第1話 再会したヒーロー

4月


あの鮮烈な出来事から2週間が経った。


あの補習に参加していたのは、今の高3の生徒たち。

ということは、昨年も2年だったはずだ。

俺も昨年2年を担当していたため、ほとんどの生徒は把握しているつもりだった。


だが、あんなに眼光の鋭いイケメンの女子生徒なんて、記憶にない。

校外学習の写真も確認したが、どこにも写っていなかった。


千堂先生に補習参加名簿を見せてもらおうと頼むと、「必須参加の名簿はあるけど、希望参加の名簿はないの」と言われた。


あの場にいた生徒に聞くのもはばかられ、結局、名前もクラスも分からないままだった。



始業式から1週間経っても、目当ての生徒は見つからない。

放課後、自席でモヤモヤ考えていると、デスクに飛び乗ってきたケイが、俺の右腕をゲシっ!と蹴ってきた。


「え?なに?構ってほしいの?」


一瞬でモヤモヤが消え、そのフサフサの尻尾に触れようとしたとき、今度は強烈な後ろ蹴りが見舞われる。


「いたっ!んだよ、何してほしいんだよ!」


俺が口を尖らせて悪態を吐くと、ケイは鼻息を「フンヌっ!」と吐き、俺のデスクに置いてあったリンゴに目をやった。


実家が青森の教師から、春休みのお土産にと配られたモノだった。確か今朝方、ケイにも上げたはずだが……。


「これ食いたいの?」


「ピっ!」


えっ?なに、可愛い……。

その愛くるしい顔に絆されて、俺はいそいそとパントリーで皮を剥いた。


自席に戻り、リンゴを貪るワイルド可愛い癒しを見ていると、職員室のドアからひょこっと千堂先生が顔を出した。


目が合うと、右手でおいでおいでの仕草をする。

俺は自分を指差して「俺っすか?」と合図すると、笑顔で大きく頷き、また右手でおいでおいで。


首を傾げつつ近付くと、そのまま腕を引かれ、小会議室まで連れていかれた。

なぜか足元には当たり前の顔でケイが着いてくる。


「どーしたんですか?」


何度か聞いても、「いーから、いーから」とはぐらかされる。


千堂先生がドアをコンコンとノックすると、中から「どうぞ」と返事があった。

嫌な予感しかしない。


ドアが開くと、長机を2脚合わせた奥に、副校長が笑顔で座っていた。

軽く会釈すると、席を促され、千堂先生と並んで腰を下ろす。その机にケイも乗せてやった。


小会議室の右側の壁には書棚があり、大学進学のパンフレットや赤本が並ぶ。

生徒の進路指導にも使われる部屋だ。


少し緊張しながら副校長を見る。

「わざわざ来てもらってごめんなさいね」と優しい声。


「いえ」と小さく返すが、なぜ呼ばれたのか見当がつかない。


困惑する俺に、副校長は柔らかく笑った。

目元に年相応のシワが現れ、ふくよかで清潔感ある姿は、まるで”優しいお母さん”そのものだった。


「それでね」


机の上で手を組んだ副校長が、優しい眼差しを向ける。


「星野先生に水泳部の顧問を引き受けてほしいの」


「えっ!??」


「ピっ」


驚いた。まさかこんな話が出るとは思ってもいなかった。ケイもなんだか興奮している。


明鳳高校の水泳部は、俺が学生時代の3年間は賑わっていたが、今では地区大会でさえ好成績を残せていない。


そんな水泳部を盛り立てるため、着任早々に俺に白羽の矢が立ったのだ。

だが、泳ぐことを辞めた俺は、冷や汗を流して固まるしかなかった。


そんなとき、俺を助けるように千堂先生が名乗りを上げてくれたのだ。

俺が千堂先生を尊敬する由縁となった、初めての出来事だった。


俺が言葉を発しようとすると、副校長がすかさず重なるように話す。


「男子バレー部の顧問は、体育教師の戸部先生にお願いしました。彼、高校時代バレー部の主将を務めていたみたいでね。大乗り気だったの!」


副校長が笑顔で説明し、右隣から遠慮気味な声も続く。


「ごめんね、星野先生。妊婦の状態で教えるのが正直キツくて…」


千堂先生は眉尻を下げ、申し訳なさそうにしていた。


明鳳高校のプールは屋外。

プール使用時期以外は、学校から徒歩15分の市営総合体育館の温水プールを使う。


妊婦の身で毎日そこに通うのは大変だ。

夏場は直射日光で体力も消耗する。

そんなことはやっぱりさせられない。


「それにね、今年は行けそうなの!全国!!」


「えっ?」


その晴れやかな表情は嘘をついていない。


「3年に木瀬蓮っていう生徒がいるでしょ?」


俺は静かに頷いた。


木瀬蓮――長身で金髪の“超イケメン”男子生徒。

パフォーマンスグループでデビューしており、ドラマにも出演するほどの有名人だ。この学校に彼の存在を知らない者はいない。


千堂先生は身を乗り出して説明する。


「木瀬くん、今度ドラマの撮影で水泳部の生徒役をやるんだって。その役作りも兼ねて水泳を始めたいと、先月入部したの。そしたら、もう、凄いの!天性の才能ってやつ!?このひと月の練習で、タイムが全国レベルまで達してるの!」


「ホントっすか…」


俺の心は自然と高鳴る。当初抱いていた負の感情が薄れる。

それなら指導してみたいと、内側で何かがメラメラと燃え上がる感覚。


千堂先生はさらに続けた。


「それにね!先月のあたまに、あの強豪校”海南高校”から転校してきた子!それがもう、速いのなんのって!フォームは惚れ惚れするほど綺麗で、泳げば最速!あの子は絶対に世界を取れる!素人の私が確信するんだから、絶対そう!」


驚いた。海南高校――スポーツで有名な強豪校。

うちの高校とは比べ物にならない。

そんなエースが、なぜこんな高校に…?


「高校3年の女子生徒で、名前を白浜蛍さんって言うの!凄すぎて主将にしちゃった」


「ピピっっ」


千堂先生の言葉に、ケイが見たこともない反応を見せた。瞳の奥から輝きを発し、瞬間、泣き出しそうなほど目を潤ませているような――。


そうして机の上で立ち上がり、俺の腕を前足で何度も突いた。


その様子に驚いていると、千堂先生が俺の手を小さな手で掴んだ。


「だからね、お願い!星野先生!!あの二人を全国に連れて行ってあげて!さっきは妊婦とか言っちゃったけど、本当はちゃんとした指導員を付けてあげたいの!私じゃダメなの!星野先生じゃなきゃダメなの!!」


強い意志。強い言葉。

生徒への愛が、胸を熱くした。


「分かりました!」


「ピっ!」


俺の言葉にケイの瞳が跳ねた。

気づけば俺は力強く返事をしていた。

頭で考えるより先に、自然と声が前に出ていた。


俺の気持ちは高揚していた。

この二人をどう育てていくか――それが何ものにも代えがたい使命のように思えた。


快諾すると、二人は大喜びし、

「ここに主将を呼ぶから!今日からお願いね!」

と言い残して、小会議室から去っていった。


――嵐の後の静けさが舞い込む。

残された俺とケイは、互いに目を合わせる。

何か言いたげなケイが、トトっと俺に距離を詰め、初めてスリっと腕に擦り寄った。


「え?なに?うっそ、撫でていいの……?」


「ピ」


まるで「良くやった!」と言わんばかりの鼻息に、俺は恐る恐るモフモフの体に手を近づける。


ふわり――。

その体毛は想像以上に柔らかく、そしてとてもあったかい。


情けなくもジンと、涙が出そうな俺が、「ケイちゃーん!」と、抱き上げようとしたとき、当然のようにその手が後ろ蹴りで薙ぎ払われた……。


なんともツンデレな王子である――。



――コンコン!


そんな攻防のあと、急に音を立てた扉に、俺は慌てて立ち上がり、叩かれた扉を勢いよく開ける。すると目の前に現れたジャージ姿の生徒が、ビクンっと反応した。


「驚かせてわりーわりー」と軽快に言うはずだった。

だが、その姿を見て、次に驚いたのは俺だった。


「えっ!?お前、あのときのっ!!」


「えっ!?星野せっ!!」


「ピピー!」


三人(匹)の声が重なった。


目の前にいるのは――あのとき、俺を救ってくれたヒーローだった。

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