第4話 哀しき白薔薇の葬列

 オフェリアの葬儀を広く伝える鐘の音が、嘘のように透き通った青空に吸い込まれて行く。


 その物悲しくも硬質な音に驚き、鐘楼に屯していた鳩が一斉に飛び立ったのを、エリシュカはぼんやりと見送っていた。


 ──違うのに。オフェリアあの子が行くべき場所は『ここ』じゃなかったのに。


 『ここ』とは、ラザレスク子爵の領地で最も大きな、由緒ある教会のことだ。


 その建物は明らかに老朽化していた。白い尖塔の壁は所々欠け、赤い屋根は風雨や烈日に晒されてきたせいか、白い絵の具で暈したかのように斑になってしまっている。


 何より、オフェリアたちが婚儀を予定していた大聖堂に比べると余りにも質素で、小ぢんまりとしていた。


 ──父様が亡くなって一年しか経たないのに、また喪服に袖を通すことになるなんて……


 葬儀に参列するため、エリシュカはシルクのドレスではなく光沢のない絹綿交織物ボンバジン生地の喪服を身に纏っていた。


 厳かな式では華美な装飾品の類は着用を許されていない。身に付けているのは縮緬クレープ生地の喪章とヴェールのついた黒い小さな帽子だけで、それが全てだった。


 幾度となく袖を通したはずの喪服だが、ごわついた生地はエリシュカの肌に馴染まず、身も心もざわざわと掻き乱した。


 自身を落ち着かせようと、エリシュカは右腕をそっと撫でる。その瞬間、高らかに五度目の鐘が鳴り、エリシュカは、はっと息を詰めた。


 女性に対する弔鐘は計九回鳴らされるしきたりである。最後の鐘が打ち鳴らされた後、じきにオフェリアの葬儀は執り行われる手筈だ。


 行かなくてはいけない──そう思うのに、エリシュカの足はまるで影を地面に縫い留められたかのように動かない。


「──エリシュカ?」


 不意に教会の正門が開き、アルフレートが立ち尽くすエリシュカを驚いたように見つめている。


「そんな所で何をしている。もうすぐオフェリアの葬儀が始まるというのに……!」


 アルフレートは少し怒ったように言って、エリシュカの手首を掴んで引き寄せる。


 その力は思いの外強く、エリシュカは思わずたたらを踏んだ。転倒しそうになって、エリシュカの両足はようやく動くことを思い出したらしい。


 だが、今のアルフレートにはエリシュカの歩幅を尊重するつもりはないようで、エリシュカは半ば引きずられるような格好で教会の中に連れ込まれる。


 その時、既に集まっていた参列者たちが何事かと二人を振り返った。彼らは何か痛ましいものを見つけたように眉を顰め、ひそひそと言葉を交わし合う。


「まぁ……カタルジュ家の……」


「お可哀想にね……」


「……それにしても、こんなに早く葬儀を執り行うなんてねぇ。急ぐ理由でもあるのかな。暑さの堪える時期でもないだろうにねぇ」


 普通、貴族は一週間から十日ほどは念入りに準備を重ねてから葬儀を執り行うものだ。


 しかし、オフェリアが死去したのは花残月はなのこりつき二十一日で、今日の日付は二十六日──わずか五日しか経っていない計算になる。


 ──確かに、そうなのよね。でも、婚礼の招待客は遠方から来られた方もいたようだし……


 彼らの何人かは葬儀の参列のためにラザレスク子爵の領地にそのまま留まったと聞く。


 彼らを長らく辺境に留めおくのも忍びなく思った子爵の配慮だとエリシュカは思っていたが、やはり不審に思う人々も少なからずいるらしい。

 

 エリシュカは不躾な視線や言葉に居心地の悪さを感じながらも、俯いて同情と好奇の視線をやり過ごす。


 やがて兄に促されて最前列の長椅子に座った。


 そこは祭壇に安置された棺に最も近い席だ。少し手を伸ばせば、棺の周囲に飾られた白薔薇に届くほどの距離しかない。


 それは故人の親族でなければ許されない席次であった。本来ならばオフェリアの夫と義理の妹になっていたアルフレートとエリシュカに対する、遺族からの最大限の計らいであろう。


 しかし、格別の配慮を受けたにも関わらず、隣に座ったアルフレートの振る舞いにはささくれのような棘が見え隠れしている。エリシュカは不思議に思って首を傾げた。


「あの、兄様……? オフェリアとの最期のお別れは……ちゃんと出来たの?」


 そもそも、アルフレートがエリシュカより先に教会の中にいたのはオフェリアとの最期の対面を果たすためである。


 エリシュカは兄とオフェリアが二人きりで会えるよう、立ち会いを辞退していた。


 否──オフェリアの死に面と向かって向き合うことが恐ろしくて逃げ出したのだ。


 兄のためという言葉に嘘ではないが、エリシュカが現実から目を背けたのもまた事実である。


 しかし、アルフレートは険しい顔で小さく首を振る。ところが、彼は弱りきった様子で背を丸め、頭を抱えた。


 こんなにも落ち込んだ様子のアルフレートを見るのは初めてのことである。エリシュカはアルフレートを慰めようと、そっと背中に手を添えた。


「……子爵夫妻にはオフェリアを埋葬する前に、一目会いたいと頼み込んだよ。だが、断られた」


「そんな、どうして……」


 アルフレートは唇を引き結ぶ。少し迷うような素振りを見せたが、ついに絞り出すような小さな声で答えた。


「オフェリアの遺体はとても、正視に耐える状態ではないから、と。……そう、言われた」


 アルフレートの背中を撫でるエリシュカの手がびくりと止まった。


 確か、ラザレスク家の馬丁からオフェリアの訃報を受けたセザールは「オフェリアは部屋から墜落死した」と言っていなかっただろうか。


 だから──これは恐らく、そういうことなのだろう。


「……何が『見ない方が御身のためだ』だ……! 子爵夫妻は、その程度で私のオフェリアへの愛が揺らぐと思っていたのか……! オフェリアに対する覚悟はその程度のだったと──そう思われていたのか……!」


 軍事貴族であるアルフレートにとって、傷病や死はあまりにも身近である。


 今は戦のない平和な時代が続いているとは言え、軍人に与えられる任務はそもそも危険なものが多かった。正視に堪えぬようなともがらの遺体を目にしたのも一度や二度のことではない。


 だが、アルフレートはどれほど凄惨な遺体であっても目を逸らしたことはない。最高司令官として部下一人一人と向き合ってきたという自負がある。


 だからこそ、遺体の損傷を理由にオフェリアの最期に向き合うこと機会を奪われたことは、アルフレートにとっては耐え難い屈辱であった。


「それほど、お怒りなのに……何故兄様はご遺族のご意向を受け入れられたの?」


 アルフレートは辺境伯でラザレスク家は子爵だ。身分差を考えれば、アルフレートがラザレスクに従う謂れなどない。


「……遺族に『オフェリアは愛しい人に傷付いた身体を見られたくないと思う』と──そう言われてしまえば……私に一体何が言えるというんだ?」


 アルフレートは声を抑えていたが、悔しげに拳を握りしめる。


 エリシュカは何も言えなかった。


 エリシュカはまだ恋を知らない。それでも、愛しい人の最期の記憶として残るのならば、美しい姿だけを留めさせたいという遺族の──オフェリアの気持ちも理解できる。


 どちらが正しいなどという話ではなく、うまく願いが重ならなかったからせいで起こったすれ違いなのだ。


 アルフレートはそのことをよく理解していた。だからこそ、我を通すことなく、遺族とオフェリアの心情を慮り、そっと身を引いたのだろう。


「兄様……」


 エリシュカは涙を堪えて瞑目し、アルフレートの背中を撫でる。


 それで漸く落ち着いたのか、アルフレートは常の冷静さを取り戻し、姿勢を正した。


「……すまない。取り乱した。最期に一目会うことは叶わなかったが、だからといって彼女への愛が薄れることはない。だから……これでいいんだ」


 そう言ったアルフレートの瞳には美しい一雫が輝いており、エリシュカは気付かないふりをして前を向く。


 その時、九回目の弔鐘が鳴った。厳格そうな司祭が聖堂の奥の扉から現れ、ゆっくりとした足取りで祭壇に登る。


 いよいよ、葬儀は始まろうとしていた。

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