第3話 白浜、赤点危機
5月
いつもどおり、豊富な野菜で彩る手作り弁当を摘んでいると、久々に顔を見た千堂先生が嬉しそうに尋ねてきた。
「星野先生、水泳部はどーお?」
妊娠4か月に入ってもまだつわりが続く千堂先生は、5月の連休明け、ほかの教師よりも1週間遅れて出勤した。
話を聞くと、4月後半から5日間、入院して点滴生活だったとのこと。
あんなに健康的な身体が、今ではひょろひょろと、見ていていたましい。
子一人を産み出すお母さん方に、本当に頭が上がらない。
お袋、ありがとな!
なんて、本人には恥ずかしくて言ったことのないセリフを、胸の中で唱えた。
「絶好調です!二人のエースの上達ぶりに、周りの部員も感化されているのか、全体的に調子が良いです!」
白浜の指導ノートが役に立っているのも言わずもがな。
欠点を指摘した俺の言葉を、どの部員も真摯に受け取ってくれ、自主練にも余念がなかった。
俺の時より、素晴らしいチームだと思った。
「さっき、部員の子たちに会ったけど、生徒達が言ってたよ!星野先生の指導は的確で完璧だ!って」
嬉しそうに目元を綻ばせる千堂先生の言葉に、俺はポリポリと後ろ頭を掻いた。
だが千堂先生は、先ほどまでとは打って変わって、真剣な顔を間近に移動した。
「でも、気を付けてね!!星野先生!」
「へっ?」
あまりにもの真剣さに、俺は大きく瞬きを溢す。
「白浜さん!」
「なっ、白浜っ?」
予想だにしない言葉に、ドキリとして千堂先生を見た。
「うちの高校、中間や期末で赤点取ると、その間にある試合に出れないってゆー決まり、知ってるよね?」
もちろん知っていた。
俺がここに通っていたときから同じルールだ。
だから、レギュラーに勉強できない生徒がいると、いかつい先輩部員が鬼の形相で教えていた。
懐かしいなと少し感慨深く耽っていると、千堂先生の目元がキツくなる。
「そんな顔してる場合じゃないのよ!白浜さん、かなり成績悪いから!」
「へっ!??」
驚いた。あんなに的確に分析し、部員達のデータを管理している白浜が?
嘘だろ?
「白浜がですか?木瀬じゃなくて??」
木瀬には失礼だが、あの軽薄そうな人間が成績が良いとは思えなかった。本当に失礼だが。
「木瀬くんはオールマイティに全ての教科は平均台!問題は白浜さん!数学と国語以外、壊滅的!
編入試験なんて、水泳の特待枠がなかったら、きっと受かってない!」
「どれくらいの成績だったんすか…?」
教師として、顧問として、聞かないわけにはいかない。俺にはきちんと把握し指導する義務がある。
千堂先生は学年主任以上が見られるフォルダを解除し、「◯年度編入試験結果」と書かれた一つをクリックした。
Excelに記載されていたのは白浜の名前と教科ごとの点数。
それを丁寧に千堂先生が読み上げる。
「国語51点、数学81点、社会22点、理科23点、英語14点」
「えっ!?まっ、えっ!???」
出だしは普通に思えた。
数学なんて凄い。
だがそこから先はなんだ?
聞き間違いかと、思わず千堂先生のパソコンを覗き込む。
間違いなく、その数字は並んでいた。
「あんの、クソ野郎っ!!!英語っ!英語14点ってなんすか!??」
悪態を吐く俺に、千堂先生は苦笑いを見せた。
明鳳高校の赤点は30点未満。このままだと主要教科3つが赤点だ。
「1週間後の中間、今日から部活も停止でしょ?
だからお願い!星野先生にかかってるの!白浜さんの未来が!!」
*
気づくと俺は、3-Aの教室まで全速力で走っていた。
この原動力を一文字で表すと、『怒』だ。
昼休みの教室には、幾人もの生徒が机を合わせ、各自が自由に昼食を楽しんでいる。
数人が「星野ン!」「えっ?どーしたの?」と寄ってくるが、相手にする余裕もなく、目当てのイケメンを探す。
女子生徒の塊から頭一個分飛び出した金髪頭のイケメンと目が合う。
そいつは、ぴょこぴょことこっちに寄ってきた。
「星野ン、どしたん?」
部活のときは『先生』と呼ばされている木瀬も、白浜の目が光っていない今、普段どおりの調子だ。
「白浜は?」
「あー、白浜なら保健室かな?」
「保健室!?」
怒りから心配に感情が切り替わり、少し目線の高い木瀬に歩み寄る。
「怪我でもしたんか!?それとも病気か!??」
木瀬は慌てて両手を振った。
「違うっ!違うから!星野ン落ち着いて!寝てんの。あいつ、この時間、昼寝するのがルーティンなの」
「はーっ!??」
一介の生徒が保健室のベッドで昼寝だと!?
自席ならまだしも、ベッドは違うだろ!
俺は木瀬に礼も伝えず、再び『怒』に変わった感情で保健室まで全力疾走した。
*
ガラっ!
ノックもせずドアを開くと、薬品の匂いが鼻を掠めた。
室内は白を基調としており、南向きの部屋はレースのカーテンを閉めていても明るく清潔だった。
左側の壁には養護教諭執務机があり、そこで昼食を取る西畑先生が驚いた顔を向けた。
「星野先生!?」
「白浜はここですか!?」
二人の声が重なると、西畑先生は悪戯の見つかった子どものように、気まずそうに笑った。
「あーあ、見つかっちゃった!」
視線の先には、淡いピンクのカーテンで仕切られた一角。
ベッドは3台あり、1番左のベッドだけカーテンが閉まっている。
俺はそのカーテンまで歩を速める。
「気を付けてねー」と、西畑先生の声が背中に届いた。
気を付けて?何を!?
疑問を浮かべつつ、カーテンを勢いよく開ける。
そこには、静かに寝息を立てる水泳部主将の姿があった。
「おいっ!起きろっっ!!」
熟睡している相手の耳元に大声を張り上げる。
そいつは我関せずと言わんばかりに眉根一つ動かさず眠っている。
痺れを切らし、両肩をガッチリ掴み、渾身の力で激しく揺すった。
「おい!こらっ!白浜!!起きんかって、このっ!!!」
ようやく瞼がピクっと動き、薄らと瞳が開く。
「おい!!良い加減起きろってっ!!!」
再三の声にも、そいつは薄眼を開けた状態のまま、眉間にシワを寄せる。
その刹那、額が俺の額にめり込んだ。
ゴッ!!!
「いっ!!!だーーーっっ!!!」
鈍い衝撃で俺は額を押さえ一歩後退。
張本人は「おとといきやがれ…」ムニャムニャと言った後、再び寝息を立てる。
「はぁっっーー!!???」
額を押さえ後ろを振り返ると、西畑先生は口元に手を添え、盛大に笑っていた。
「言ったでしょ!気を付けてって!」
「なっ!なんなんすかこれっ!???」
西畑先生は笑いを抑えながら答えた。
「白浜さん、基本は寝てからピッタリ20分後にスマホのアラームで起きるの!でも、こうしてアラーム前に起こすと、毎回寝惚けて面白いことするのよ!今回はケンカの夢かしら。前は動物を可愛がるように抱擁されたわよ!」
顔は嬉しそうで、心なしか高揚している。
「まぁ。そのときの運次第だけど、役得ってやつ?」
贔屓の理由、それはイケメンからのたまにある無防備な抱擁らしい。
言葉にならない抗議も、目の前の危険人物には通じない。
頭突きを食らった俺の額は、赤くジンジンと熱を持つ。それに相反して、真下で眠るそいつの額は少し赤い程度で、ケロリとしている。
その直後、緩やかなアラームと共に、白浜が驚きの声をあげた。
「なっ!!星野センセー!??なんでいんのっ!?」
顔を赤らめ、恥ずかしそうにしている白浜に、俺は盛大に睨み付け、両頬をつねった。
「お前のせいだろーがっ!!」
「へっ!?いひゃいっ!いひゃいっ!!」
イケメンが崩れない中、スッポンのように頬を掴み続ける俺――。
後ろの西畑先生は、その応戦に盛大に笑い転げていた。
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