「大人のれりぃに向かぁて重いとぁなにか!」
【ランチタイム 13:00~15:00】と書かれた自立式ブラックボードは、色とりどりのチョークでお洒落にデコレーションされている。
「こ、ここは……バー? カフェ?」
倉九の質問に黎木は答えず、先頭を切った。倉九は未だに巻き付いている智絵里の頭に手を置き、キーボードをぐっと背負いなおす。
お化け屋敷にでも入るように気合を入れて歩を進めた。巨躯に抱き着ついたまま引きずられる形で智絵里も入店する。
店内は半分も埋まっておらず、穏やかなBGMに相応しい静かな雰囲気だった。
「いらっしゃい」とマスターは営業用の声で出迎え、ドアを潜って入って来る巨躯へ目を奪われる。「なに、モデルでもナンパした?」
自分の高い背丈が客の視線を釘付けにしていることに気付き、倉九は気まずそうに丸くなる。
黎木はマスターの冗談を無視して四つがけのテーブルへ勝手に座った。少し腰を浮かせポケットに入っていた煙草とライターを放り投げる。
その手で向かいの椅子を差し、倉九と智絵里に座るよう促す。倉九は棺のようなキーボードケースを床にそっと置き、智絵里が絡まったままおずおずと腰を下ろした。智絵里も抱き着いたまま厳しい角度で隣の椅子に座る。
「パーカー、いつまでくっついてるんだ」
「抱き心地がめっちゃ良くて」智絵里は倉九を開放して続けた。「ずっと思ってたけど、なんか臭いね! 昨日お風呂入った?」
直球の感想に倉九は気まずそうに赤面する。
「ち、ちゃんと一週間くらい前に入ったよ」
「ぅええええ!」
智絵里は椅子から立ちあがり、勢いよく後ろへ下がった。水を持ってきたマスターがぶつかりそうになり華麗に躱す。くるりと回って、テーブルの上へ人数分のコップを置いた。
「消毒用アルコールも一緒に持ってきた方が良かったかな」
「へへ、お風呂、めんどくさくて……」
黎木は背もたれいっぱいに体を預け、引き気味に距離を取った。智絵里が「ごめん! 立ったついでにトイレ借りるねっ」と席を離れる。
急いでトイレに向かう彼女を尻目に、煙草を一本取りだして気怠そうに火をつけた。
「早速だが、オーディションの話だ。お前は合格」
ガタン、と倉九はテーブルに膝を打つ。
「ほ、ほんとですか! よし、脱ニート!」
「で、お前ジャズの経験は?」
歪に笑みを浮かべていた倉九の表情がさらに歪む。三日月の口を変形させ、天を仰ぐようにしていた腕をゆっくりと下げた。
「ジ、ジャズバンド、なんですか? 聞いてないんですけど……」
「言ってなかったが、あの場にオーディション会場は二つあった。間違えてこっちに来たのがお前の運の尽きだ。いや、運が良いのかもな」
状況を把握するのにしばらくの時間を要したが、倉九はようやく理解して俯き、指をもじもじといじり出した。
「私、ジャズの理論わからないんですけど……」
「講師は用意してある。あとこれはデビューじゃない、お前はニートのままだ」
「ええっ?」
倉九はボリボリと頭をかきむしる。フケが舞って雪のように床へ散乱した。
「あの、私、馬鹿だし、が、頑張るアレルギーだし……すいません、これにて失敬を……」
「そうか。じゃあ今すぐ金を返してくれ」
「か、金?」
「お前が投げて壊したシンバルと防音室の壁、合わせて数十万。請求書は俺に来るよう立て替えておいたんだ。帰るなら今すぐ返せ」
「すう、じゅう」
倉九は震え出し、動転した蟹のようにぶくぶくと泡を吹く。
いつの間にかトイレから戻って来ていた智絵里は、耳打ちするため黎木の側へ立った。
「なんだ、随分早いな」
「誰か入ってました」と言って続ける。「聞こえてましたけど……最初にシンバル壊したの、黎木さんですよね」
黎木は唇に人差し指をあて「良いピアニストが欲しいだろ」と小声で返す。智絵里は俯いている倉九を見て「むむむ」と葛藤したが、悪魔の囁きに負けて巨躯の隣へ戻った。
倉九も「ううう」と頭を抱えている。
「私、家で妖怪穀潰しとか生きる家賃の無駄とか言われてるのに、これ以上迷惑かけられないんですぅ……」
「バンドに入るなら出世払いでいい。じゃなけりゃそのキーボードを売って今返すか。それでも足りない場合、マネージャー業で無給労働してもらう」
「ろっ、労働!?」
閻魔大王から罪状を申し付けられ、蜘蛛の糸を手繰り智絵里へ助けを求める。しかし彼女は気付かないふりをして口笛を空吹きした。
(普通に働くより、マシか……このバンドに、賭けるしかない)
「……り、りょーかい。そ、その先生、教えてください」
黎木は煙草の灰を灰皿へ落とした。
「パーカー、新メンバーに自己紹介してやれ」
「やったー! 私、智絵里・パーカー、一緒に頑張ろうね!」
間近に迫る栗毛やハーフの顔立ちを見て、倉九は一瞬見惚れてしまった。
「あ……私、倉九、麗奈」
「わかった! じゃあクラちゃんでいい?」
「みょ、名字可愛くないから……な、名前の方がいいな」
「よろしくクラちゃん!」
「えっ、あの、名前……」
黎木は短くなった煙草を灰皿へ潰した。
「ちなみに、講師は既にここにいる」
その台詞が終わった途端、ホールの端にあるトイレのドアが勢いよく放たれ、全員同じタイミングで横を向いた。出てきた人物は長い髪を柳のように垂らし、ドアも閉めずに千鳥足で近寄る。
倒れる寸前になって三人の座る場所で両手をついた。テーブルに垂れる長い髪は小枝の如く放射状に伸びている。その幹から息も切れ切れの、枯れ切った曇声が漏れた。
「う、頭痛い、気持ち悪……」
身を引いていた智絵里は、体格と声で見覚えのある人物だと気が付いた。
「上洲さん! 居たんだ!」
テーブルに世話になっている上洲は片腕を上げて挨拶する。そして自分の物のように三つのコップを奪い取り、全て飲み干してひゃっくりした。
「水じゃダメらぁ、迎え酒かぁこれは」
彼女は自重を支えられなくなり、智絵里の肩に肘を乗せた。頼りない肘はずるりと滑り、倒れそうになった体が咄嗟に受け止められる。
「上洲さん重い! 重いぃ!」
「大人のれりぃに向かぁて重いとぁなにか!」
智絵里に抱き着いたまま、空を見て呂律の怪しい文句をつけている。およそまともとは言えないこの女性を、倉九は出来るだけ関わらないように眺めていた。
「な、なんですかこのアル中……」
「こいつがお前の先生だ。ちなみにバンドのベースも担当する」
えっ、と驚いた智絵里は体を動かした反動で上洲を落とした。「痛ぁ!」と床で悲鳴が聞こえる。
「上洲さん、ベース弾けたの!?」
黎木はタバコを一本取り出し、火をつけた。
「そのアル中は音楽一家で、楽器は大体上手い」
床で仰向けになり、上洲はニタニタと笑う。
「ふふ。父は指揮者、母はバイオリン奏者、兄は大手レコード会社幹部、そんなエリート一家の落ちこぼれ、それが私。って、誰が落ちこぼれじゃ!」
ビーチフラッグが始まったかのように起き上がり、上洲は倉九に勢いよく絡んだ。後ろから抱き着き、髪や腕などを触ったり叩いたりする。倉九は怯えてされるがまま耐えていた。
「わ、私が言うのもなんですけど、大丈夫ですかこの人、色々と……」
「あっ……」と上洲は急に口を押さえて真剣な顔になった。
「へ? なに……? ひぃ!? まま待って! そこで吐かないで!」
智絵里が大変だー! と楽しそうに上洲の背中を擦る。
黎木は煙を横に吹き、煙草を灰皿の上へ置いた。
「メンバーもそろった事だし、少しセッションしてみるか」
「え? 揃ったって、ドラムの人もいるんですか?」
「何言ってるんだ。俺がこれまでお前のために動いていたとでも思ったか」
「ってことは、黎木さんもやってくれるの!? 頼もし!」
智絵里が喜色を示す横で、一旦吐き気の納まった上洲は倉九の首に絡みついていた。
「ねーちゃん、おっぺぇでけぇな、なぁ? おぇ……」
「あ、あの、やっぱり、帰りたい……」
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