約束
――数年前
「ほら智絵里、パパにお帰りなさいは?」
小学生の智絵里と母は羽田空港まで父を迎えに来ていた。久々の帰国に母は笑顔で出迎えるが、智絵里は不貞腐れている。
「ただいま、智絵里」
父が優しく話しかけるも、そっぽを向いて口を利かない。子供らしく拗ねて泣き出しそうですらあった。父親は屈んで目線を合わせ、愛おしそうに苦笑する。
「世界で一番大きいショーだから、トラブルは付きものなんだ。ごめんよ」
父が覗き込むと別の方向へ顔を向けてしまい、どうしても目を合わせない。父と母は困ったね、と目配せする。
「智絵里、ちょっとおいで。ママも、ほら」
父は二人の手を繋ぎ、空港の第二ターミナル地下一階へ連れて行った。智絵里は父を何度も見上げ、話したそうにうずうずしている。
彼女はわざと反対の方を向いて「誕生日、帰ってきてくれるって約束したのに」と呟いた。父は顔に皺を作って我が子を抱き上げる。
「今からサプライズプレゼントするから。それで許してくれ」
不思議そうな顔をする智絵里に、はにかんでみせた。
空港地下に設置されているストリートピアノがあるカフェへ着いた。
「ピアノだ!」
と、智恵理は先ほどまでの不機嫌を吹き飛ばし、父の腕の中ではしゃぐ。父は智絵里を床に下し、ピアノで運指を始めた。
周りの人がまばらに注目しだす。ほんの少し声出しをしてから、ジャズ風にアレンジしたハッピーバースデーを歌い出した。
智絵里の顔に花が咲き、両手を上げて喜ぶ。
智絵里は父の歌真似をして、一緒に歌い出した。父は歌いやすいようにポップな曲調に変え、歌もハモリに転じて主役の座を譲る。
道行く人も立ち止まり、確かな演奏と可愛らしい歌声に聞き惚れた。この時、羽田空港は世界で一番優しいショーが演じられていた。
歌い終わると周りから盛大な拍手が送られる。それは演奏に対してだが、智絵里は自分の誕生日ごと世界から祝われているような気がした。
父は観客へ一礼し、手を振って応えた。
「凄いぞ智絵里、見てみろ、皆度肝抜かれてる」
我が子を抱き上げて額へキスをする。智絵里は「えへへ」と照れ臭そうに笑った。
「本当に上手……天使みたいだったわ、智絵里」
母は目に涙を溜めて言った。
何処を向いても知らない人が拍手し、皆が笑っている。父は自慢気で、母は震える程感動している。
智絵里は自分の喉を触り、この場の幸せを一つも逃さないように深呼吸した。
満たされたこの空間で、今一番感動しているのは誰でもない彼女自身だった。智絵里は父の服の裾を掴み、羽が生えて飛び回らんばかりに言った。
「私、もっとパパと一緒に歌いたい! それでね、また同じステージで歌うの!」
「じゃあ、パパみたいにプロにならなきゃな。目指せワールドジャズフェスだ」
「ワールド……?」
「パパが今回行ってきた、大きなジャズのショーだよ。今日のお客さんの、何百倍も人が来る」
「凄い! 私もパパとそこに出る!」
「よーし、約束だ」
父と智絵里は指切りをする。母は抱きかかえられている智絵里の頭を優しくなでた。
「智絵里なら絶対叶えられるわ。ママが保証する」
母は満面の笑みで頷く。
その頭を撫でていた手が智絵里の首へ移動し、強く締められる。
智絵里は急に襲ってきた苦しさと痛みに困惑し、呼吸が出来なくなった。
いつの今にか、母の顔は現在の疲れ切った様子に変わっていて、金切り声で叫ばれた。
『もう二度と歌わないで』
――「ごほっ!」
智絵里は喉の痛みで目を覚まさし、うたた寝していたことに気付いた。
眠る前に見ていた、ポスターの父が目に入る。
急に涙がこみあげ、体を縮こませた。抱えていた楽譜ファイルにしがみ付き、目から垂れる水を何度も拭う。
智絵里は急いで布団をかぶり、枕に顔をうずめた。少しの間喉の痛みを忘れ、声をあげて泣いた。
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