“blue hour”
午前四時の屋上は、世界から切り離された孤島みたいだ。
十一月の冷気は鋭利な刃物のように肌を刺す。僕は制服の上にパーカーを羽織り、かじかむ指先を擦り合わせながら、三脚の水平器を睨んでいた。
「ねえ、まだ?」
背後から、白い息と共に不満げな声が降ってくる。 「あと二十分くらい」
「太陽が出る直前が勝負だから」
「ふうん。カメラマンも楽じゃないね」
ガードレールに背中を預け、缶コーヒーを握りしめているのは
ここは、僕たちが通う高校の旧校舎の屋上。立ち入り禁止の札がかかった錆びついたドアの鍵が壊れていることは、写真部の部長である僕と、なぜかいつも放課後にふらりと部室に現れる柚だけの秘密だった。
卒業まで、あと三ヶ月。進路調査票の提出期限は昨日だった。
僕の欄はまだ白紙で、柚の欄には東京の私立大学の名前が書かれていることを知っている。
「湊(みなと)さ、本当にここでいいの?」 柚がまた口を開く。夜明け前の沈黙に耐えられないというよりは、沈黙の中に漂う「終わりの気配」を振り払おうとしているようだった。
「ここでいいって、何が」
「だから、最後の作品。コンクールの締め切り、今日なんでしょ? もっとこう、海とか山とか、ドラマチックな場所じゃなくていいのかなって」
「ここがいいんだよ」
僕は、きっぱりと言いながらファインダーを覗き込み、ピントリングを微調整する――ファインダーの中には、眠りについたままの地方都市が広がっている。
信号機の点滅、まばらな街灯、稜線に縁取られた黒い山々。何の変哲もない、僕たちが十八年間を過ごした街だ。 「この街の、一番綺麗な時間を撮りたいんだ」
ブルーアワー。 日の出前と日の入り後の、空が濃い青色に染まるわずかな時間帯。夜でも朝でもない、その曖昧な境界線こそが、今の僕たちに似ているとずっと思っていた。
柚が「そっか」と短く呟き、僕の隣に立った。 彼女からは、微かにシャンプーの香りと、甘い缶コーヒーの匂いがした。 「私さ」
視線を街に向けたまま、柚が言う。 「東京行ったら、もう戻ってこないと思う」 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。シャッター速度の設定をする手が止まる。
「……うん」
「湊は? 結局、どうすんの。親父さんの工場、継ぐの?」
痛いところを突かれた。 祖父の代から続く小さな板金工場。一人っ子の僕が継ぐことを、誰もが暗黙の了解として疑っていない。写真が好きだなんて、美大に行きたいなんて、口に出した瞬間に何かが壊れてしまいそうで、僕はここまで逃げ続けてきた。 「わかんない」
嘘だった。本当は分かっている。継ぎたくないわけじゃない。でも、ファインダーを通して世界を見るこの時間を失いたくない。 「湊はさ、ズルいよ」 柚の声が少しだけ震えている気がして、僕は顔を上げた。 薄暗闇の中で、柚の瞳が街明かりを反射して潤んでいる。
「いつもレンズ越しにばっかり見て。自分の言葉で喋んないで、写真に全部押し付けて。……私がどんな顔して見てるか、気づいてないふりして」
「柚、それは」
「時間、ないんだよ」 柚が僕の方を向く。
「この青い時間だって、私たちが高校生でいられる時間だって、すぐ終わっちゃうんだよ」
その時、空気が変わった―――東の空の低いところが、インクを垂らしたように滲み始めた。
夜の黒がゆっくりと後退し、透明感のある深い青色が世界を浸食していく。ブルーアワーの始まりだ。
街の輪郭が浮き上がる。夜の間に沈殿していた空気が浄化され、すべてが静謐な青に包まれる。美しい、と思った。
言葉にするよりも早く、指がレリーズに伸びる。カシャ、という乾いた音が、冷たい空気に吸い込まれた。
「綺麗……」 柚が息を呑む。
僕は無言でシャッターを切り続ける。刻一刻と変化する光のグラデーション。二度と同じ色は現れない。今のこの瞬間を、逃してはいけない。
でも、ファインダーの中に映る街は、どこかよそよそしかった。完璧な構図、完璧な露出。なのに、何かが足りない。僕が本当に残したかったのは、この景色そのものだったのか?
ふと、ファインダーから目を離した。隣にいる柚を見る。青い光に包まれた彼女の横顔。マフラーに埋もれた口元、風に揺れる後れ毛、そして、未来への不安と期待がない交ぜになった、意志の強い瞳。
ああ、そうか。 僕が見ていた「一番綺麗な時間」というのは、空の色だけじゃなかったんだ。
この場所で、迷いながら、傷つきながら、それでも隣にいてくれた彼女と過ごすこの空気感こそが、僕にとっての青春そのものだったんだ。
「柚」 名前を呼ぶと、彼女が振り向く。その瞬間、僕は三脚からカメラを外し、彼女にレンズを向けた。 「え、ちょっと、なに?」 慌てる柚を無視して、僕はシャッターを切る。 構図なんてどうでもいい。手ブレしたって構わない。 驚いた顔、照れた顔、そして少しだけ泣きそうな顔。
青い世界の中で、柚だけが鮮やかに息づいていた。
「ちょ、やめてよ! 顔むくんでるし!」 「いいんだよ、これが」 「良くない!」 柚が笑って、手を伸ばしてレンズを塞ごうとする。その手すらも愛おしくて、僕はまたシャッターを切った。
やがて、青色は徐々に茜色へと溶け始めた。ビルの隙間から、強烈な光の矢が放たれる。太陽が顔を出し、魔法の時間は終わりを告げようとしていた。現実は容赦なく色を取り戻していく。錆びついた手すりの茶色、コンクリートの灰色、古びた貯水タンクの白。
僕はカメラを下ろし、大きく息を吐いた。冷え切っていたはずの体は、なぜか熱いくらいだった。
「決めたよ」 朝日に目を細めながら、僕は言った。
「俺、親父に話す。写真は辞めない。でも、工場も継ぐ」
「……は?」 柚が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「どっちもやる。今の時代、兼業なんて珍しくないし。工場のウェブサイト用の写真とか、俺が撮ればいい宣伝になるだろ。それに、この街を撮り続けるなら、ここに根を張るのが一番だ」
それは、たった今思いついた無茶苦茶な理屈だった。でも、不思議と迷いはなかった。
逃げるのでもなく、捨てるのでもなく、全部抱えて生きていく。それが、欲張りな僕が出した答えだ。
「何それ」 柚が吹き出した。 「すっごい半端。でも、湊らしいかも」
「だろ?」
「じゃあさ」 柚が一歩、僕に近づく。
朝の光が彼女の背中から差して、まるで光の中に溶けてしまいそうだ。
「私が東京で迷子になったら、その写真、送ってよ。ここには湊がいるんだって、思い出せるように」
「ああ、約束する」僕は、少し考え――きっぱりと、言った。
チャイムの音が、遠くから聞こえた気がした。予鈴ではない。朝の始まりを告げる街の音だ。僕たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
「帰ろうか。補習、遅刻する」
「湊のせいでね」 片付けを始めた僕の背中を、柚がバンと叩く。
痛くはなかった。むしろ、その衝撃が「これから」へのスイッチを入れてくれた気がした。
カメラのモニターには、青い光の中で笑う柚が映っている。この写真はコンクールには出さない。これは僕だけの、僕たちだけの、一等賞だ。
重たい機材バッグを肩に担ぎ、僕はドアノブに手をかけた。錆びついたドアが、ギィと音を立てて開く――その先には、眩しいほどの日常が待っていた。
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