8th number『Strange Fruit』

「チャンスは今年だけなの」

 智絵里はトートバックに1Lの蜂蜜を入れ、ルイーズの待つレッスンスタジオへ向かった。ノートが一冊入っていないだけでここまで軽くなるとは思わなかった。


 スタジオの扉の前までたどり着き開ける前に気合を入れ直す。しかし手の平で頬を持ち上げてもすぐに憂色が戻ってしまう。

 無理やり笑ってみると少し気分が良くなったが、それも長くは続かない。


 どんな顔をして入ろうか悩んでいるとスマートフォンが鳴った。倉九からの短い連絡だった。


『知久からでんわ! どうしよ』


 なんとなく文章からも伺える動揺に、智絵里は苦笑する。顎に手を当てて暫く考え、高速でメッセージを打った。


『レッスンが終わったら行くから待ってて! この前集合したお店ね!』


 メッセージ上のやりとりだったが、倉九に触れたおかげで心に余裕が生まれた。


「よしっ」


 と、その勢いのままスタジオの扉を開けた。


「おはようございまっ」


 マイクや録音機などを準備していたルイーズが振り向き「早いね」と出迎える。智絵里は笑顔を取り繕い、いつも座っている椅子へ腰かける。


「チェリー、元気がないね」


 英語の歌詞が書かれた譜面を用意しながら、ルイーズは尋ねた。


「えっ、そうかな? 元気元気!」


 彼女は力こぶを作ってみせる。何か言いたそうにしているルイーズを先制するように続けた。


「それより先生、黎木さんに歌声のロリっぽさをもっと消せって言われちゃいました」


 ルイーズが首を左右に振り、やれやれといった様子で肩をすくめる。


「最初に比べれば大分ジャジーさ。ほんの数か月で完璧にできるやつはいないよ」


 彼女はマイクの設置を終え、「ま、あとは経験の問題かね」と悪戯っぽい表情で付け加える。


「経験? って?」

「チェリー、これは半分冗談で本気の質問だけど、男と寝たことあるかい?」

「パパとなら小っちゃい頃に寝てましたけど」

「ノンノン、ボーイフレンドと」


 ルイーズは抱きしめたりキスしたりするジェスチャーで性行為を暗喩する。

 智絵里はクイズでも解く顔をしていたが、はっとして耳まで真っ赤にし、しおらしく首を左右に振る。


「なら、普通に歌うよりまだ楽器模倣ヴォカリーズの方が闘える」

「……でも教えてもらった基礎的な出し方だと、負担はないけどロリっぽいし、楽器っぽくも歌えないんです」

「個性を消すのがボイトレだもの。そりゃそう」

「先生矛盾してるじゃん!」

「してないさ。喉を開いた負担のない素の声、負担のある個性的な歌い方、その二つの良いとこ取りをチェリーに会得させるのが私の仕事。難しい事だよ、すぐには無理さ」


混乱している智絵里の両頬を横にひっぱり、ルイーズは顔を上げさせた。


「ひぇんへぇ、いひゃい」

「あんたは歌手だろう。頭じゃなくて口動かしな。レッツゴーチェリー!」

「ひゃい!」



 レッスンは普段通りに進み、時計の長い針が一周した。今日は発声がメインではなく課題曲の英語を中心に行った。

 喉の痛みを堪えながらルイーズの指示に上手くついていく。蜂蜜をなめても休憩を経ても声帯の痛みは増していき、途中から智絵里は喋ることを止めてしまった。


 なんとか一曲を繰り返し歌い切り、ルイーズが音源を止めて満足そうに手を叩く。


「英語で歌うのも様になってきた。異言語の語感を肌で感じられるのはいいねぇ」


 智絵里は喜ぼうとして思わず力が入り「っごほ、げほ!」と異常に咳き込む。

 しばらく咳は止まらず、涙と苦痛に背を曲げた。ルイーズが辛辣な雰囲気で指をくいと上げる。


「ちょっと喉見せてみな」

「だ、大丈夫です。風邪引いただけで……」

「オープン、ハリアップ! ハリィハリィ!」


 ルイーズは小さい顔と顎を掴み無理やり口を開けさせようとするが、必死の抵抗で中々思い通りにいかない。口を一文字にして綴じ、頬を膨らませて顔を背ける。


「む、虫歯あるの! 恥ずかしい!」


 埒が明かないと思ったルイーズは手を離し、深く溜息を吐いた。


「私はあんたの秘密を握ってるんだよ。レイキーにバラされたくなかったら、ちゃんと見せな」

「うぐ……」

「本気で心配してるんだよ」


 それでも智絵里はしばらく黙殺したが、とうとう観念した。

 大きく口を開けると、奥の方は赤く、素人が見ても炎症して爛れているのがわかった。


 ルイーズは凄惨な事件から目を背けるように顔を逸らし、聞き分けのない子供を叱るかの如く腕を組む。


「無理はしないって約束は? これはさすがに……」


 自身の服の裾をぎゅっと掴み、智絵里は真剣な顔つきになった。


「先生、私、アメリカに行っちゃうんです。チャンスは今年だけなの」

「なんだって? アメリカ?」


 ルイーズは椅子に座り足を組んだ。


「色々、あって」

「……それでもノー。最悪、喋れなくなる可能性もある」

「それでもいい」

「ノー。良くない」

「いいの。黎木さんにチクったら、先生の家にウマのクソをばら撒く」

「それは困るね。でも絶対にノー」


 沈黙の帳を下し、二人はたっぷり一分睨み合った。

 ルイーズは熟考したのち、表情を崩して天を仰ぐ。


「……強情だね。わかったよ、でも条件がある」


 手放しでは喜ばず、智絵里は無言で続きを待った。


「基礎的な歌い方、つまり地声のロリ声でメロディをなぞるだけなら、歌ってもいい。ジャジーにしたり、楽器模倣ヴォカリーズをやったりは負担が大きすぎる。オーケー?」

「でもそれだと、大会で勝てません……」

「じゃあ諦めな」


 再びたっぷりと悩んだ後、智絵里は不服そうに了承する。一先ずの妥協案に、二人は重苦しい空気を隅へやった。


「じゃあまず、チェリーにはやらなきゃいけないことがあるね」

「うん? 新しい練習方法とか?」

「いや、少しでも色気を出すために男と寝てくるんだ。とりえあず百人くらい、レッツゴウ!」

「ノー! 絶対にノー!」


 智絵里は顔から火が出るくらいに赤面し、腕をバタバタと投げ散らかした。

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