「もう二度と歌わないで」

 智絵里は洗面所にて、着ていないカモフラージュの制服を洗濯機にかけた。その間にうがいをすると、多少血が混じっていた。

 口を開けてスマートフォンのライトで器用に照らし喉の奥を確認する。もう一度濯いでから口を閉じ、手で無理やり口角を上げた。


 食卓に戻ると既に準備が終わっていた。食事、薬の袋、遺影、うなだれている母。智絵里が席に着くと母は形式的に祈り、食事が開始される。


 痛みを隠していつものように振る舞っていたが、母はいつにも増して生返事が多く、食事の進みも悪い。

 智絵里が異変に気付き始めた頃、母はナイフとフォークを置いて改まった。


「智絵里。大事な話があるの」


 日々の病的な深刻さではなく、久しぶりにまともな、母の神妙な面持ちだった。


「大事な話って?」

「あなたが高校を卒業したら、二人でアメリカに行くわ」

「……あ、アメリカ?」

「言ったでしょう、お仕事紹介してもらうって。ママの友達、向こうで事業をやっているの」

「そんな、勝手に……」

「あと、ママに何か言うことない?」


 言葉の真意がつかめず面食らっていると、言うが早いか、母は膝上に隠していたノートをそっと置いた。卓上のそれは先ほどトートバックから落ちた練習ノートだった。

 智絵里は見覚えのあるノートを前に絶句した。とてつもない動揺に喉ぼとけが上がる。


「歌の練習、しているのね」


 手が震えるほどの動悸を、智恵理はうるさく思った。冷や汗が背中を伝う。


「今回は、見なかったことにするわ」


 母は失望したように言った。寛大な言葉だが、悲哀がほとんどを占めていた。ふらふらと立ち上がり、父の遺影を持ち上げて我が子へ近づく。

 俯いている智絵里の膝上に遺影を乗せ、肩をぎゅっと掴んだ。


「その代わり、もう二度と歌わないとパパに誓って」

「え?」

「さぁ、『パパ、私は二度と歌わないことを誓います』と言って」


 母の声は優しく、遺影の中の父も笑っていた。

 黙っている智恵理へしびれを切らし、母はテーブルを叩いた。


「もう二度と歌わないで」


 テーブルを再び叩き、泣きそうな声で智恵理に懇願する。


「お願い、誓って……早く」


 智絵里は困惑を極めていたが、母の顔をなんとか見ることが出来た。母の爪がめり込んだ自身の肩に手を添えて「痛い」と呟くと、母は沸騰したヤカンへ触れたように手を離した。


「ごめんなさい、智恵理、ごめん……」


 すぐに小さな肩を優しく撫で、席に戻って薬を流しこんだ。

 テーブルに両肘をつき、遺影を抱えるようにして黙ってしまった。押し殺す泣き声が蚊の羽音のように聞こえる。


 見るに耐えず、智絵里は食事を止めた。静かに席を立ち、精いっぱい元気を繕って告げる。


「今日はもう寝るね。おやすみなさい」


 片付いていない食器をぼうっと見つめ、そのままリビングから消えようとした。

 寸前、か細い声で「智絵里、待って」と聞こえる。振り向き、努めて平静に首をかしげた。


「愛してるわ」


 母から飛んできた言葉は、ぐちゃぐちゃになった感情だった。


「私も、ママ」


 智絵里はぎこちなく搾り出し、リビングから逃げた。


 母は遺影をテーブルに置き、いつもより多く安定剤を胃に流し込む。体が受け付けず激しく嘔吐して床を汚した。フローリングに向かって、ごめんね、と呪詛を唱えてすすり泣いた。



 智絵里は部屋に戻って扉を閉めた。

 カーテンの開いている窓から月明かりだけが照らし、部屋は薄暗い。父の形見である楽譜ファイルを抱えてベッドに座り、そのまま流れるように横になった。


 茫然としたまま、飾ってある父のポスターを目に入れる。


「ごほっ……」


 ポスターの父も遺影と同じ笑顔をしている。楽しそうに仲間たちと演奏し、聞いている人も笑顔にしている。

 父の笑顔を見たまま、智絵里は喉に指を触れ、何かを思い出すように静かに眼を瞑った――。

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