第6話 妖、襲来
妖祓士の養成学校といえど、その日常の大半は退屈な授業と、代わり映えのしない風景で構成されている。
中間テストという地獄の関門を、凪雲のスパルタ教育のおかげでどうにか潜り抜けた俺に待っていたのは、平穏な放課後だった。
放課後の特別棟、最上階。
民俗学研究部の部室には、今日も静寂と紅茶の香りが満ちている。
「…… 『百鬼夜行発生の誘発に関する考察』……?」
俺は手元の古びた本をパラパラと捲りながら、その物騒なタイトルを読み上げた。
窓際の特等席では、部長の雨宮シズク先輩が優雅にティーカップを傾けている。
「ええ。興味深いでしょう? 古来より、妖の大規模な行進──百鬼夜行は、自然発生するものと、何者かが意図的に引き起こすものがあると言われているわ」
「意図的に、ですか。……そんなことして何のメリットが?」
「さあね。憎しみか、実験か、あるいは単なる愉快犯か。……本にはこうあるわ。『その前兆は、大気の震えと共に訪れる。守りの要が内側より食い破られる時、災厄は雪崩の如く押し寄せる』……とね」
シズク先輩の澄んだ声が、詩を詠むように響く。
内側より、食い破られる。なんだか薄気味悪い表現だ。
「ふあぁ……。ま、今の俺たちには関係ない話ですね。ここには結界もあるし、それだけじゃなくて烏羽隊長みたいな化け物もいる」
俺はあくびを噛み殺しながら、本を閉じようとした。平和ボケと言われればそれまでだが、この堅牢な学校が襲われるなんて想像もつかない。
──ドォォォォォォンッ!!
その思考は、腹の底に響くような重低音と共に強制終了させられた。
「……は?」
俺の手から本が滑り落ちる。
床に落ちた本が開いたページには、奇しくも『崩壊』という文字が挿絵と共に描かれていた。
直後、空気がビリビリと震えだす。
窓の外を見ると、茜色だった夕焼け空が、見る見るうちに赤黒い毒々しい色へと変色していく。まるで絵の具をぶち撒けたように。
「……結界が破られた?」
シズク先輩が立ち上がり、窓の外を凝視する。その冷静な瞳が、わずかに細められた。
「……ツジキ君。どうやら貴方の読んでいた本、予言書だったみたいね」
校内にけたたましいサイレンが鳴り響く。 訓練用の音じゃない。本物の、緊急事態を告げる警報だ。
『緊急警報! 緊急警報! 校内に多数の妖反応を確認! 結界消失! これは訓練ではない! 繰り返す、これは訓練ではない!』
「嘘だろ……」
まさに、本を読んでいたその瞬間に。俺の平和な日常は、唐突に終わりを告げた。
◇
「走れ御影! 遅れるな!」
「分かってるよ!」
廊下はパニック状態だった。
避難指示に従い、全生徒がシェルター機能を持つ講堂へと殺到している。
俺の隣を走るのは、たまたま廊下で合流した凪雲リクだ。
いつもは冷静な凪雲だが、顔色を見るに相当焦っている。
その焦りがこの状況の特異さを物語っている。
講堂まで走りながら、凪雲は俺に質問して来る。俺が答えを知ってないことを、分かっているのに。
それほどまでに動揺しているのだ。
「状況はどうなってる!? なんで結界がいきなり!」
「分からん! だが、外部からの攻撃だけであそこまで瞬時に崩壊するはずがない。
……先輩の言っていた通り、内側から干渉があったのか……?」
凪雲が走りながら眼鏡の位置を直す。
廊下の窓から、グラウンドの様子が見えた。
「な……ッ!?」
俺は絶句した。
グラウンドを埋め尽くす、黒い影、影、影。
百、いや千はいるんじゃないか?
大小様々な異形の群れが、校舎に向かって波のように押し寄せている。
「いいからお前ら! 生徒に指一本触れさせるな!」
その黒い波の最前線で、雷鳴のような怒号が轟く。
烏羽シンヤだ。どうやら他の教員に指示を出しているらしい。
彼は外套を翻し、たった一人で数百の妖を相手に暴れ回っていた。
「《霊式・双牙雷公》ッ!!」
彼が拳を振るうたび、蒼い稲妻が走り、数十体の妖が瞬時に消し炭になる。圧倒的だ。
これなら──
「駄目だ……数が多すぎる!」
凪雲の声にハッとする。
確かに烏羽隊長は強い。だが、倒しても倒しても、後から湧いてくる妖の数が減らないのだ。
それに、妖共は烏羽隊長を恐れつつも、彼を避けて校舎の別の入り口へと殺到している。
「多勢に無勢っす! 先生たちが前線を支えてる間に、早く講堂へ入るっすよ!」
階段の踊り場でワカバが俺たちを手招きしていた。彼女もまた、呪符を何枚も展開し、侵入してこようとする小型の妖を撃ち落としている。
「ワカバ! この襲撃、一体何なんだ!?」 「分かんないっす! こんな『百鬼夜行』 みたいな規模初めてっす! とにかく今は生き残ることだけ考えるっす!」
『百鬼夜行』。シズク先輩の言っていた通り、これはそうなのかもしれない。
俺たちはワカバに急かされ、巨大な鉄扉で守られた講堂へと滑り込んだ。
◇◇◇
講堂の中は、数百人の生徒たちの熱気と恐怖で満ちていた。
泣き出す一年生、落ち着いて武器の手入れをする上級生、教員への連絡を試みる者。
「……ひどい有様だな」
「混乱するなと言う方が無理だろう……」
凪雲が周囲を見渡しながら呟く。
だが、とりあえずここなら安全か。壁も扉も、対妖用の特殊合金と結界で守られている。
先生たちが外で食い止めてくれれば──
ズガァァァァンッ!!
安堵しかけた思考を爆音が粉砕した。
「きゃあああああッ!?」
「な、なんだ!?」
講堂の天井付近にある強化ガラスの明かり取り。そこが、外側から突き破られた。
パラパラと降り注ぐガラスの雨。
そして、その穴からズルリと這い出てくる黒い影。
「侵入された!? 迎撃しろッ!」
上級生の一人が叫び、霊式を放つ。だが、侵入してきたのは一体や二体ではなかった。
割れた窓から、換気口から、そして壁のわずかな亀裂から。
黒い液状の何かが染み出し、それが次々と実体を持って異形へと変わっていく。
「キシッ……キシッ……キイ!」
「ケケケ……ケケケ……!」
猿のような身軽な妖、鎌を持った蟲のような妖。
講堂内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
「嘘だろ……ここは安全じゃないのか!?」
「御影! 来るぞ!」
俺の目の前に、天井から
鋭い爪が俺の喉元を狙う。
「くっ……《霊式・断閃》!」
俺はとっさに霊力を練り上げ、零式を放つ。
白い閃光が走り、蜥蜴の首が飛び、緑色の体液を撒き散らして絶命した。
「はぁ、はぁ……やったか……?」
一体倒した。
だが、顔を上げた俺の目に映ったのは、絶望的な光景だった。
倒した妖の背後から、二体、三体と新しい妖が這い出てくる。
さらに、入り口の鉄扉が「ドンドンドンッ!」と激しく叩かれ、今にも破られそうだ。
「キリがないっす! こいつら無限に湧いてくるっすよ!」
ワカバが護符を撒き散らしながら叫ぶ。
「御影、右だ! 援護する!」
凪雲が俺の背後を守るように立ち、迫り来る妖の脚を正確に撃ち抜く。
俺達は背中合わせになり、円陣を組んだ。
「凪雲、ワカバ! これ、どうすりゃいいんだよ!」
俺は叫びながら、二体目の妖を蹴り飛ばす。
先生たちは外で足止めされている。講堂内はすでに乱戦状態。
守るべき避難場所が、檻の中の狩り場になってしまった。
「撤退もできない。籠城も破られた……」 「つまり……ここで全員戦い続けるしかないのか……」
俺の視界を、無数の黒い影が埋め尽くしていく。
先ほど読んだ本のフレーズが、呪いのように頭の中でリフレインした。
『災厄は雪崩の如く押し寄せる』
その言葉通り、俺たちの目の前には、妖という「災厄」が雪崩のように迫っていた。
「……上等だ。やってやるよ!」
俺は震える手で構え直し、終わりの見えない戦いへと身を投じた。
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