群舞が崩壊寸前になり、客席に動揺が走った。
「失敗だ…」ジョージはそう確信した。
しかし、ジョージの体は本能的に動いた。彼は、自分のパートの正確なステップを破り、転びそうになったチャーリーを指差しながら、自分もわざと大袈裟に板の上で滑って転倒してみせた。その間、他の少年たちは咄嗟にフォーメーションを調整した。ジョージのコメディ仕草は、失敗をコメディの一環に変え、客席は予期せぬユーモアに大爆笑した。
カーテンコールで、ジョージは無言でチャーリーを前に押し出した。舞台裏に戻ったチャーリーは、生まれて初めて、自分に向けられたジョージの優しさに触れた。その夜、二人は寄宿舎の隅で、初めて互いの夢について語り合った。ジョージの胸の内にある重圧と、チャーリーが秘める「コメディアンになりたい!」という夢。わずかながらも、二人の間に「信頼」という名の絆が芽生えた瞬間だった。
第3章:ミュージックホールの喧騒と孤独
少年たちが巡業するミュージックホールの裏側は、まさに人間模様の縮図だった。きらびやかな舞台の照明とは裏腹に、裏側は常に埃っぽく、汗と安酒の匂いが混じり合っていた。「エイト・ランカシア・ラッズ」の演目は、派手な曲芸や、流行の歌の合間を埋める、地味な「つなぎ」の演目として扱われることが多かった。彼らの控え室は常に一番奥の、狭くて窓のない部屋だった。
しかし、舞台に立てば、彼らは誇り高き職人だった。彼らの夢は、自分たちのダンスがいつか舞台の「主役」になること。ジョージは、その夢を叶えて家族を貧困から救い出すこと。他の少年たちも、故郷の工場や炭鉱の暗闇に戻らないことだけを願っていた。
チャーリーの夢は、コメディアンとしての成功だ。彼は、舞台の袖や楽屋で、ベテランの芸人たちの仕草や表情を熱心に観察していた。彼はクロッグダンスの練習以上に、観客の反応を分析することに情熱を注いだ。
座長は、そんな少年たちの個々の夢には興味を示さなかった。彼にとって「エイト・ランカシア・ラッズ」は、厳密に計測された「8人の完璧なシンクロ」という、一つのブランド商品だった。
「お前たちは8つで一つだ!絶対に個性を出すな!感情を排し、機械のように同期しろ!」座長の指示は冷酷だった。
ジョージもまた、座長の言葉に従い、自分のステップから感情を削ぎ落とし、完璧な正確さを追求した。彼はこの正確さこそが、家族を救うための絶対的な武器だと信じていた。その結果、一座のダンスは技術的には驚くほど向上したが、観客の心に響く「熱」を失い始め、客席の拍手は、以前よりもどこか冷淡になっていた。ジョージは、観客の反応の微妙な変化に気づきながらも、その違和感を押し殺していた。
第4章:完璧なズレ
そんな時、一座に、一生に一度の大舞台のチャンスが訪れた。ロンドンのウエスト・エンドにある最大級の劇場、「パレス・シアター」の年末公演への出演契約が結ばれたのだ。この舞台が成功すれば、彼らは一躍、全国的な名声を手に入れることができるかもしれない。
プレッシャーは極限に達していた。ジョージは、いつになく鬼気迫る表情で、少年たちを完璧なシンクロへと追い詰めた。一日の練習時間は、普段の倍以上になった。
「いいか、パレス・シアターの観客は、ランカシャーの片田舎の客とは違うんだ。一分の隙も見せるな。俺たちの靴の音は、一つでなければならない!」
しかし、チャーリーは、舞台の隅で、自分のパートにコミカルな仕草を付け加えようとしていた。
「ジョージ、頼むよ。このステップの後に、僕が少しだけ遅れて、慌てて追いつく仕草を入れるんだ。それだけで、観客は笑ってくれる!」
ジョージはついに爆発した。
「黙れ!チャーリー、これは俺たちの人生がかかった舞台だ!お前の馬鹿なコメディで台無しにされたくねえんだよ!」
ジョージは怒りに任せてチャーリーを突き飛ばし、二人は激しく衝突した。
その夜、ジョージは一人、劇場裏の石段に座り込んだ。彼は、自分のダンスを突き詰めた結果、それが冷たい技術になってしまったことに気づいた。そして、チャーリーの「笑い」こそが、彼らのダンスに、人間的な「熱」を取り戻す鍵なのかもしれないと悟った。完璧なシンクロではなく、「個々の感情と人間性」を表現することこそが、真の芸術であると…
大舞台の日。劇場は貴族や富豪で埋め尽くされていた。緊張の極致の中で、ジョージは決断した。完璧な群舞の途中、ジョージは座長の厳命を破り、自分のパートを意図的にズラした。そして、力強いクロッグダンスの中に、チャーリーが以前提案した、大袈裟でコミカルな表情とステップを組み込んだ。他の少年たちも一瞬戸惑ったが、すぐにジョージの意図を察し、各々の個性を爆発させた。
それは、技術的には「完璧にズレた」ダンスだった。そして、そのダンスは、客席の冷たい視線を一瞬で打ち破り、劇場全体を大爆笑と熱狂の渦に包み込んだ。
第5章:八つの道、一つの絆
8人の個性が炸裂した新しいダンスは、大成功を収めた。批評家たちは、彼らのダンスを「貧困の中で生まれた、最も力強い人間賛歌!」と絶賛し、彼らは一夜にしてロンドン中の話題となった。しかし、成功の直後に、座長は冷酷かつ合理的な決断を下した。
「一座は解散する。お前たちはもう、8つで1つじゃなくても、個々で充分稼げるはずだ。この契約は、個々の才能を売り出すためのものだ…」
座長にとって、彼らはもはや交換可能な「部品」ではない。しかし、それは同時に、「エイト・ランカシア・ラッズ」という集団の終わりを意味した。少年たちは、それぞれが追うべき個別の夢に向かって進むことになった。ジョージには、家族の生活を一変させるほどの高額な契約金が提示された。チャーリーには、彼のコメディの才能に目をつけたロンドンの大喜劇一座からの誘いが来た。
別れを前に、8人は寄宿舎の薄暗い部屋で、酒も飲まず、ただ座っていた。彼らは初めて心から互いを認め合った。彼らが共有したのは、ダンスの技術でも、貧困でもない。「一つの板の上で、互いの弱さを支え合った、青春の熱い記憶」だった。
「約束するよ、ジョージ。僕、必ず世界一のコメディアンになる!」チャーリーは、涙声でジョージに言った。
「あぁ、お前ならなれるさ。お前のコメディには、人を救う力があるからな!」ジョージは答えた。
「俺は、もう舞台には立たねえ。家族を支えるんだ。それが俺の次の舞台だ!」
彼らは、別れを悲しむのではなく、それぞれの人生の幕が上がったことに、静かに感謝した。彼らの絆は、一座という形が消滅することで、より深い、個人的なものへと昇華した。
第6章:最後の板と下駄の音
一座の少年たちは、正式な解散の前に、最初に出会った故郷ウィガンの小さな劇場で、誰もいない板の上で、自分たちだけの最後のダンスを踊ることを決めた。
深夜、彼らは劇場に忍び込んだ。客席は暗く、舞台の上だけが、彼らの懐中電灯の光に照らされていた。劇場は静寂に包まれ、外の喧騒は届かない。
彼らは舞台に立ち、特別なカウントも指示もなく、ただそれぞれのステップを自由に踏み始めた。ジョージの力強い、地に足をつけたリズム、チャーリーの軽やかで陽気なリズム、他の少年たちの個性的な響きが、それぞれ自由に、しかし調和して響き渡った。それは、もはや「エイト・ランカシア・ラッズ」という集団の完璧なシンクロではなく、8人の異なる人生の魂の響き合いであった。
そして、彼らの下駄の音が止まった。息を切らし、互いに顔を見合わせた。そこには、長い旅路と、激しい衝突、そして深い友情を分かち合った者たちにしか通じない、静かで満たされた感情が満ちていた。ダンスの終わり、彼らはそれぞれが大切にしてきた下駄(クロッグシューズ)を、舞台の隅に静かに並べた。下駄は、彼らが貧困から脱出するために使用した「武器」であり、友情を育んだ「証」であった。
「この靴は置いていく。もう、この靴で踊る必要は俺らには無いからな…」
ジョージはそう言い、彼らは舞台を後にした。それは、「エイト・ランカシア・ラッズ」としての終わりを告げる、彼ら自身の尊厳ある卒業式だった。彼らの下駄の底に打ち付けられた鉄は、それぞれの道を進むための、新しい人生の「道具」へと変わるのだ。
第7章:ランカシャーの記憶(エピローグ)
それから、数十年の時間が流れた。世界は自動車と電灯の時代を迎え、ミュージックホールの熱狂は映画のスクリーンへと移っていた。
ジョージは、故郷ウィガンで、腕の良い大工として地道に働きながら、家族と安定した生活を送っていた。彼は、舞台の華やかな栄光を誇ることはなかったが、その魂には、あの頃のダンスのリズムが深く刻み込まれていた。彼が作る家具や家の床には、無意識のうちに、クロッグダンスのリズムのような正確で力強い木目が反映されていた。
ある冬の午後。ジョージは、修理の依頼を受けた古いラジオを仕事場で直していた。ラジオから流れる、遠いアメリカのニュースが彼の耳に届いた。
「…本日は、喜劇王、チャールズ・チャップリンが、自身の少年時代をモチーフにした新作を発表いたしました。彼の演じるコミカルで人間味溢れる貧しい放浪者の姿は、今や、世界中の共感を呼んでいます…」
ジョージは、手に持っていた鉋(かんな)の動きを止め、静かに微笑んだ。遠い存在となった「チャーリー」が、今や世界を笑わせ、世界を動かすコメディアンになっていることを知った。
「やったな…チャーリー!」
ジョージは立ち上がり、大工として長年履き潰した、分厚い作業用の靴の底を、仕事場の木の床に、軽く、明確なリズムで打ち鳴らした。その音は、ランカシャーのクロッグダンスのリズム、そして、あの若き日に8人で一つの板の上で踊った熱情のリズムと、完全に同じだった。
そして、深く息を吸い込み、静かに、そして確信に満ちた声で呟いた。
「あのリズムは、俺たちから消えねえ。俺の血となり、骨となり、このランカシャーの土台になったんだ。チャーリー、お前が世界を笑わせる限り、俺たちは、今もエイト・ランカシア・ラッズだ!」
「エイト・ランカシア・ラッズ」という一座は消滅した。しかし、彼らが共有した「貧しさの中で夢を見た熱情」と、「一つの板の上で互いを支え合った不滅の絆」は、それぞれの人生を支える、最も力強く、温かいリズムとなって、永遠に響き続けるのだった…
#160 エイト・ランカシア・ラッズ 埃と板の上の夢 魚住 陸 @mako1122
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