“真実はいつも濡れている”
夜の雨は、どうしてこんなにも過去を思い出させるのだろう。
電車の窓にぶつかって弾ける水滴は、まるで記憶の断片が外側からノックしているみたいだった。
勤め帰りの私は、疲れが胸の奥でほの暗い塊となり、息をゆっくり重くしていた。
駅を出ると、雨はさらに強くなった。
傘を差して歩くたび、靴音が水たまりを踏んで柔らかく響く。
(こんな日に歩くなんて、よりによって……)
だが今日は避けられなかった。
父の三回忌。
雨はふいに、父が最期に残した言葉――「真実はいつも濡れている」を思い出させた。
一体、あれは何の意味だったのだろう。
家族の誰にも分からず、ただ曖昧な余韻だけが残っていた。
そのときだった。
後ろから、足音。
固い靴底がアスファルトを叩く、明確なリズム。
誰かがついてくる。
傘越しに振り返った私の視界に、黒いコートの男が滑り込んできた。
「……あなた、誰ですか?」
雨音に、男は沈黙で答えた。
次の瞬間――
男はポケットから銃を抜いた。黒い38口径。
雨粒が銃身に消えていき、金属の匂いが夜に滲む。
「動くな。質問は俺がする」
声が低い。擦れた紙やすりのような声だ。
「三日前の夜、お前は“赤い傘の女”を見ただろう」
「え、あの……え?」
「惚けるな。あの女は消えた。まるで雨に溶けたようにな」
男のコートが風に揺れ、内側のホルスターが光った。
「お前の親父は刑事だった。死ぬ前に“真実はいつも濡れている”と言った。
あれは暗号だ。
あんたは気づくべきだった――何かを目撃したはずだ」
「な、何を……?」
「言え。でないと……」
男が銃口をこちらに向けたときだった。
遠くで、雷みたいな音がして――
いや、雷じゃない。もっと……くだらない音。
ピュッ。
その音とともに、私の世界はまた一変した。
「!」
「バナナの皮、踏んだぞォォォォォッ!!!」
ハードボイルド男が雄叫びを上げながら、豪快に宙へ浮いた。
うそだろ、と思う間もなく、
彼は漫画みたいな角度で回転し――
ズザアアアァァァッ!!!!
顔面から地面にスライディングした。
「だっっっっ!!? なんだこれ!?
誰だこんなとこにバナナ置いたやつああああ!!!」
雨の夜の緊張感は、粉々に吹き飛んだ。
「バナナ……え、バナナ……?」
私の足元にも、いつの間にか大量のバナナ。
呼吸するようにバナナ。
地面に湧き出るようにバナナ。
「ちょ、バナナ増えてません!?」
「増えてるに決まってんだろおおおお!!!
この世界、バナナが自然精霊かなんかか!?」
男はずるずるに滑りながら立ち上がろうとするが、
立ち上がるたびに二本、三本とトラップのように踏む。
「フォーーーーッ!!!」
「なんですかその奇声!」
「バナナ! バナナが俺を殺りにきてるッ!」
男は銃を構えた。
「やめて! バナナ撃たないで!」
「黙れ! こいつらは凶器だ!」
ドンッ!
銃声とともにバナナの皮が弾け――
そこからさらに三本新しく生えた。
「増えたァァァァァ!!!!」
「自然繁殖してる!?」
男は絶望して天を仰いだ。
「真実はいつも濡れてる……親父さんが言ったのは……
“雨の日はバナナが増える”って意味だったのか……?」
「絶対違うと思います」
その瞬間、私たちはバナナの群れに飲み込まれた。
◇
気づくと私は、自室のベッドで目を覚ましていた。
雨音だけが静かに響いている。
だが布団の横に――
黄色い一本のバナナが、ぽつんと置かれていた。
「…………まさか、ね」
私はそっと手に取った。
その皮は――
雨に濡れていた。
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