第二章 春紫苑

面影

「ひまり、お弁当忘れてるよ」


「あ……ありがとう」


「……体調悪かったら、学校休んでもいいんだよ」


「ううん、大丈夫。いってきます」


母さんに心配をかけたまま、年が明け、学校が始まってしまった。

クリスマスイブ、崩れたケーキと泣き腫らした僕の目を見て、母さんはかなり驚いたと思う。

「失恋しちゃった」とだけ伝えると、母さんはそれ以上何も聞いてこなかった。

代わりに、豪華なクリスマスディナーを作り、ケーキをできる限り綺麗に盛り付け、温かいお茶を淹れてくれた。

食欲が出なくて食べきれなかったし、味だってあまり分からなかったけど、母さんの優しさは確かに身体に沁みた。





新学期が始まったばかりで話題が溢れているからか、廊下も教室も朝からガヤガヤと騒がしい。

目立たないように静かに席に着いて、引き出しの整理をしようと、後ろの時間割を確認する。


「あっ……」


まずい。

体育があるのを忘れていた。

ジャージ、持ってきてない。

失恋したあの日から、ぼーっとすることが増えて、日常生活にも少し支障をきたしている……。


「はぁ……」


今日は見学させてもらうしかないかな、とため息をついたとき、


「なんかあった?」


「っ!」


突然、肩を優しく叩かれ、話しかけられた。

振り向くと、クラスメイトの早坂和希はやさかかずきくんという男の子が、僕を心配そうに見つめていた。


「あ、いや、えっと……」


しどろもどろになっていると、早坂くんは机の脇にしゃがんで、柔らかい表情で尋ねてくる。


「もしかして、ジャージ忘れちゃった?」


「!そ、そうなんだよね……だから、今日は見学しようかと……」


「俺の貸すよ!」


「えっ」


早坂くんはすくっと立ち上がって、自分の席に戻ったかと思えば、リュックからジャージを取り出して、僕のもとへ再びやってきた。


「はい、これ」


「え、だ、ダメだよ、だって、早坂くんはどうするの」


「隣のクラスの友達に借りるから大丈夫!ひまりが良ければ、気にせず着てよ」


「っ……あ、ありがとう!」


早坂くんはニカッと笑って、隣のクラス行ってくる!と元気に教室を出ていった。

彼にとっては普通のやり取りだったのかもしれないけど、僕にとっては非日常すぎて、しばらくは頭がふわふわしていた。


「……名前、知ってたんだ……」


さりげなく「ひまり」と呼ばれたことにも驚いた。

僕の下の名前を覚えている人なんて、いないかと思ってた。

ああいうクラスの中心にいるような人は、記憶力もいいんだなぁ……としみじみ思った。





二時間目の数学の授業が終わり、みんな慌ただしく更衣室へ向かう。

体育の先生は遅刻に厳しいから、なるべく早く着替えなきゃいけないんだ。


僕も急いで更衣室へ向かい、早坂くんのジャージに腕を通した。

少しぶかぶかで、爽やかな香りがする。

和くんの香りとは違うけど、いい匂い。


「ひまり、どう?大きかった?」


「!早坂くん」


既に着替えを終えた早坂くんが、いつのまにか隣にいた。


「ちょっと大きいけど、全然大丈夫だよ。ほら!」


腕を広げてみせると、早坂くんは安心したように微笑んだ。

僕なんかのことを、こんなに気にかけてくれるなんて、本当に優しい人なんだなぁ。


「んじゃ、ひまり、行こ!」


「わっ」


ジャージの袖に隠れた手を取られ、そのまま早坂くんと駆け出していた。


「遅れたらあの先生うるさいからさ〜」


「っ、そ、そうだよね!」


「……ま、一緒に怒られるのも悪くないけどっ」


早坂くんは、いたずらっ子みたいな笑顔を見せてそう言った。

その笑顔を素敵だと思う余裕があるのは、早坂くんが僕のペースに合わせて走ってくれているからだ。


……あれ……前にも、こんなことが……



『ひま、走ろう!』



ああ、あれは、和くんだ。

寝坊しちゃった僕のこと、待っててくれた中二の朝。

気温がぐっと下がった、冬の朝。

和くんまで遅刻しちゃうかもしれないのに、僕の走る速さに合わせてくれた。



「間に合ったー!セーフ……ん?ひまり?大丈夫?」


「っ!あ、うん!ありがとう、早坂くん」


「……うん!」


また、早坂くんに心配をかけるところだった。

和くんのことを考えると泣きそうになるから、学校では頑張って思い出さないようにしてるのに。

たまに、記憶が噴水のように湧き上がって、勢いよく溢れるから、困る。





体育を終えて、制服に着替えて、ジャージを畳んで……

早坂くんに「洗って返すね」と伝えようとしたけれど、仲のいい人たち数人と話しているから、声をかけるのは難しそうだ。


「あとでいっか……」


そう思い、畳んだジャージをぎゅっと抱きしめたまま、自分の席に着こうとしたら、


「ぁ、っ」


早坂くんと、目が合ってしまった。

咄嗟に逸らしたけれど、早坂くんはやっぱりこちらへ来てくれた。


「どうしたの?ひまり」


「あ、ジャージ、洗って返すねって、言おうと思って……ごめん、お友達と話してたのに」


「ふふ、ひまりだって友達じゃん」


「……!」


早坂くんが、友達。

そんなの、想像したこともなかった。

ちゃんと話したの、今日が初めてだけど、友達って呼んでいいのだとしたら……

和くん以外に、初めて、友達ができた……?


「あっそうだ!ひまり、今日のお昼、一緒に食べようよ」


「えっ!?いいの……?」


「当たり前じゃん。ってことは、逆にいいの?」


「う、うん!」


早坂くんは、大袈裟なくらい喜んで、


「やばい、あと一時間も待てないかも」


なんて言いながら、自分の席へ戻っていった。





四時間目を終えると、早坂くんは僕の席まで来てくれた。

僕の隣の席の子が早坂くんと友達だから、机を借りることもできるみたいで……

向かい合わせでくっつけて、あっという間にランチタイム仕様になってしまった。すごいや。


「じゃ、食べよっ!いただきまーす」


「い、いただきます……ぁ、あの、さ、どうして急に誘ってくれたの?」


早坂くんはミニトマトをぱくっと食べて、もぐもぐして、飲み込んでから口を開く。


「俺、ひまりとずっと前から仲良くなりたかったんだよね」


「えっ」


「春に遠足あったじゃん?あのとき同じグループだったの、覚えてる?」


「あ、うん」


言われてみれば、そうだった。

確か、「もう少しお土産を見たい」と言い出せなくて困ってたとき、早坂くんが自然にみんなを引き留めてくれて、すごく助かった記憶がある。


「あのときさ、偶然、同じ中学のやつらが集まっちゃったから……ひまりとあんまり話せなかったの、悔しかったんだよね。仲良くなるチャンスだーって思ってたのに」


「……!」


「だから、今こうやって一緒にご飯食べられて、めっちゃ嬉しい!」


ああ、すごく、眩しい。

太陽みたいな人だと思った。

こんなにまっすぐきらきらした気持ち、真正面から言える人なら……きっと、恋も、上手くいくのだろう。


「……ぼ、僕も、嬉しいよ」


「!」


「僕、友達できなくて、ずっと一人で食べてたから……早坂くんに誘ってもらえて、嬉しい」


嬉しかったことは、できるだけお返ししたいと思った。

僕も、嬉しいんだよって、ちゃんと伝えたいと思った。


「ふふ、そっか。良かった!」


早坂くんは、頬を赤らめて笑った。


そんな彼を見ながら、口に含んだ卵焼き。


「……!美味しい……」


久しぶりに、少し、味がした。





ジャージの貸し借りをしたあの日から、約一ヶ月。

早坂くんは、ほとんど毎日、僕と一緒にお昼ご飯を食べてくれる。

昼休み以外の時間もたくさん話しかけてくれるし、日直の仕事を手伝ってくれたこともあった。


「他のお友達はいいの?」


と恐る恐る尋ねたときには、


「あいつらとは部活で話せるからいいの。俺がひまりと話したくて話してるんだから、気にしないでよ」


と答えてくれた。



『気にしなくていいからね。俺が、ひまを選んだんだからね。一緒に回ってくれてありがとう』



あの日の和くんと重ねてしまって、胸がきゅーっと締め付けられた。



早坂くんと仲良くなってから、失恋の痛みから目を背けられる時間は増えたと思う。

でも、和くんのことを忘れられた日なんて一度もない。

和くんにもらった幸せも、苦しみも、いつだって昨日のことのように鮮やかに思い出せてしまう。


特に、今月は酷な月だ。

なぜなら、バレンタインがあるから。

毎年、バレンタインに僕がチョコレートをあげて、ホワイトデーに和くんがお返しをくれて……

定番になっていたこのやりとりを、今年もすることができるのか……毎日考えてしまうから。



「……り。ひまり!」


「わっ!」


「どうしたの?なんか、考え事?」


「あ、えっと……」


早坂くんとお昼ご飯を食べていたのに、またぼーっとしてしまっていた。

こんなの、早坂くんに失礼だ……。


「……あ、そうだ!ひまり、明日は部活休みだって言ってたよね?」


「?うん、そうだけど……」


「俺もさ、顧問の都合で休みになったんだ。だから、放課後ちょっと遊びに行かない?」


「……!」


放課後に、友達と遊ぶ。

なんだか、すごく高校生っぽい。


「い、行きたい!」


思わず身を乗り出してそう言うと、早坂くんはちょっと目を丸くしてから、ニッと嬉しそうに笑ってくれた。


明日が楽しみだと自然に思えたのは、いつぶりだろう。





翌日、帰りのホームルームが終わると、そわそわしている僕のもとへ早坂くんが来てくれた。


「ひまり、行こ!」


「う、うん!でも、そういえば、どこに……?」


「それは着いてからのお楽しみっ」


早坂くんは、自然に僕の手を取って歩き出す。

やっぱり、早坂くんは今日も眩しい。

光に手を引かれたら、僕も明るい未来に行けるような気がしてしまう。





「ここって……」


「ひまりが美味しそうって言ってたケーキ屋さん。調べたら、意外と学校からアクセス良かったから」


「覚えててくれたの?」


「もちろん。ほら、バレンタイン限定のチョコケーキセット?あと一週間で終わっちゃうでしょ」


「う、うん」


先月の終わり頃、偶然見かけたSNSの投稿で、このお店のことを知って……早坂くんに「何見てるの?」って言われたから、なんとなく見せただけだったのに。

まさか、あんな小さな会話まで覚えていてくれたなんて、本当にびっくりだ。



早坂くんと注文したチョコケーキセットは、ミニサイズのオペラ・ガトーショコラ・テリーヌショコラ……などなど、チョコ系のケーキが何種類も楽しめる夢のようなメニュー。

お値段はそれなりにするけれど、なんといってもバレンタイン限定のメニューだし、一度は食べてみたいなぁと思っていた。

そのお味は……


「……!美味しい……!」


「ほんと、美味しいね!」


さすが、グルメサイトで高評価を獲得しているだけあって、想像以上に美味しくて。

セットでついてくる紅茶と一緒に食べ進めたら、あっという間になくなってしまいそうだ。


「ひまりは、チョコレートが好きなの?」


最後のガトーショコラをちまちま食べていたら、先に食べ終えた早坂くんに尋ねられた。


「んー、そうだね、好きだよ!毎年、家でチョコケーキ作って……」


そこまで言って、口を噤んだ。

どうして僕は、すぐに和くんとの思い出に結びつけてしまうんだろう。


「へぇ、ひまりの作ったチョコケーキも、いつか食べてみたいな」


「……!」


早坂くんは紅茶を飲みながら、少し寂しそうに呟いた。

僕がまた、上の空になりかけたせいだ。

こんなに素敵な場所に、連れてきてくれたのに。


「は、早坂くんは、チョコ好き?」


おうむ返ししかできない僕に、早坂くんは優しく微笑んでくれた。


「……うん。ひまりと一緒に食べたものは、全部好きだよ」


「……!そ、そっか……」


早坂くんの瞳が、内側まで透き通すように僕を見つめている気がして、思わず目線を逸らした。

心臓の鼓動が、ちょっぴり速くなった。





ケーキ屋さんを出る頃には、外が随分と薄暗くなっていた。

冬は本当に日が沈むのが早い。

日が沈むと、気温もどんどん下がってきて……


「さむ……」


手袋をしていないから、手先がすっかり冷たくなってしまいそうだ。


「ひまり、これあげる」


隣を歩く早坂くんが、僕の手に温かいものを握らせてくる。


「カイロ……いいの?」


チラリと横顔を覗くと、早坂くんはコクリと頷く。


「ありがとう……あったかい……」


悴んでいた指先と手のひらに、じわじわと熱が伝わってきて、心の凍った部分も、ほんの少しだけ溶けていく気がする。


「……ねぇ、ひまりはさ、バレンタイン、誰かにチョコあげるの?」


「っ……!」


唐突なその質問に動揺して、危うくカイロを落とすところだった。


「え、えっと……迷ってる、かな」


「なんで迷うの?」


「それは……」


和くんには、可愛い彼女がいて。

僕がチョコを渡しても、邪魔者になるだけ。

返ってこない“好き”を届けるのは、虚しいだけ。

でも、毎年恒例だったやり取りを、自分から断つのも……



「……まだ『かずくん』が好きなの?」


「ん……えっ!?」


なぜ、どうして、早坂くんが和くんのことを。


「ひまりが切ない声で『和くん』って呟くの、何度も聞いたことある」


「ぇ……」


早坂くんは足を止めて、僕に真正面から向き合った。

まっすぐこちらへ向く視線が、なんだか、熱い。


「……遠足のお土産も、廊下で蹲って泣いてたのも、全部、『和くん』って人のためでしょ?」


「っ……」


そういえば、あのときも、早坂くんだった。

和くんがモテるって噂を聞いた夏の始まり。


『ちょっと、大丈夫!?』


廊下で落ち込んでいた僕に、声をかけてくれた優しい人。

あのときの僕は、焦って逃げてしまったけれど……。


「……ひまりが『和くん』って呟く度に、ドキッとしてた。俺のことだったらいいのにって、いつも思ってた」


「へ……あ……」


早坂はやさかかずくんの言いたいことを、ようやく理解する。

心臓がドクドク速くなる。

僕、今、生まれて初めて―――。


「その人とひまりは両想いなのかと思って、我慢してたのに。ひまり、どんどん辛そうな顔になっていって……俺なら、ひまりにあんな顔させない」


「は、早坂く、」


「ひまり」


早坂くんの手が、頬に触れた。

熱くて、やさしくて、甘い。

動揺して乱れた呼吸が、白く可視化されてしまって、恥ずかしい。


「俺、ひまりのことが好きだよ。俺と、付き合って」


「っ……」


「……『和くん』って呼び間違えても、大丈夫だよ。俺、分かんないから」


「そ、そんな……」


早坂くんは、痛々しく笑っていた。

僕は、胸を抉られたような気分になった。

和くんのことを好きなままで、僕のことをこんなに大切に想ってくれる人と付き合うなんて、できるはずがない。


「っ、むり、だよ。そんなの、早坂くんに、失礼すぎる。できないよ……」


「失礼とか、思わなくていいのに……まあ、ひまりならきっと、そう言うと思ってたけど」


「っ、ごめん、なさい」


「なんで謝るの」


胸が苦しくなるほどに優しい顔をする早坂くんに手を引かれ、そのまま腕に閉じ込められた。

ぎゅう、と抱きしめられる感覚に、僕の方が泣きそうになってしまう。


「急に言われても困ると思うし、すぐにとは言わないけど……お試し感覚でいいからさ、付き合ってみて、またこうやってお出かけしようよ。美味しいものいっぱい食べて、綺麗な景色も一緒に見に行こう。そしたら、きっと……今の気持ちも、忘れられる」


「っ、うっ、」


ダメだ、涙、止められなかった。

早坂くんのコート、濡らしちゃってる。


僕が、早坂くんと、付き合う?

和くんのこと、まだ好きだって分かってて、それでもいいって言ってくれるの?

もし、それで、和くんへの気持ちを忘れられたら……

僕は、また、心の底から笑えるのかな?

和くんとあの子に、お幸せにって言えるのかな?


「……ひまり」


「っ、」


顔を上げると、早坂くんが目元の粒を拭ってくれた。

拭ったそばからポロリと一粒零すと、困ったなぁという風に微笑まれた。


「よし……身体が冷えちゃう前に、帰ろうか」


「……うん……あ、そういえば、さっきのお金、」


「いらないよ。バレンタインの、本命チョコだから」


早坂くんは、財布を出そうとした僕の手を取り、甘やかに笑った。

混ざり合う体温が熱くて、早坂くんにもらったカイロの出番がなくなってしまった。





一ヶ月後、ホワイトデー。

僕は、すっごく緊張しながらお店の扉を開いた。


「いらっしゃいませ〜」


「あ、えっと、よ、予約した橋本です!」


「橋本様ですね、こちらへどうぞ〜」


優しい店員さんに案内された方へ向かうと、きちんと二人分の席が確保されていて、ホッと胸を撫で下ろす。


「ふふ、ひまり、緊張しすぎだよ」


「だ、だって、こういうの初めてで、予約できてなかったらどうしようって思って……」


今日は、バレンタインのときのお礼として、早坂くんと一緒にカフェにやってきた。

いちごタルトが有名なお店で、平日でも割と混んでいると口コミに書いてあったから、二週間前から予約をしておいたんだ。

こんなにおしゃれなカフェの予約を取るなんて、全然慣れていなかったから……正直、今この瞬間まで、不安でたまらなかった。


「でも、嬉しいな。ひまりが一生懸命お返し考えてくれたんだなって思うと」


「そりゃあ考えるよ!あんなに素敵なところ連れていってもらって、美味しいケーキ奢ってもらって……って、注文しなきゃね!」


外食の経験は人並みにあるのに、メニュー冊子を三秒間反対向きで見てしまうくらいには、今日の僕は緊張していた。


「ふふ、ほんと、ひまりって可愛い」


「かっ……!?か、からかわないでよ」


熱くなる顔を冊子で隠そうとしたら、手首を掴まれて、視線をぱちっと合わせられてしまった。


「からかってないよ。本当に可愛いと思ってる」


「ぁ……はい……」


早坂くんはふっと微笑んで、僕のほっぺたをツンツン、とつついた。


「さて、じゃあ注文しますか〜」


結局、その後の注文は早坂くんに任せちゃったし、お会計はモタモタしちゃったし、あまりスムーズにはいかなかったけど……

早坂くんはずっと楽しそうな笑顔を見せてくれてたから、一応、ホワイトデー成功……だと思いたい。





「あのさ、ひまり」


「ん?」


「バレンタイン、あげたの?」


帰り道、単刀直入にそう聞かれた。


「……あげてないよ」


「なんで、あげなかったの」


「和くんはもう……他の人の彼氏だから。僕が彼女の立場だったら、彼氏に近づいてくる人なんて、すごく嫌だもん」


「……ひまりは優しすぎるね……」


「優しくなんかない……一番の理由は、ただ、絶対に振り向かない人にチョコレートを渡すのが、寂しいからだよ」


和くんにチョコレートを渡すとして……

それを選ぶ時間、買ってから渡すまでの時間、和くんのことをずうっと考えて。

会えたときには、和くんの一挙手一投足に心を揺り動かされて、どんな感情になったとしても、最後に残るのは、切なさだけで。

そんなの……寂しくて、死んじゃいそうだから。

今年は、和くんに何も渡さなかった。


「……ひまり!」


「?」


ふと気づくと、早坂くんが少し後ろで立ち止まっていた。

茜と藍のグラデーションをバックにして、僕を見つめていた。

その視線はじりりと熱を発しながら、僕の心臓の真ん中を焦がすような気がした。



「もう一度言う。俺、ひまりのことが好きだよ!」


「っ……!」


「絶対、好きにさせてみせるから……俺と、付き合おう!」



ゆらりゆらりとハートが揺らぐ。

早坂くんと一緒に過ごすのは、楽しい。

好きになれるかは、まだ分からない。

でも……目の前に差し伸べられた手を、握ってみたいと思った。


小学生の頃から、人見知りで、引っ込み思案で。

中学生の頃は、和くんに頼りっぱなしだった僕だけど……


変わってみたい。

和くんがいなくても、進んでみたい。

生まれて初めて、自分に向けられた「好き」を、ちゃんと受け取ってみたいんだ。


「……早坂くん」


「っ……!」


ぎゅ、と手を握った瞬間、怖くなった。

和くんに片想いする毎日が、僕の当たり前だったから。

でも、当たり前を壊さなきゃ、何も、変わらない。


「……っ、よろしく、お願い、します……」


「……!うん!よろしく、ひまり!」


「わっ」


勢いよく抱きつかれて、身体のバランスを崩しかけた。


「は、早坂くん、」


「名前で呼んでよ」


「!」


「……恋人なんだから」 


名前を呼ぶのも、怖かった。

好きな人と似ている音を、発することができるのか。


「……か、和希かずきくん!」


言え、た。

口にして初めて、自分は和希くんの名前を呼べるのだと知った。

出たとこ勝負みたいになってしまったけど、確かに僕は、呼べたんだ。


「……和希くん……」


「っ、きゅ、急に何回も呼ばれると、照れるよ」


「あ、っ、ごめん!」


耳まで赤くなった和希くんを見て、僕はなぜか、嬉しくなった。

僕が彼を呼んだ声が、ちゃんと届いたと実感できたからかもしれない。


心に春の予感が吹き抜けたような、高一の終わり。

人生で初めて、彼氏ができた。

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