“語彙闘争”
湿り気を帯びた無音の午後、旧図書館の最奥に設えられた閲覧席は、もはや“座る”という動作そのものの定義を曖昧にしてしまうほど、空虚と圧密の境界に沈んでいた。
空気は、まるで概念が未分化のまま形骸化したような鈍色の膜をまとい、触れてもいないのに“触れてしまった気配”だけが指先に沈殿する。
僕の前に開かれた書物の頁は、文字というよりは“文字のなりそこない”で構成されていた。行間は異様に狭いはずなのに、意味だけが深い奈落のように落ちていく。
読むたびに、読んだという事実が剥がれ落ち、代わりに“理解しかけた感触”だけが脈打つ。
やがてページの中央に、黒い斑紋が滲み始めた。
斑紋は形状を持たず、しかし存在の輪郭だけを主張してくる。視線を合わせた瞬間、それはまるで僕の思考の“裏側”を覗いているように蠢いた。
とたんに図書館の空気が捻じれ、壁がうっすらと波打った。
書架は沈黙したまま、その奥に“気配のない気配”を飼っている。
文字は、読まれることを拒絶しながら、同時に読んでほしいと渇望している。
そのとき――耳の奥で声がした。
「……読者よ。理解という錯覚に、まだしがみつくか?」
振り返る。誰もいない。
だが、ページがわずかにめくれ、紙の繊維の隙間から、黒い影がすっと立ち上がった。
世界が――縦に割れた。
図書館の中央に立っていた。
漂う文字が空気の流れに逆らい、僕の周囲を乱雑な軌跡で舞う。
黒い斑紋は人型へ変わり、輪郭だけの“影の男”として現れた。
「読解者よ。貴様の語彙、検めさせてもらう」
「語彙……?」
「語彙は思考の骨格。骨格が崩れれば、貴様はただの叫びと化す」
影男が指を弾いた瞬間、本棚が破裂し、文章の断片が刃のように飛んできた。
僕は机を盾にしたが――机が裂け、言葉が皮膚に刺さる感覚が走る。
「ッ……!」
“概念の否定は痛覚を伴う”
本当にそうだった。
「理解を捨てろ。捨てれば強くなる」
「いやいやいやいや意味わかんない!」
影男の腕が歪み、空中に難解単語で編まれた刀が形成される。
「“深層文本的越境”!!」
「それ絶対痛いヤツぅぅぅ!!!」
影男が消えた。
「はやッ!?」
背後。
刀が地面を割く。
「うおおっっ!」
跳ぶ。思考が追いつかない。
語彙が抜ける。溶ける。
(やば……頭の語彙……落ちてる……無理……)
「読解の徒よ、語彙が減るほど“本質”が露出する」
「うるさいッ!」
拳を握った。
理由? わからん。でも殴りたい。
「オラァッ!」
殴った。影男が吹っ飛んだ。
「いける!!」
語彙がさらに溶ける。
「語彙レベルが中学生ィッ!」
影男が叫ぶ。
「うっせぇ!!!」
影男が無数の難語を飛ばす。
「非線形多義性ッ! 意味的遁走ッ! 語用論的爆裂――!」
「もう知らんッッ!!!」
僕は叫びながら突っ込んだ。
「うおおおおお!!!!」
拳!
影男!
ズガァァァァン!!!
本棚どっかーん!!!
文字バラバラァァァ!!!!
「やれええええオレええええ!!!!」
「語彙ゼロの暴力ッ!?」
跳ぶ!殴る!走る!叫ぶ!
「ウオオオオオ!!!!」
「ぐはァァ!!!」
影男が砕け散り、難解単語が粉みじんになって舞い散る。
文字が火花みたいに光る。
語彙は……もう戻らないかもしれない。
「……はぁ……はぁ……勝った……?」
影男が崩れ、あたりに残ったのはただ一つの文字列だった。
“言葉なくとも、拳で語れ”
「さいごまでバカにしてんのか……?」
◇
図書館は静まり返り、散乱した文字は徐々に床へと沈んでいった。
語彙は減った。
でも――なんかスッキリした。
「……読書って……なんだ?」
その問いを言葉で答えられる日は、しばらく来ないだろう。
語彙が戻るまで、あとたぶん三週間くらいかかる。
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