第2話 水泳部顧問はじめました

4月


「すっ!すんませんっ!!間違えました!!」


驚いて立ち尽くす時間を割ったのは、何処までも伸びやかな声。

深々と頭を下げ、踵を返すその生徒の腕を、俺は慌てて掴んだ。


「白浜か!?水泳部の、主将の!」


「ピピっ!」


先程、千堂先生から聞いた名前を無意識に叫んでいた。

俺のその問いかけに、その大きな目が俺を見上げた。

そうして短い髪の毛がコクンと動いた。


「あー、まぁなんだ。この部屋で合ってる。とりあえず座って」


俺は白浜の腕を外し、俺が座っていた椅子を勧める。

俺はその対面、さっきまで副校長の座っていた場所に腰を下ろした。


気まずそうに、それでも白浜は俺の指示に従いそろりと腰を下ろしたとき、机の上のケイがトトトっと白浜に近付き、その手に頬を擦り寄せた。


「え?ええ??ケイ???」


「ピピピ……」


ケイの存在に驚いた白浜だったが、すぐにその茶色いモフモフを抱き抱え、スリっと頬を寄せた。


「わぁ〜!あったけー。可愛い〜。ヤバい!好きすぎるーーー!!!」


「ピピピピ!!」


その情景に俺は唖然となる。

なんだこれ。なんなんだよ、ケイっ!

俺には、俺にはあんなにツンツンなのに、蹴りとかパンチとかすげーのに、なんで、なんで白浜にはこんなにデレデレなんだよ!!


白浜とケイの愛部は終わらない――。暫くしても二人の世界から戻ってこないため、とりあえず俺は大人気なくも咳払いを溢した。


「あー、千堂先生から聞いてると思うが」


「あっ!いえ…。何も聞いてません…」


急に声をかけられた白浜は、慌ててケイから手を離し、真っ直ぐな姿勢で答えた。

ケイは恨めしそうに俺を見上げている。


俺はケイの視線を軽く無視して、会話を続ける。


「あー、そうか…。千堂先生にも困ったもんだな。えーっと、今日から水泳部の顧問になります。星野白狼です。よろしく!」


ぎこちなく笑顔を作って右手を差し出すと、飛び出るんではないかと心配になるくらい目が見開き、その生徒は勢いよく立ち上がって深々と頭を下げた。


「よろしくお願いしますっっ!!!」


体育会系さながらの最敬礼に、行き場を失った俺の手が宙を仰ぐ。

腰から90℃の姿勢の生徒を、まぁ落ち着けと宥めて、また元の椅子に座らせた。


こんなにも礼儀正しいのに、乱暴な言葉使いのアンバランスが、なぜだか可笑しく、俺はククッと笑った。


それを見たその生徒が、今度は照れならも輝くばかりの笑顔を見せた。


ーーーーっ!!!


何かが弾ける。

なんだろうこの感覚は――。

その強い眼差し、澄み渡る眼光。

俺は昔、こんな眼をした少年を知っている――。


その表情に目を奪われていると、その生徒はまた立ち上がり、今度は通常のお辞儀を見せた。


「水泳部主将の白浜蛍です!よろしくお願いします!!!」


目の前の敬愛するウサギと同じ名前――。

千堂先生から聞いたときには、意識していなかった。だが今は、俺の心にその名前が深く刻まれる。


「副主将は同じ3年の木瀬蓮と言います。今回は主将だけで良いと言われたので、呼んだ方が良いですか?」


「いや、いーよ。今日から参加するから、他の部員のことはそんときに紹介してくれ」


笑みを携えながら言葉を繋ぐと、「分かりました!失礼します!」と、尚も礼儀正しい白浜が、断りを入れてから腰を下ろした。


その拍子に、ウサギのケイは、白浜の膝の上に飛び乗り、嬉しそうに丸まった。

俺の口がピクピクと小さく痙攣を起こす。


それから白浜は、細かく水泳部のことを話してくれた。白浜が作ったという、部員一人一人のデータノートは圧巻だった。


その人に合ったカリキュラム、指導方法、今後の課題がびっしりと書かれている。

これを入部後ひと月で作り上げたという。

その観察力と分析力に、俺は脱帽した。


「すげーな。俺なんかより全然スゴい!なんか俺、いらなくね?」


心から感心して、感嘆の声を漏らすと、意外なほど白浜は、とんでもないと言った顔で首を横に振った。


「ウチは星野センセーがいーんですっ!星野センセーじゃなきゃダメなんです!!もう離しませんっっ!!!」


まるで想い人への告白のような言葉に、俺が瞬きを繰り返すと、自分の言葉の意味が反芻されたのか、白浜の顔はゆでダコのように真っ赤に染め上がった。


「アハハハ!いやー、熱烈な告白だな!分かった!そんなこと言われて断るようなら男がすたる。白浜の熱い気持ちに応えられるよう頑張るよ。これからよろしくな!」


そう言って2度目の右手を差し出すと、目の前の相手は頭の先から『プシュー!』と湯気を出しながらも、ようやく握手に応えてくれた。


とても小さな手だと思った。

とても華奢な手――。


俺はグっと気合を入れ、白浜の右手を確固たる思いで包み込んだ。



「今日から水泳部の顧問になった、星野白狼です。よろしく!」


市営プールに移動する前、校庭の片隅で自己紹介を行うと、女子部員の歓喜の声が上がった。


「えっ?ホント!嬉しい!!」


「星野ンが顧問なんてマジラッキー!!」


キラキラした光線が眩しい。

若いな、なんて思っていたら、今度は男子部員から不満の声が漏れた。


「千堂先生みたいにやれんのかよ」


「あの麗らかな石原先生が良かったー」


まぁ、思春期の男子はそーだろな。女がいーよなー。

なんて、気にも止めずに聞いていると、何処までも冷ややかな声が部員たちを制した。


「ふざけたこと言ってっと、削ぐぞ、オメーら」


その一言で一瞬にして場が静まる。

余程恐れられているんだと、口の悪い、でも礼儀正しい主将を遠慮気味に窺う。


みんなは制服なのに、その相手だけはジャージ姿だった。

爽やかなショートカットで佇む白浜は、どこから見てもイケメンだ。


「それから!この方は、星野センセーだ!ちゃんと敬称をつけろ!それに敬語を忘れんな!ちゃんと敬え!立てろ!尊敬しろ!!」


なんだかもう、恥ずかしすぎる。

さっきも思ったが、この前といい、今日といい、面識もないのになぜこいつは俺のことをこんなにも敬ってんだ?


口の端から「グルルルー!!」と、威嚇の声が聞こえる気がするほど、白浜は周りの部員を威圧している。

皆が縮こまり俯いているとき、金髪頭が軽快な声を発した。


「こえーぞ!白浜!星野ンも怖がってんぞ!」


声の主は木瀬蓮。

ロシア人の父と日本人の母を持つハーフ。

元来の金髪と白い肌が調和し、すべてがイケメンと言っている。


木瀬の声に白浜が狼狽え、眉根を下げた状態で俺を見上げた。まるで不安気に耳を下げているウサギのようだ。


あっ、可愛いっ…。


なんて思ったもんだから、俺は慌ててその感情を押しやる。


「大丈夫だ、白浜。怖くねーから。でも、敬語はいらねーし、別に愛称でいんだぞ!俺、友だち先生目指してるから!」


右手でLポーズを取り、顎を抑えて決めポーズを表した状態で、ニヤッと笑う。

白浜はそれを見て、ウーンと唸った。

何やら考えにふけっている。


「なっ!だからお前たち、好きなように呼んで、好きなように話してくれ!」


腰に手を当てながらそう言うと、白浜が「分かりました!」と引き継いだ。


「センセーが、そう言うなら、それでいいです!でも!!『先生』は付けさせます!それは譲れません!絶対にです!!」


背伸びをしながら、ズイッと俺の顔を覗くもんだから、年甲斐もなく驚いて、一歩退く。

その確固たる瞳に異論を唱えるなんてできない。


「わっ、分かった!分かったから、落ち着け!じゃー、『先生』付きの、敬語なしな!それで良いな!」


部員たちがウンウンと首を縦に振る。

もう、この威圧感から逃れるならどうでもいいみたいだ。

木瀬なんかは腹を抱えて笑っていた。


二人とも先月入部したてなのに、すでにいっぱしの水泳部員となっている。

厳しい白浜の口調に、怖がっている後輩もいるが、なぜかその雰囲気は温かかった。


「んなら、センセー!プールまで行こうぜ!!」


さっきまで敬語があーだこーだと言っていた、礼儀正しい主将の言葉が砕けた。

周りも同様、目を点にしてその変わり映えの早い主将を凝視した。


そんな皆の視線に、意気揚々と出発しようとした白浜の動きが止まった。


「だって!さっきセンセーがいいって!!」


真っ赤になって抗議するもんだから、それが可笑しくて、校庭に大きな笑い声が響き渡った。



市営プールでの白浜の泳ぎは圧巻だった。


木瀬も綺麗なフォームを披露してくれたが、ひと月程度に練習した木瀬と、おそらく幼少期からやってたであろう白浜の泳ぎは、比べものにならなかった。


初めて人の泳ぎを綺麗だと思った。

水の中を自由自在に泳ぐその姿は、まるですべての人間を魅了させる人魚のようだ。

陸上で生活する本物の人魚――。


プールから上がった白浜が、塩素で色の抜けた短い髪を後ろに撫で付ける。

着ているのは半袖ハーパンのセパレートの水着のため、女らしさは微塵もなく、その仕草はただただ男前だった。


泳げば人魚、歩けばイケメン。

色々と俺の脳が処理しきれない。


その相手が頭を振りながらプールサイドを歩き、

スタート台の側に立っている俺に間合いを詰めた。


「どーだ?センセー」


晴れやかな顔。

全身全霊で喜んでいる。

そんな相手が眩しかった……。


なかなか返事をしなかったからだろう。

焦れた人魚は、またクイっと間合いを詰めた。


「あぁ、悪い。ボーっとしてた。いや、凄かった!すっげー綺麗な泳ぎだった!」


俺のその言葉に、鼻先を指で擦りながら、そいつは嬉しそうに目を細めた。

その仕草に、俺の胸の奥に仕舞い込んであった何かが、”きゅう”と音を立てた。


「しかし、やっぱ凄いな!海南のコーチは!」


それを誤魔化すように、少し戯けた様子でそう話すと、少し真剣な顔付きになった白浜の首が横に振られた。


「今のウチがあるのは、海南のお陰じゃない!」


確固たる言葉。

強い眼差し。

なら、誰だ?

こんなにも完璧に指導できるのは……。


困惑な面持ちで小さなエースを見下ろすと、そのエースはなぜだかとても嬉しそうに笑った。


「泳ぎ、教えてくれるんだろ?星野センセー!ちゃんと見ててくれ。一瞬も見逃すことのないよう、ちゃんと。ウチはセンセーに教わりたい!」


そんな台詞を吐きながら、そいつは好戦的に口角を上げた。


「見ててくれな!」


人魚はそう言って、スタート台から綺麗に水の中へ飛び込んで行った。


憎らしいくらい綺麗だった。

泳ぐその姿に魅了され、陸に上がってもその輝きを失わない。

その相手がとても綺麗で――。


「なんだか白浜先輩、いつもより綺麗じゃない?」


そんな部員の声など、今の俺には届く余裕もなかった――。

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