第6話 木瀬の雫と相合傘
6月
市営プールでの部活の後、俺と白浜、木瀬の3人は控え室で大会の体制について話し合っていた。
白浜と木瀬以外のスタメン選手として、女子の清水、男子の瀧川。二人とも今季はベストコンディションだ。
満場一致でスタメンが決まる。だが、ここに白浜と木瀬が一人でも欠ければメダルは遠のく。
それだけ二人の力は他の追随を押し退けていた。
*
三人が市営プールから外に出た頃には、夕方から振り出していた雨は本降りになっていた。
白浜はスポーツバックから折り畳み傘を取り上げ、バッと開く。俺も手元の傘を開くと、何やら動きを止めている木瀬に訝し気な顔を向けた。
「木瀬、傘ないんか?」
俺が立ったまま動こうとしない木瀬にそう言うと、木瀬の口元が弧を描いたと思ったら、白浜の傘を奪い取った。
「おいっ!!」
白浜の非難の声と共に、木瀬の満面の笑みが俺を捉えた。
「ってなワケで、俺はこれで帰るんで、星野ン、後はよろしく〜」
そう言って金髪のイケメンはニヤけた顔を残したまま、白浜の傘と一緒に逃げるようにその場を後にした。
「おいっ!木瀬っっっ!返せっ!!!」
白浜の声は雨の音に無惨にも掻き消される。
俺は木瀬の行動に呆気に囚われていたが、何やら気を遣われたなと、こそばゆく後ろ頭を掻いた。
「……あー。ったく、仕方ないな!ほれ、白浜、帰るべ」
俺が手持ちの傘を白浜に差し出すと、まさかと言った顔でそいつは早口に言葉を綴った。
「でもっ!誰かに見られたらやばいし!」
「まぁー、ビニール傘じゃないし、周りも誰だか分からんだろ。それに見られたところで、傘に入れて歩くだけだ。別によかろ?」
少し、悪戯っぽく答えると、白浜は少し考える素振りを見せ、気恥ずかしそうに「なら、駅までお願いします!」と、頭を下げた。
木瀬の機転のお陰で白浜との相合傘の大義名分を得られて、俺は静かにほくそ笑む。
今日のこの雨を”木瀬の雫”と名付けようと詩人さながらにそう思った。
*
「そーいえば白浜。水泳ない日、別の部活に出てんだって?石田が言ってたぞ」
駅まで徒歩15分の田んぼの畦道を歩きながら、田んぼ側の小さな頭を見下ろすと、白浜は驚いた様子で俺を見上げた。
「えっ?……石田のヤツ。口が軽りぃな…」
「助っ人か何かか?」
職員室で、白浜の身体能力について話題に上がったほど、4月の体力テストは突飛していた。
もしかしたら助っ人か、掛け持ちでもしてんのかと、複雑な面持ちで白浜を見やると、白浜は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「――英検部…」
「英検部!?お前が??」
予想外の言葉に驚きを隠せないでいると、白浜の耳元が赤みを帯び、眉間にシワを寄せた。
「英検部の主将が石田の友だちで紹介してもらった。なんか、めっちゃ分かりやすく教えてくれっから、通ってる」
ぶっきらぼうにそう話す白浜が可笑しくて、その真下の髪をクシャっと掴むと、白浜は瞬時に真っ赤に顔を染め首元を固めた。
「偉いぞ!白浜!偉い、偉い!」
そのままワシャワシャ撫で付けると、さすがにその手を乱暴に押し除けられる。
「子ども扱いすんなっ!だから内緒にしてたんだよっ!」
拗ねる子どもは可愛い。俺は上機嫌に「悪い、悪い!」と溢しながら、今にもスキップしたい気持ちで歩いた。
白浜はぐちゃぐちゃになった髪を手で整えながら、悪態を吐きつつも俺に倣って隣を歩く。
「センセー、誰彼構わずスキンシップすると勘違いされるぞ!!」
拗ねた物言いで唇を尖らせているそいつは、少しパサついた髪を触りながらぶっきらぼうに非難する。何やら不貞腐れた様相に俺の口元は盛大に弧を描く。
「女子にはやらん!」
さすがに女子生徒の身体の一部に触れるのはコンプライアンス違反だと、そんなことは重々承知している。
「はっ!?ウチも女だぞ!」
真横のウサギがキッと睨み上げるもんだから、左手でニヤける口元隠した。
「知ってるよ!口の悪いケンカっ早いお前だけど、ちゃんと女だって分かってる!」
「じゃあ、なんで触んだよ!」
どこまでも尖る口元が可愛い。
コロコロ変わる表情が堪らない。
怒り顔も笑い顔も全部独り占めしたい。
そんなことを考えてるなんて、こいつは微塵も思ってないだろうなと、睨み付けるそいつの頭をポンッと撫でる。
またしても何かを言おうとするそいつの言葉に俺は口角を上げて重ねた。
「さぁ、今はまだ教えてやんねー!」
ブワッと真っ赤になり、白浜は盛大に俺の手を跳ね除け、ギャーギャー騒ぐ。
これ以上揶揄うと本気で怒ってしまいそうで、俺は慌てて話題を変える。
「そーだ!白浜!支部予選優勝のご褒美だ!」
俺が左ポケットから金平糖を取り出すと、抗議していた白浜の動きがピタッと止み、口元をふやかしながらそれを受け取った。
「何回目だよ…」
頬を緩ませながら悪態を吐いた。
今月初旬に行われた支部予選。
明鳳高校は女子50・100m、男子100・200m自由形と、男女混合400mリレーでいずれも好成績を残し、次の都大会に駒を進めたのだ。
白浜、木瀬、清水、瀧川が繋ぐリレーは圧巻だった。
沸々と血が滾り、感動で毛穴から血流が湧き出すのではないかと言うくらいに、全身が痺れ感動した。アンカーの白浜が綺麗にスタート台から飛び込んだときには、その光に目眩すら覚えたほどだ。
「いやー、俺あんとき、マジで水泳部の顧問引き受けて良かったって思ったわ!個人種目は勿論だが、あのリレーは周りの観客全てを惹きつけた。なんか俺も一緒に泳ぎたい!ってそー思わせたくれた!」
水泳から離れ、塞ぎ込んでいたのが嘘のように、あのときの俺は胸の痛みも忘れ、心からそう思った。
あのときの感動が蘇り、興奮さながらにそう言うと、白浜は幸せそうに目を細め「ウチも同じだ!」と力強く笑った。
その言葉が言い様のない幸福を与えてくれているなんて、当の本人は全く知らないんだろうなと、なんだかそれがもどかしくもある。
「ところで、お前って何で全国大会出場してないんだ?」
強豪校海南の水泳部のエースであり、地区予選もぶっち切りで勝利していた白浜が、全国大会に出ていないと聞いたのは、俺が水泳部の顧問を引き受けた翌日のこと。
副校長から、海南高校が作成した白浜の内申書を見せてもらったのだ。
競泳の全国大会、いわゆるインターハイに出場するには、支部予選、都大会、地区予選で規定以上の成績で勝ち進む必要がある。
白浜はその一歩手前の地区予選まで順当、いや、それ以上の成績で駒を進めていた。それも全ての大会で記録を更新するという、偉業を成し遂げている。
それなのに、1年と2年とも地区予選で終わっており、全国には出場していない。
編入試験の面接でそのことを本人に直接尋ねると、何やら言葉を濁したあと、今年は絶対に大丈夫だと、豪語したという。
機会があれば顧問として、教師として、ちゃんと生徒に向き合おうと思っていた。
本当はもうちょっと然るべきところで聞くべきなのだが、こう言った気兼ねないシチュエーションの方が白浜には合っている。
こんな雨の日に、まるで天気の話でもするような、こんな雰囲気が。
少し真面目な俺の言葉に、先ほどまで幸せそうに笑っていた白浜の表情が固まった。
右手に握られた金平糖を凝視しながら、何やら考えたあと、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「――ウチ、外泊禁止だったから…」
「外泊?」
意外な答えだった。
もしかしたらプレッシャーで、体調を崩しやすい体質なのかもと心配していたから、面食らった。
雨音が傘に跳ね返る。
ザ――。
傘の中で聞く雨音が本降りの雨を知らせた。
「去年も一昨年も、日帰りできる場所じゃなかっただろ?九州と四国」
去年と一昨年、大会の場所は佐賀と岡山だった。確かに夕方終わる大会の後、トンボ帰りは難しい。
俺のときはちょうど東京だったから、親が「お金が掛からなくて済む」と、喜んでいた記憶が蘇る。
「旅費とかそーゆうことか?ならうちは大丈夫だぞ。学校側が全面的にサポートするから!」
うちのような学校も、メリットの大きい大会には旅費が出る。でも、明鳳がそうなら海南はもっとちゃんとしているはずと、眉根に力を込めている生徒に目をやった。
「経済的なことじゃねーんだ。精神的な問題ってやつ?ウチは絶対に外泊は許してもらえなかった。どんなにウチが頼んでも、コーチや監督、校長までもが頭を下げても、母親の頭が縦に振られることはなかったんだ……」
白浜は手元の金平糖から目を離し、畦道から既に河川敷に場所を変えた景色を遠目に眺めていた。
白浜の表情は死角になって見て取れないが、酷く疲れた様子だ。
次の言葉が出て来ないでいると、白浜はクルッと向きを変え、吹っ切れた様子で俺を見上げた。
「でもっ、今年は大丈夫だ!今は一人で暮らしてるし、大会だって父親が申請書にサインしてくれる!約束したから。だから絶対に夏のインハイに出場して、センセーに金ピカの金メダル見せてやる!」
目眩がする。その輝きと仄暗い色が混じり合うその綺麗な瞳に……。
「しら…はま…」
俺の左手がその頬に触れそうになった瞬間。
「うおーーーっ!!!」
白浜が雄叫びを上げた。
驚いて固まっていると、白浜はニカっと振り向いた。
「やっべー!なんか知んねーけど気合い出まくった!!センセー、ウチ走るっ!!」
言うが早いか、止める間もなく、その相手は大振りの雨の中、一瞬にして河川敷を走って行った。
「おいっ!バカやろっっ!!」
俺はその後ろを傘を差しながら追いかけるも、全く距離が縮まるどころか、グングン差が開いてしまう。
「あんのバカ!なんであんなに速えーんだよっ!!」
走りに自信のある俺が女子生徒に追いつけないなどと、自尊心が許さない。
俺は傘を閉じ、ウサギを追いかけるオオカミの如く、全速力でそいつを追いかけた――。
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