第二章 春紫苑
面影
「ひまり、お弁当忘れてるよ」
「あ……ありがとう」
「……体調悪かったら、学校休んでもいいんだよ」
「ううん、大丈夫。いってきます」
母さんに心配をかけたまま、年が明け、学校が始まってしまった。
クリスマスイブ、崩れたケーキと泣き腫らした僕の目を見て、母さんはかなり驚いたと思う。
「失恋しちゃった」とだけ伝えると、母さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
代わりに、豪華なクリスマスディナーを作り、ケーキをできる限り綺麗に盛り付け、温かいお茶を淹れてくれた。
食欲が出なくて食べきれなかったし、味だってあまり分からなかったけど、母さんの優しさは確かに身体に沁みた。
◇
新学期が始まったばかりで話題が溢れているからか、廊下も教室も朝からガヤガヤと騒がしい。
目立たないように静かに席に着いて、引き出しの整理をしようと、後ろの時間割を確認する。
「あっ……」
まずい。
体育があるのを忘れていた。
ジャージ、持ってきてない。
失恋したあの日から、ぼーっとすることが増えて、日常生活にも少し支障をきたしている……。
「はぁ……」
今日は見学させてもらうしかないかな、とため息をついたとき、
「なんかあった?」
「っ!」
突然、肩を優しく叩かれ、話しかけられた。
振り向くと、クラスメイトの
「あ、いや、えっと……」
しどろもどろになっていると、早坂くんは机の脇にしゃがんで、柔らかい表情で尋ねてくる。
「もしかして、ジャージ忘れちゃった?」
「!そ、そうなんだよね……だから、今日は見学しようかと……」
「俺の貸すよ!」
「えっ」
早坂くんはすくっと立ち上がって、自分の席に戻ったかと思えば、リュックからジャージを取り出して、僕のもとへ再びやってきた。
「はい、これ」
「え、だ、ダメだよ、だって、早坂くんはどうするの」
「隣のクラスの友達に借りるから大丈夫!ひまりが良ければ、気にせず着てよ」
「っ……あ、ありがとう!」
早坂くんはニカッと笑って、隣のクラス行ってくる!と元気に教室を出ていった。
彼にとっては普通のやり取りだったのかもしれないけど、僕にとっては非日常すぎて、しばらくは頭がふわふわしていた。
「……名前、知ってたんだ……」
さりげなく「ひまり」と呼ばれたことにも驚いた。
僕の下の名前を覚えている人なんて、いないかと思ってた。
ああいうクラスの中心にいるような人は、記憶力もいいんだなぁ……としみじみ思った。
◇
二時間目の数学の授業が終わり、みんな慌ただしく更衣室へ向かう。
体育の先生は遅刻に厳しいから、なるべく早く着替えなきゃいけないんだ。
僕も急いで更衣室へ向かい、早坂くんのジャージに腕を通した。
少しぶかぶかで、爽やかな香りがする。
和くんの香りとは違うけど、いい匂い。
「ひまり、どう?大きかった?」
「!早坂くん」
既に着替えを終えた早坂くんが、いつのまにか隣にいた。
「ちょっと大きいけど、全然大丈夫だよ。ほら!」
腕を広げてみせると、早坂くんは安心したように微笑んだ。
僕なんかのことを、こんなに気にかけてくれるなんて、本当に優しい人なんだなぁ。
「んじゃ、ひまり、行こ!」
「わっ」
ジャージの袖に隠れた手を取られ、そのまま早坂くんと駆け出していた。
「遅れたらあの先生うるさいからさ〜」
「っ、そ、そうだよね!」
「……ま、一緒に怒られるのも悪くないけどっ」
早坂くんは、いたずらっ子みたいな笑顔を見せてそう言った。
その笑顔を素敵だと思う余裕があるのは、早坂くんが僕のペースに合わせて走ってくれているからだ。
……あれ……前にも、こんなことが……
『ひま、走ろう!』
ああ、あれは、和くんだ。
寝坊しちゃった僕のこと、待っててくれた中二の朝。
気温がぐっと下がった、冬の朝。
和くんまで遅刻しちゃうかもしれないのに、僕の走る速さに合わせてくれた。
「間に合ったー!セーフ……ん?ひまり?大丈夫?」
「っ!あ、うん!ありがとう、早坂くん」
「……うん!」
また、早坂くんに心配をかけるところだった。
和くんのことを考えると泣きそうになるから、学校では頑張って思い出さないようにしてるのに。
たまに、記憶が噴水のように湧き上がって、勢いよく溢れるから、困る。
◇
体育を終えて、制服に着替えて、ジャージを畳んで……
早坂くんに「洗って返すね」と伝えようとしたけれど、仲のいい人たち数人と話しているから、声をかけるのは難しそうだ。
「あとでいっか……」
そう思い、畳んだジャージをぎゅっと抱きしめたまま、自分の席に着こうとしたら、
「ぁ、っ」
早坂くんと、目が合ってしまった。
咄嗟に逸らしたけれど、早坂くんはやっぱりこちらへ来てくれた。
「どうしたの?ひまり」
「あ、ジャージ、洗って返すねって、言おうと思って……ごめん、お友達と話してたのに」
「ふふ、ひまりだって友達じゃん」
「……!」
早坂くんが、友達。
そんなの、想像したこともなかった。
ちゃんと話したの、今日が初めてだけど、友達って呼んでいいのだとしたら……
和くん以外に、初めて、友達ができた……?
「あっそうだ!ひまり、今日のお昼、一緒に食べようよ」
「えっ!?いいの……?」
「当たり前じゃん。ってことは、逆にいいの?」
「う、うん!」
早坂くんは、大袈裟なくらい喜んで、
「やばい、あと一時間も待てないかも」
なんて言いながら、自分の席へ戻っていった。
◇
四時間目を終えると、早坂くんは僕の席まで来てくれた。
僕の隣の席の子が早坂くんと友達だから、机を借りることもできるみたいで……
向かい合わせでくっつけて、あっという間にランチタイム仕様になってしまった。すごいや。
「じゃ、食べよっ!いただきまーす」
「い、いただきます……ぁ、あの、さ、どうして急に誘ってくれたの?」
早坂くんはミニトマトをぱくっと食べて、もぐもぐして、飲み込んでから口を開く。
「俺、ひまりとずっと前から仲良くなりたかったんだよね」
「えっ」
「春に遠足あったじゃん?あのとき同じグループだったの、覚えてる?」
「あ、うん」
言われてみれば、そうだった。
確か、「もう少しお土産を見たい」と言い出せなくて困ってたとき、早坂くんが自然にみんなを引き留めてくれて、すごく助かった記憶がある。
「あのときさ、偶然、同じ中学のやつらが集まっちゃったから……ひまりとあんまり話せなかったの、悔しかったんだよね。仲良くなるチャンスだーって思ってたのに」
「……!」
「だから、今こうやって一緒にご飯食べられて、めっちゃ嬉しい!」
ああ、すごく、眩しい。
太陽みたいな人だと思った。
こんなにまっすぐきらきらした気持ち、真正面から言える人なら……きっと、恋も、上手くいくのだろう。
「……ぼ、僕も、嬉しいよ」
「!」
「僕、友達できなくて、ずっと一人で食べてたから……早坂くんに誘ってもらえて、嬉しい」
嬉しかったことは、できるだけお返ししたいと思った。
僕も、嬉しいんだよって、ちゃんと伝えたいと思った。
「ふふ、そっか。良かった!」
早坂くんは、頬を赤らめて笑った。
そんな彼を見ながら、口に含んだ卵焼き。
「……!美味しい……」
久しぶりに、少し、味がした。
◇
◇
◇
ジャージの貸し借りをしたあの日から、約一ヶ月。
早坂くんは、ほとんど毎日、僕と一緒にお昼ご飯を食べてくれる。
昼休み以外の時間もたくさん話しかけてくれるし、日直の仕事を手伝ってくれたこともあった。
「他のお友達はいいの?」
と恐る恐る尋ねたときには、
「あいつらとは部活で話せるからいいの。俺がひまりと話したくて話してるんだから、気にしないでよ」
と答えてくれた。
『気にしなくていいからね。俺が、ひまを選んだんだからね。一緒に回ってくれてありがとう』
あの日の和くんと重ねてしまって、胸がきゅーっと締め付けられた。
早坂くんと仲良くなってから、失恋の痛みから目を背けられる時間は増えたと思う。
でも、和くんのことを忘れられた日なんて一度もない。
和くんにもらった幸せも、苦しみも、いつだって昨日のことのように鮮やかに思い出せてしまう。
特に、今月は酷な月だ。
なぜなら、バレンタインがあるから。
毎年、バレンタインに僕がチョコレートをあげて、ホワイトデーに和くんがお返しをくれて……
定番になっていたこのやりとりを、今年もすることができるのか……毎日考えてしまうから。
「……り。ひまり!」
「わっ!」
「どうしたの?なんか、考え事?」
「あ、えっと……」
早坂くんとお昼ご飯を食べていたのに、またぼーっとしてしまっていた。
こんなの、早坂くんに失礼だ……。
「……あ、そうだ!ひまり、明日は部活休みだって言ってたよね?」
「?うん、そうだけど……」
「俺もさ、顧問の都合で休みになったんだ。だから、放課後ちょっと遊びに行かない?」
「……!」
放課後に、友達と遊ぶ。
なんだか、すごく高校生っぽい。
「い、行きたい!」
思わず身を乗り出してそう言うと、早坂くんはちょっと目を丸くしてから、ニッと嬉しそうに笑ってくれた。
明日が楽しみだと自然に思えたのは、いつぶりだろう。
◇
◇
◇
翌日、帰りのホームルームが終わると、そわそわしている僕のもとへ早坂くんが来てくれた。
「ひまり、行こ!」
「う、うん!でも、そういえば、どこに……?」
「それは着いてからのお楽しみっ」
早坂くんは、自然に僕の手を取って歩き出す。
やっぱり、早坂くんは今日も眩しい。
光に手を引かれたら、僕も明るい未来に行けるような気がしてしまう。
◇
「ここって……」
「ひまりが美味しそうって言ってたケーキ屋さん。調べたら、意外と学校からアクセス良かったから」
「覚えててくれたの?」
「もちろん。ほら、バレンタイン限定のチョコケーキセット?あと一週間で終わっちゃうでしょ」
「う、うん」
先月の終わり頃、偶然見かけたSNSの投稿で、このお店のことを知って……早坂くんに「何見てるの?」って言われたから、なんとなく見せただけだったのに。
まさか、あんな小さな会話まで覚えていてくれたなんて、本当にびっくりだ。
早坂くんと注文したチョコケーキセットは、ミニサイズのオペラ・ガトーショコラ・テリーヌショコラ……などなど、チョコ系のケーキが何種類も楽しめる夢のようなメニュー。
お値段はそれなりにするけれど、なんといってもバレンタイン限定のメニューだし、一度は食べてみたいなぁと思っていた。
そのお味は……
「……!美味しい……!」
「ほんと、美味しいね!」
さすが、グルメサイトで高評価を獲得しているだけあって、想像以上に美味しくて。
セットでついてくる紅茶と一緒に食べ進めたら、あっという間になくなってしまいそうだ。
「ひまりは、チョコレートが好きなの?」
最後のガトーショコラをちまちま食べていたら、先に食べ終えた早坂くんに尋ねられた。
「んー、そうだね、好きだよ!毎年、家でチョコケーキ作って……」
そこまで言って、口を噤んだ。
どうして僕は、すぐに和くんとの思い出に結びつけてしまうんだろう。
「へぇ、ひまりの作ったチョコケーキも、いつか食べてみたいな」
「……!」
早坂くんは紅茶を飲みながら、少し寂しそうに呟いた。
僕がまた、上の空になりかけたせいだ。
こんなに素敵な場所に、連れてきてくれたのに。
「は、早坂くんは、チョコ好き?」
おうむ返ししかできない僕に、早坂くんは優しく微笑んでくれた。
「……うん。ひまりと一緒に食べたものは、全部好きだよ」
「……!そ、そっか……」
早坂くんの瞳が、内側まで透き通すように僕を見つめている気がして、思わず目線を逸らした。
心臓の鼓動が、ちょっぴり速くなった。
◇
ケーキ屋さんを出る頃には、外が随分と薄暗くなっていた。
冬は本当に日が沈むのが早い。
日が沈むと、気温もどんどん下がってきて……
「さむ……」
手袋をしていないから、手先がすっかり冷たくなってしまいそうだ。
「ひまり、これあげる」
隣を歩く早坂くんが、僕の手に温かいものを握らせてくる。
「カイロ……いいの?」
チラリと横顔を覗くと、早坂くんはコクリと頷く。
「ありがとう……あったかい……」
悴んでいた指先と手のひらに、じわじわと熱が伝わってきて、心の凍った部分も、ほんの少しだけ溶けていく気がする。
「……ねぇ、ひまりはさ、バレンタイン、誰かにチョコあげるの?」
「っ……!」
唐突なその質問に動揺して、危うくカイロを落とすところだった。
「え、えっと……迷ってる、かな」
「なんで迷うの?」
「それは……」
和くんには、可愛い彼女がいて。
僕がチョコを渡しても、邪魔者になるだけ。
返ってこない“好き”を届けるのは、虚しいだけ。
でも、毎年恒例だったやり取りを、自分から断つのも……
「……まだ『
「ん……えっ!?」
なぜ、どうして、早坂くんが和くんのことを。
「ひまりが切ない声で『和くん』って呟くの、何度も聞いたことある」
「ぇ……」
早坂くんは足を止めて、僕に真正面から向き合った。
まっすぐこちらへ向く視線が、なんだか、熱い。
「……遠足のお土産も、廊下で蹲って泣いてたのも、全部、『和くん』って人のためでしょ?」
「っ……」
そういえば、あのときも、早坂くんだった。
和くんがモテるって噂を聞いた夏の始まり。
『ちょっと、大丈夫!?』
廊下で落ち込んでいた僕に、声をかけてくれた優しい人。
あのときの僕は、焦って逃げてしまったけれど……。
「……ひまりが『和くん』って呟く度に、ドキッとしてた。俺のことだったらいいのにって、いつも思ってた」
「へ……あ……」
心臓がドクドク速くなる。
僕、今、生まれて初めて―――。
「その人とひまりは両想いなのかと思って、我慢してたのに。ひまり、どんどん辛そうな顔になっていって……俺なら、ひまりにあんな顔させない」
「は、早坂く、」
「ひまり」
早坂くんの手が、頬に触れた。
熱くて、やさしくて、甘い。
動揺して乱れた呼吸が、白く可視化されてしまって、恥ずかしい。
「俺、ひまりのことが好きだよ。俺と、付き合って」
「っ……」
「……『和くん』って呼び間違えても、大丈夫だよ。俺、分かんないから」
「そ、そんな……」
早坂くんは、痛々しく笑っていた。
僕は、胸を抉られたような気分になった。
和くんのことを好きなままで、僕のことをこんなに大切に想ってくれる人と付き合うなんて、できるはずがない。
「っ、むり、だよ。そんなの、早坂くんに、失礼すぎる。できないよ……」
「失礼とか、思わなくていいのに……まあ、ひまりならきっと、そう言うと思ってたけど」
「っ、ごめん、なさい」
「なんで謝るの」
胸が苦しくなるほどに優しい顔をする早坂くんに手を引かれ、そのまま腕に閉じ込められた。
ぎゅう、と抱きしめられる感覚に、僕の方が泣きそうになってしまう。
「急に言われても困ると思うし、すぐにとは言わないけど……お試し感覚でいいからさ、付き合ってみて、またこうやってお出かけしようよ。美味しいものいっぱい食べて、綺麗な景色も一緒に見に行こう。そしたら、きっと……今の気持ちも、忘れられる」
「っ、うっ、」
ダメだ、涙、止められなかった。
早坂くんのコート、濡らしちゃってる。
僕が、早坂くんと、付き合う?
和くんのこと、まだ好きだって分かってて、それでもいいって言ってくれるの?
もし、それで、和くんへの気持ちを忘れられたら……
僕は、また、心の底から笑えるのかな?
和くんとあの子に、お幸せにって言えるのかな?
「……ひまり」
「っ、」
顔を上げると、早坂くんが目元の粒を拭ってくれた。
拭ったそばからポロリと一粒零すと、困ったなぁという風に微笑まれた。
「よし……身体が冷えちゃう前に、帰ろうか」
「……うん……あ、そういえば、さっきのお金、」
「いらないよ。バレンタインの、本命チョコだから」
早坂くんは、財布を出そうとした僕の手を取り、甘やかに笑った。
混ざり合う体温が熱くて、早坂くんにもらったカイロの出番がなくなってしまった。
◇
◇
◇
一ヶ月後、ホワイトデー。
僕は、すっごく緊張しながらお店の扉を開いた。
「いらっしゃいませ〜」
「あ、えっと、よ、予約した橋本です!」
「橋本様ですね、こちらへどうぞ〜」
優しい店員さんに案内された方へ向かうと、きちんと二人分の席が確保されていて、ホッと胸を撫で下ろす。
「ふふ、ひまり、緊張しすぎだよ」
「だ、だって、こういうの初めてで、予約できてなかったらどうしようって思って……」
今日は、バレンタインのときのお礼として、早坂くんと一緒にカフェにやってきた。
いちごタルトが有名なお店で、平日でも割と混んでいると口コミに書いてあったから、二週間前から予約をしておいたんだ。
こんなにおしゃれなカフェの予約を取るなんて、全然慣れていなかったから……正直、今この瞬間まで、不安でたまらなかった。
「でも、嬉しいな。ひまりが一生懸命お返し考えてくれたんだなって思うと」
「そりゃあ考えるよ!あんなに素敵なところ連れていってもらって、美味しいケーキ奢ってもらって……って、注文しなきゃね!」
外食の経験は人並みにあるのに、メニュー冊子を三秒間反対向きで見てしまうくらいには、今日の僕は緊張していた。
「ふふ、ほんと、ひまりって可愛い」
「かっ……!?か、からかわないでよ」
熱くなる顔を冊子で隠そうとしたら、手首を掴まれて、視線をぱちっと合わせられてしまった。
「からかってないよ。本当に可愛いと思ってる」
「ぁ……はい……」
早坂くんはふっと微笑んで、僕のほっぺたをツンツン、とつついた。
「さて、じゃあ注文しますか〜」
結局、その後の注文は早坂くんに任せちゃったし、お会計はモタモタしちゃったし、あまりスムーズにはいかなかったけど……
早坂くんはずっと楽しそうな笑顔を見せてくれてたから、一応、ホワイトデー成功……だと思いたい。
◇
「あのさ、ひまり」
「ん?」
「バレンタイン、あげたの?」
帰り道、単刀直入にそう聞かれた。
「……あげてないよ」
「なんで、あげなかったの」
「和くんはもう……他の人の彼氏だから。僕が彼女の立場だったら、彼氏に近づいてくる人なんて、すごく嫌だもん」
「……ひまりは優しすぎるね……」
「優しくなんかない……一番の理由は、ただ、絶対に振り向かない人にチョコレートを渡すのが、寂しいからだよ」
和くんにチョコレートを渡すとして……
それを選ぶ時間、買ってから渡すまでの時間、和くんのことをずうっと考えて。
会えたときには、和くんの一挙手一投足に心を揺り動かされて、どんな感情になったとしても、最後に残るのは、切なさだけで。
そんなの……寂しくて、死んじゃいそうだから。
今年は、和くんに何も渡さなかった。
「……ひまり!」
「?」
ふと気づくと、早坂くんが少し後ろで立ち止まっていた。
茜と藍のグラデーションをバックにして、僕を見つめていた。
その視線はじりりと熱を発しながら、僕の心臓の真ん中を焦がすような気がした。
「もう一度言う。俺、ひまりのことが好きだよ!」
「っ……!」
「絶対、好きにさせてみせるから……俺と、付き合おう!」
ゆらりゆらりとハートが揺らぐ。
早坂くんと一緒に過ごすのは、楽しい。
好きになれるかは、まだ分からない。
でも……目の前に差し伸べられた手を、握ってみたいと思った。
小学生の頃から、人見知りで、引っ込み思案で。
中学生の頃は、和くんに頼りっぱなしだった僕だけど……
変わってみたい。
和くんがいなくても、進んでみたい。
生まれて初めて、自分に向けられた「好き」を、ちゃんと受け取ってみたいんだ。
「……早坂くん」
「っ……!」
ぎゅ、と手を握った瞬間、怖くなった。
和くんに片想いする毎日が、僕の当たり前だったから。
でも、当たり前を壊さなきゃ、何も、変わらない。
「……っ、よろしく、お願い、します……」
「……!うん!よろしく、ひまり!」
「わっ」
勢いよく抱きつかれて、身体のバランスを崩しかけた。
「は、早坂くん、」
「名前で呼んでよ」
「!」
「……恋人なんだから」
名前を呼ぶのも、怖かった。
好きな人と似ている音を、発することができるのか。
「……か、
言え、た。
口にして初めて、自分は和希くんの名前を呼べるのだと知った。
出たとこ勝負みたいになってしまったけど、確かに僕は、呼べたんだ。
「……和希くん……」
「っ、きゅ、急に何回も呼ばれると、照れるよ」
「あ、っ、ごめん!」
耳まで赤くなった和希くんを見て、僕はなぜか、嬉しくなった。
僕が彼を呼んだ声が、ちゃんと届いたと実感できたからかもしれない。
心に春の予感が吹き抜けたような、高一の終わり。
人生で初めて、彼氏ができた。
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