“七海”

 放課後の帰り道、夕陽で真っ赤に染まった校舎の影を踏みながら、僕は隣を歩く七海の横顔を盗み見ていた。

 風が吹くたび、彼女のポニーテールがゆらり揺れる。その軌跡を目で追うだけで胸が苦しくなる。


「ねえ浩輔、明日の文化祭……一緒に回らない?」


 心臓が跳ねる。

 この一言のために、僕はたぶん中学三年間を生きてきたんじゃないか、と思った。


「う、うん。いいよ、もちろん」


 七海は嬉しそうに笑い、僕の前に少し跳ねるように歩いた。

 そのあと、彼女は立ち止まり、自販機の灯りの下で振り返った。


「じゃあ、約束ね。明日、いちばんのおしゃれしてくるから」


 その表情が夕陽よりも眩しくて、僕は言葉を失って頷いた。


 そのとき、七海の後ろの道路に、黒い影がすっと伸びた。

 街灯の光じゃない。僕と七海以外に誰もいないのに――。


「……?」


 七海が首を傾げた瞬間、影は彼女の足首に絡みついた。


「え? なにこれ――」


 気づいたときには、七海の身体は闇に沈むように地面へ吸い込まれていった。

 僕は叫びながら手を伸ばした。しかし、残ったのは冷たいアスファルトだけであった。


 七海の姿だけが、ふっと消えた。


 翌朝、学校は異様な雰囲気に包まれていた。

 七海の姿が見当たらない。誰も彼女の存在を覚えていなかった。


「七海? そんな子いたっけ?」


 クラスメイトが眉を寄せる。

 先生も名簿をめくって、「君、誰のこと言ってるの?」と首をかしげた。


 昨日まで確かにそこにいたはずの少女が、一瞬で“この世界から消えた”。


 放課後。

 七海が消えた帰り道に再び立つ。

 夕陽は赤く、街灯はまだ灯っていない。影は淡いはずなのに――


 カサ……カサ……


 舗道の隙間から黒い“なにか”が蠢いている。

 細い指のような、毛のない触手のような、それが一本だけ地面から生えていて、僕を見上げていた。


 僕は、見ないふりをすることにした。そして歩き出す。


 ……それはついてきた。

 僕の2mくらい後ろを、着実に。

 このままでは家までついてくる。


 そう思った僕は、後ろを振り返り、触手をにらみつけた。


 と。その時だ。

 僕の脳裏に、七海の笑顔が見えた。いや、あの触手に、七海を感じるのである。

 その瞬間、僕は確信した。これが、あの不可解な現象の原因であると。理由はない。ただ、そんな気が―僕の直感が――そう言っているのだ。


 触手は依然と、グロテスクなその風体をさらし続けている。


 僕は恐怖で震えながら、その触手を掴んだ。


「返せ……七海を返せ……!」


 すると地面がひび割れ、闇が口を開いた。

 僕は躊躇なく飛び込み――落ちていく。

 底のない闇の中、遠くから誰かの声が聞こえた。


「――こうすけ……」


 七海だ。

 その声を追って僕は闇の底へ――


 と思った瞬間。


 目を開けると、僕は巨大なラーメン丼の中を泳いでいた。


「ぉぉおおおいッ浩輔ィ! 塩か醤油か選ばねぇと七海は救えねぇぞォ!」


 頭上から天井を突き破って落ちてきたのは、湯気の立つ巨大チャーシューを肩に担いだ“影の化身”だった。

 なぜか全身にラメが付いている。


「お前……さっきの影っ!?」


「そうだッ! 俺は影! いや、今は“影ラー王”と呼べッ!」


 叫びながら、影ラー王はスープを啜った。

 七海はというと、丼の縁に腰掛けて、なぜかギターを弾いていた。


 音程は完全に狂っている。


「浩輔、私……ここで“汁の精霊”にされちゃったみたい……」


「どういう展開!?」


「作者が迷走してるのよ」


 いきなりメタ発言だ。

 しかし影ラー王は大真面目だった。


「さあッ! 最終決戦だッ! スープの濃度を高めて世界を再構築するッ!

選べッ! 塩か醤油か、それとも味噌かァァァァ!」


「選択肢増えてる!?」


 ラーメンの海が渦を巻き、天井からはなぜか文化祭の飾り付けが降ってくる。

 さっきの青春の面影は、もうも残っていなかった。


 僕は泣きながら叫んだ。


「七海を返せぇぇぇぇ!!!!!」


「じゃあ味噌だな!!!」


「なんでだよ!!!」


 その瞬間、世界は味噌色の閃光に包まれた!


 気づくと、僕は元の帰り道に立っていた。

 夕陽は赤く、風はやさしい。

 七海が隣にいた。


「ねえ浩輔、明日文化祭、一緒に回らない?」


 すべてが元通りだった。

 ただし一つだけ違う。


 七海の影だけが、ほんの少し味噌色だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る