第7話 返さなくていい服

6月


「あーもうっ!信じらんねーっ!傘あんのになんでずぶ濡れなんだよっ!!」


無人の改札で、俺と白浜は同時にTシャツの裾を絞った。上も下も、何もかもずぶ濡れ。河川敷から駅まで800mを全力疾走したせいで、心臓はもう破れそうだ。


隣では諸悪の根源がハァハァと息を整えている。


「いやー、靴も何もかもグチョグチョだ!」


他人事みたいに笑うから、思わずそいつの眉間に親指をグリッと押し付ける。


「いてっ!痛いってセンセー!ごめんなさい!」


「ったく、こんなびしょ濡れで電車乗れんだろ!」


「大丈夫!立ってるから!」


あまりに清々しい返事に、怒りの熱もすぐにしぼんだ。

どこの駅かと訊いた俺は、返ってきた答えに動揺を隠せない。


――俺の実家の最寄り駅だった。


毎日通った慣れ親しんだ道。

ドッドッドッ……。


胸の鼓動がおかしなリズムで軋む。

瞬きすら忘れて佇んでいると、心配げな声が思考を再開させてくれた。


「センセー?大丈夫か?」


白浜の声でハッと我に返り、慌てて笑みを作って咳ばらいする。


「ここからその駅まで、30分ほどだよな?こんな状態でエアコンの中いたら風邪引いちまう。今、一番大事な時期だろ!」


言われてしゅん……と肩を落とすイケメン。

やることは規格外だが、反省はちゃんとすんだよなぁと、なんとも素直な相手に息を吐く。


着替えなんてあるはずもなく、スポーツバッグの中は濡れた水着とタオルだけ。

だけど、このまま帰すのも違う。


俺は決心して、想像以上に落ち込むそいつの腕をつかんだ。


「センセー?」


驚く顔をわざと睨み返し、「行くぞ、先ずは着替えだ」とだけ告げ、何か言いかける白浜を無視して傘を広げる。



――駅から10分。

学校とは逆方向にある俺のマンションが見えてきた。


エントランスに入ると、ようやく雨から逃れられた。

白浜は建物をきょろきょろ見回し、首をかしげる。


「ここ、ウチんちじゃないけど……」


「アホか!ここは俺んちだ!」


「えっ!?センセーんち!!?」


驚く白浜を尻目に「着いて来い」と促し、3階の奥の部屋へ。

さすがに二人きりで部屋に入るのはまずいから、玄関の廊下で待つよう指示する。


白浜は呆然と目を点にしたまま、黙って待っていた。


中に入った俺は、洗面所でバスタオルを取り出し、濡れた服を洗濯機に放り込む。

リビングで適当なTシャツと短パンをつかみ、自分も急いで着替える。


そのついでに白浜用の服も洗面所に置き、サンダルを突っかけて玄関へ戻る。


着替えの指示に最初は遠慮していた白浜も、


「風邪引いたら俺は泣くぞ!」


と言うと、びっくりした顔で慌てて従った。


その間、俺は廊下で待ちながら高揚する気持ちを抑えられなかった。


雨空を見上げ、一連の騒動に思わずブハッと吹き出した。


ガチャ――。


白浜が玄関から出てきた瞬間、思わず目を見張った。


ぶかぶかのTシャツ、膝下まで垂れたハーパン。

濡れた下着が気になってるのか、動きがぎこちなくて……。


なのに、なんだろう。

不格好なのに、破壊力が半端じゃない。


胸の奥がドクンと跳ねた。


これは電車無理だと結論し、ポンと白浜の頭を弾いて「待ってろ」とだけ告げて部屋へ戻る。


車の鍵と濡れたショルダーバッグを持って玄関へ戻った。


「また濡れるといけねーから、送ってく」


キーを見せると、白浜が目を輝かせた。


「おー!車持ってんの!?」


「大人だからな!」


得意げに言うと、「おーっ!!」と賛辞が飛んできて、悪い気はしなかった。



思いがけない雨のドライブになったが、ナビを入れる必要はない。

地図は頭の中に入っている。


助手席の白浜は、俺のハンドルさばきをじーっと見つめてくる。

その視線が、なんというか……妙にくすぐったい。


「あまり見なさんな!」


そう注意すると、白浜は目を丸くしたあと、真っ直ぐな声で返してきた。


「でも、凄えから!」


運転してる今年26歳の大人に向ける賛辞としては、レベルは低すぎるが、素直すぎて嬉しい。

アクセルを踏む足が軽くなる。


「センセーって、海好きなの?」


後部座席に置いたマスクやフィンを指差す白浜。


水泳は辞めても、水に入るのはやっぱり好きで、2年前、月9の再放送で主人公が沖縄の海に潜るシーンを見て、スキンダイビングを始めた。


囲いのない海の静けさ、息を止めた瞬間だけ手に入るあの浮遊感――。

その時だけはどこまでも自由になれた気がした――。


「まぁ、そうだな。好きかな…。なに?スキンダイビングやりてーの?」


天才スイマーの白浜なら、すぐ俺より深く潜ってしまうだろう。

海中を自由に泳ぐ、本物の人魚のように――。


だが、返ってきたのは意外な言葉だった。


「――海はベトベトすっから嫌いだ…」


「なんだよそれ!」


雨の中、俺は思わず吹き出した。


「あっ、そうだ」


少し元気をなくした白浜に、左ポケットに残っていた金平糖を取り出す。


「俺のポケットには無限の金平糖がある!栄養補給に食べとけ」


虹色の袋が現れた瞬間、白浜の顔がぱっと明るくなる。

白浜はそこから一個だけつまんだ。


「ん?全部いんだぞ」


そう促しても、首を横に振る。

白浜はその一粒を窓に掲げ、ぽつりと言った。


「たくさんはいらないんだ。こうやって一個一個を、センセーからもらうことが特別なんだ……」


その声は、笑っているのに泣いているみたいだった。

白浜は、いつも貰った金平糖を食べない。

ただ大切そうに仕舞うだけ。


――笑っているのに、心の奥は泣いている。


その顔が、どうしようもなく苦しくて。

少しでも明るくしたくて、わざと軽く言った。


「知ってるか?白浜。そのお菓子は”俺のお菓子”なんだ!なぜだか分かるか?」


その瞬間――。

白浜が小さく「ヒュッ」と息を呑むのが聞こえた。


だがすぐに、蕾がふわりと開くような笑みが浮かぶ。


「――星の形してっから……。”星野お菓子”…。だからセンセーのお菓子――」


まさか当てられるとは思わず、驚いている俺を見た白浜は、また静かに続けた。


「――昔。同じこと言ってた人がいるから……」


白浜は再び金平糖を見つめ、虹色に輝く粒を大事そうに手のひらに乗せた。


――そんな会話をしているうち、車は白浜のアパートへ到着した。


白壁の、2階建ての、どこにでもある普通のアパート。

2階の角部屋が白浜の部屋らしい。


俺は、濡れたショルダーバッグから金平糖の大袋を取り出す。


「え?ウチ、こんなにたくさんはいらない。ただ、セっ」


「分かってる」


白浜の言葉を遮り、その袋をそっと手に握らせる。


「持っててほしい。俺が渡せないときに、どうしても必要なときに食べてくれ。だから白浜。そのポケットの金平糖は食べてもいんだぞ。大丈夫だから。俺がいるから」


「…………」


白浜は俯き、袋をじっと見つめる。

突き返されるかもしれない。

やっぱりこんなにはいらない、と。


俺は黙って待った。


数秒後――。


白浜はふっと何かを振り切り、ポケットから個包装を取り出した。

そして、封を開けて――


パクンっ!


と、金平糖を口に放り込んだ。


「……あまい。ありがとう、センセー……」


その声が、儚い。

胸の奥がきゅうっと軋む。

その小さな体に、手を伸ばしそうになったそのとき――。


“ガリボリガリボリ……”


噛み砕く音が車内に響く。


「……へ?」


俺は慌てて行き場のなくなった両手を宙に上げながら、素っ頓狂な声を発した。


いくら砂糖菓子とはいえ、ここまで大きく強度もあるモノを、いとも簡単に噛み砕く強靭な顎に、俺は何やら可笑しくてブッと吹き出した。


白浜はキョトンとしている。


俺はポンと、抱擁の代わりに頭を撫でた。

白浜の顔は、さっきまでの蒼白から一転して、ボボボボっ!と赤く染め上がる。


「だからっ、ウチは女だって!」


憤慨しながら吠える白浜は可愛い。

今度はよしよしと撫でる。

その手を乱暴に掴んで抵抗する白浜に、俺は少し戯けた声を出す。


「知ってるよ。白浜蛍さんが女ってこと!」


「じゃあっ、なんで撫でんだよっ!」


白浜はギャンギャン、仔犬が喚くように声を荒げている。その様子に俺の口元が盛大に弧を描いた。


「まぁ、9か月後に教えてやるよ」


「は??なんだよそれ!今言えよ!」


わぁわぁ文句を言う白浜が可愛くて、俺はまた朗らかに笑った。


「あっ!そうそう!その着替えは返さなくていーからな」


まだ不機嫌そうな白浜にそう言うと、一瞬で白浜の頬が染まった。


「あー、なんかお礼のタイミングなくてすみまん…」


「あー、違う違う。感謝しろって言ってるわけじゃない。まぁ、返さなくて良いとは言ったけど、捨てずに持っといてくれ。な!」


「捨てねーよっ!大切にする!」


その真っ直ぐな白浜の言葉に、俺の心はどこまでも軽やかになり、胸の奥がじんわりとあったかく満たされる――。


『いつか、お前が卒業して、俺が何の足枷もなくお前の家に通える日が来たら。もしそんな日に恵まれたら、そんときは、その服を貸してくれ』


こんな台詞を吐ける日はまだまだ遠いなと、ニヤける口元を左手で覆う。


俺は運転席から降り、エスコートする王子みたいに――。


助手席の人魚姫を迎えに行った。

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