第3話 月下散華の玉梓

『どうして、母様と弟は死んでしまったの?』


 九年前の冬、当時八歳だったエリシュカは女児用の喪服に袖を通し、二つの墓碑の前で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


 一つはエリシュカに弟が出来ることを心から喜んでいた母のもの。それよりもずっと小さな墓碑は産声を上げることなく冷たくなった弟のものだ。


 墓碑に刻む名も無いというのを哀れに思って父がサシャと名付けたが、そう呼びかけてやる機会はついに訪れなかった。


『……エリシュカ……気をしっかり持つんだ。父様と兄様がついてるからな』


 そう言って慰めたアルフレートとて、当時は十二歳の子どもに過ぎなかった。涙は見せていないものの、声は哀しみに濡れて明らかに震えていた。


 今から思えば、先に妹に泣かれて泣くに泣けなかったのだろう。それでも、その事で兄に恨み言を言われた記憶はない。


 それよりも、参列者たちの心ない言葉のほうがエリシュカの奥深く、柔い部分に刻まれている。


『お可哀想に。名家のお嬢様がよりによってお母様を亡くされるなんて』


『お母様がいらっしゃらないなら、いくらカタルジュと言えどデビュタントは難しいのじゃなくて?』


 デビュタントとは、十六から十八歳の令嬢たちが一人の成熟した女性となったことを広く知らしめる、最も重要な式典の一つである。


 同時に、同世代の令息と知り合う絶好の機会でもあった。


 但し、高位の貴族令嬢で教養と社会貢献の実績があり、かつ母親の引率がなければ参加する資格すら与えられない、狭き門だ。


 エリシュカと同年代の少女が、大人たちの会話を聞いて衒いなく笑う。


『わたしにはちゃんとお母様がいてよかったぁ。早くデビュタントに参加して素敵な淑女レディになりたい』


 少女の母親は子どもの特有の無垢な悪意を叱るでもなく、そうねぇと笑った。


「今後のお付き合いについては、考えなくてはね」


 デビュタントに参加出来ない令嬢は一人前とは見なされず、こと人脈づくりにおいては遅れをとる。


 エリシュカとの付き合いは彼女たちに旨味がない。それ故に手を引く──そういうことだろう。


 エリシュカは何も言い返せなかった。自身の気質や人柄ではなく、家柄や人脈がものをいう世界で、子どもの自分は事実まだ何も成せてはいないのだから。


 そこに、あら、と愛らしい声が割って入る。


『彼女はバルデス伯爵夫人の姪ですもの。彼女の後ろ盾があるのですから、それはいらぬ心配というものでしょう』


 銀の髪を綺麗に結った、目を疑うほどに美しい少女だった。黒い喪服に身を包んでいると、肌の白さやきめの細かさが際立ち、恐ろしく出来の良い陶器人形ビスクドールを見ているようだった。


 伯爵という爵位自体は辺境伯と同等かそれ以下だが、歴史は古く忠臣の家系が多い。そのためなまじ高位の者より、王に重用されている者も多かった。バルデスもその類の家門である。


 その夫人が引率を務めると言えば、母親が不在でも問題はない──と少女は言う。それは他家の事情に口出しするなという警告でもある。


 親子は少女の真っ当な指摘に苛立ちを見せたが、分が悪いと悟ったのか、葬儀の途中であるにも関わらずその場を辞去した。


 誰からともなく発せられた無礼者、という鋭い言葉が親子を追い掛けて行ったが、果たして彼女たちの耳に届いたかは分からない。


『あ、あの……ありがとう……ございます』


 エリシュカは庇ってくれた少女に頭を下げる。


 エリシュカとそう年も変わらないのに、他家の歴史に精通していることは驚嘆に値したし、窮地を救ってくれた姿には淡い憧れも抱いた。


 ──友達になりたい。


 そう申し出てもよいのかと迷うエリシュカの手を、少女はそっと優しく包んだ。


『私はオフェリアというの。よかったら、友達になってくださらない?』


 これが、エリシュカとオフェリアの最初の出会いである。



■□■



「──あったな、そんなことも。それからオフェリアはよく城に遊びに来るようになった」


「ええ、勉強に励まれていた兄様を引きずって、三人で中庭で遊んだわね。昨日のことのように覚えているわ」


 アルフレートは少し肩をすくめてみせるが、やがて愛しさに満ちた目でふっと微笑んだ。


「あの頃は何故私まで……と、不思議に思ったものだが。正直に言えば、私も母と弟の急逝で随分と落ち込んでいた。……オフェリアは元気付けようとしてくれたのだろう」


 エリシュカは同意するように頷く。


 友人として付き合ってみて分かったことだが、オフェリアはしっかりしているというよりは、寧ろふわふわとしていて、よく笑った。


 それでいて、こちらに有無を言わせない押しの強さも持ち合わせていて、いつの間にか彼女のペースに乗せられているのだ。だが、それが非常に心地良かった。


「オフェリアにはとても感謝しているの。最初はオフェリアに兄様を取られるんじゃないかって思ったこともあったけれど──」


「……初耳だが? おざなりに扱ったつもりはないが、お前が疎外感を感じていたのなら本当に申し訳ない事をした」


 すまない、と謝罪の言葉を口にするアルフレートに、エリシュカは慌てて首を振る。


「ち、違うわ。お二人の仲がよくて羨ましかっただけ。それに、兄様は十三歳で寄宿学校ボーディング・スクールに行ってしまったけど、その間もオフェリアはとてもよくしてくれたわ」


 その言葉を聞いて、アルフレートは少しほっとしたようだった。険しく寄せられていたアルフレートの柳眉から少しだけ力が抜ける。


「オフェリアはお前のことが大好きだからな。昔の私は、遊んでいるお前たちのおまけのようなものだった」


「あら、まさか不満だった? 可愛い妹とあんなに美しいオフェリアに挟まれていたのに?」


「まさか。可愛らしいお嬢さんたち直々に子守を仰せ付かって光栄だったよ」


「ご挨拶ね、ご自分だって十分子どもだったくせに」


 兄妹は顔を見合わせ、ひとしきり笑い合う。こんなにも穏やかで幸せな時間は本当に久しぶりだった。


「私はお二人が結婚してくれて、オフェリアと家族になれて本当に嬉しい。本当におめでとう 」


 その瞬間、力任せに門戸の叩き金ドアノッカーを殴打する音が城に木霊した。


 二人は驚き、顔を見合わせる。エリシュカの部屋は二階にあり、ホールからも少々離れているため、来客に気付かないことの方が多いくらいだというのに──どれほど強く叩いたのかと呆れるほどである。


「……随分と慌ただしいお客様みたい」


「本当に客かどうかは怪しいがな」


 アルフレートの声音は優しい兄ではなく、冷徹な辺境伯のそれに変わっていた。


「こんな夜遅くに外を徘徊する輩がまともであるはずがない。夜盗はおろか夜廻りすら、吸血鬼の出現を恐れているというのに……」


 吸血鬼──それは夜の支配者であり、その名の通り人の生き血を啜る、恐るべき不死の怪物を指す言葉である。伝承や空想の類ではなく、実際に存在し、この世界を跋扈している人類の敵であった。


 化け物たちの暗躍によって辺境伯領の人間も少ない数が犠牲となっている。数十年遡るだけでも、カタルジュが擁していた一個小隊が一体の吸血鬼を前に壊滅したという記録が残っているほどだ。


 アルフレートは、徐ろに立ち上がった。


「様子を見に行って来る」


「ま、待って、私も行く……!」


 一人取り残されるのが不安で、エリシュカはアルフレートの背中を追う。幸い、アルフレートはエリシュカに歩調を合わせる優しさを見せてくれた。


 明日の慶事のために様々な色花が飾られた廊下を進み、二人は広いホールへと続く階段を降りる。そこには既に数名の使用人が集まっていた。


 彼らは一様に困惑した表情を浮かべており、よく見ると、震えて蹲るみすぼらしい平民の男を取り囲んでいた。


「セザール、何があった?」


 アルフレートが執事のセザールを見つけてその肩を掴む。


 セザールは三十代半ばの柔和な顔つきの男で、使用人の中でも屈指の洒落者である。


 しかし、そんなセザールの口が今は何故か重い。暫く逡巡した末に、セザールはようやく口を開いた。


「この方はラザレスク家の馬丁だそうです。急報を持って早馬で駆け付けて来て下さいました。身元に間違いはございません」


「──ラザレスク家?」


 それは、オフェリアの生家の家名である。


 明日はアルフレートとオフェリアの結婚式であり、オフェリアはもちろん、その両親も大聖堂で顔を合わせる予定である。


 結婚式の予定に変更があるとしても、わざわざ闇夜の危険を冒してまで使用人が言伝を伝えに来るだろうか。


 嫌な汗がエリシュカの背中を伝う。ひどい寒気がした。


 アルフレートも、エリシュカと同じ事を考えていたのだろう。取り乱したラザレスク家の馬丁ではなく、まだ冷静さを保っているように見えるセザールに改めて向き直った。


「……先方はなんと?」


「──っ、」


 セザールは顔を歪める。何度か激情を堪えるように体を震わせた後、振り絞るような声でこう答えた。


「……その。……オフェリア様が、自室から転落され──亡くなられた、とのことです……」


 その瞬間、獣の遠吠えのような哭聲がエリシュカの耳を貫いた。それまで静かに震えていた馬丁が突然頑是ない子どものように泣き叫び始めたのだ。


 エリシュカは、兄の傍から一歩も動けなくなっていた。



 ──…………うそ。



 エリシュカの視界が絶望に染まり、膝から崩れ落ちる。


 それを支えたのはエリシュカの隣に立っていたアルフレートだった。しかし、彼もまた真っ青な顔色をしている。


 セザールの言葉を咀嚼しつつも、頭が理解を拒んでいるのか春の湖と賞賛された碧眼はみるみる内に濁り始めた。


 アルフレートの様子を見て、エリシュカはオフェリアの訃報が自分の聞き間違いではないことを悟った。その瞬間、濃褐色の瞳から一筋の雫が零れ落ちた。


「あ、あ……あぁ────」


 行き場のない哀しみが、滔々と溢れた。


 何故──何故よりによってオフェリアなのだろう。何故こんなにも月の輝く夜に、彼女は落命しなければならなかったのだろう。


 この日、オフェリア・ラザレスクは花のように咲き、そして静かに枯れ落ちた。


 齢十九──生き抜いたと言うには余りにも短く、儚い生涯であった。

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