「アメリカ人の次はゴリラのハーフか……」

 スタジオは三人になり、黎木がキーボードをいじっている姿を二人でしばらく眺めていた。倉九は申し訳なさそうに蜂蜜をぺろぺろと舐め、頭を何度も下げる。


「ほんと、さっきは申し訳ない……」


 倉九の舐めるはちみつがみるみる減っていく。横に座る智絵里は「あっ、あっ、私の分……」とソワソワしているが、容赦ない速度で胃の中へ消えていく。

 故障がないか確認していた二段の88鍵キーボードを台にセットし、黎木は一息ついた。


「お前、これなにで持って来たんだ。台車は? まさか素手か?」

「そ、そうですけど」

「アメリカ人の次はゴリラのハーフか……」


 呆れながらウッド調のキーボードに触れる。細かい傷が随所に刻まれており、かなりの練習の跡が伺えた。


「特注だろう、これ。かなり値の張りそうなキーボードだが、自分で買ったのか」

「あ、そ、それはピアノの師匠から譲り受けた……形見です」


 形見とあっさり言われ、黎木と智恵理の二人は頭上を戦闘機が滑空したように固まる。黎木は深沈を努めて「そうか」とだけ感想を漏らした。

 倉九は些か重くなった空間に対し、不可解な面持ちをしていた。


 程なくしてアンプから問題なくピアノの音が鳴る。黎木は適当にコードを奏で、オーケーサインを二人に見せた。蜂蜜を舐める事を忘れ、倉九は安堵に震える。


「良かった……壊れたかと……」

「いいキーボードだ。お世辞抜きにな」

「あ、ありがとう。わ、私の唯一の、宝物なんです……」そして誰にも聞こえない声で「高いから」と続けた。


 宝物という言葉にだけ反応して、智絵里は倉九に抱き着き、にっと笑う。


「折角だしセッションしよう!」


 立ち上がり、無理やり倉九の手を取って振り回した。「あっ、蜂蜜……」と惜しんで立たされる倉九の体の一部を、黎木が鋭く観察していた。


「お前、指長いな」


 ほんとだでかーい、と智絵里は手を合わせる。黎木は指と、使い込まれたキーボードを目配せし「ファンク、スカ、か……」と呟いた。

 落ちているメトロノームを拾い、テンポを少し落として拍動させる。自身はキーボードの前から退き、倉九へ立つように親指で示した。


「ハネてやってみろ」

「跳ねろ跳ねろー!」


 智絵里が兎のように跳ねだし、釣られて倉九も巨躯を上下させる。ぴょんぴょん跳ねる二人を見て、黎木は辟易しながら額へ手を当てた。


「シンコペーションの話だ。飛ぶのをやめろ」

「あ、でっ、ですよね」


 倉九は耳まで真っ赤にして足を止めた。

 シンコペーションとはリズムが跳ねているように聞こえる拍の取り方だが、智恵理は概念としてしか知らなかった。


 倉九は羞恥を誤魔化すように早歩きでキーボードの前に立ち、軽い運指練習で指を温める。練習から垣間見える音楽的センスに黎木の顔つきが変わった。

 彼はメトロノームを止め「得意なやつを適当に弾け」と簡易に指示を出し、カウントを開始した。


「えっ、待っ……」


 倉九はカウントから踏み出せなかった。目つきをナイフにした黎木の文句が飛ぶ前に、智絵里が歌い出す。倉九は深呼吸し、主旋律から即座にコードを判断して恐る恐る伴奏を開始した。


 歌声と混ざった伴奏がシンコペーションを刻み、二人の音楽が跳ねたリズムになっていく。倉九は自分から何か仕掛けることなく、とにかく智絵里が踊る足元を崩さない事に集中した。


 歌を踏み出す際の欲しいところに必ず音とリズムが来る安心感。楽しくなってきた智絵里も同じように乗って来る。倉九を信頼し、わざと音を外したり、テンポをズラしたりしてみる。


(なに、すごい、このちっちゃい子のノリ方……)


 倉九は全体的にピッチを高くしたり、音色を適宜変えるなどして智絵里の魅力を存分に引き出す演奏をする。


「ここからアドリブね!」

「へっ……?」


 智絵里は得意の楽器模倣ヴォカリーズでソロを取り始めた。コルネットに似た音色でアドリブが始まり、倉九は一瞬、辺りを見渡す。目の前の小さい体からその音が出ていると気付くまでに数秒かかった。

 倉九の苦笑いに驚嘆が混じり、冷やせが光る。伴奏が荒々しくなり智絵里のソロの勢いも増す。


 智絵里はソロを終わらせ、一切黙った。思い出したように伴奏のロングトーンを間に挟む。倉九は演奏の変化にドキリとして唾をのんだ。

 ソロを弾け、と言われていることに気付き、数小節問答していた。智絵里がキーボードを叩く右手の高音を真似して煽ることで、倉九は観念してソロを開始した。


 ようやく始まった彼女のアドリブを聞き、黎木は静かに眉を顰める。


(光るものはあるが……控えめだな)


 ソロ回しが何度か続き、智絵里はフルートを模倣してタンギングでテンポを早める。倉九の指がついて来られず、リズムが崩れたところで智絵里はメロディに戻った。


 セッションが終わりに近づいたタイミングで、壁に刺さっていたシンバルがぐらつく。二人が演奏を終わらせると同時に落下し、金属音が掉尾を飾った。


 二人は息切れして見つめ合う。智絵里はスポーツで勝利したように笑い、倉九は信じられない偉業を達成したように、動転と歓喜が混じった顔をしていた。


「気持ちよかった! ありがとう! 上手だね!」


 ハイタッチを求められ、倉九は控えめに手を差し出した。パシンと乾いた音と共に、大きな手と小さな手が重なり合う。


「わ、私は合わせただけだから……」


 水を差すように黎木は咳払いをした。二人は彼の気難しそうな雰囲気に気圧される。


「でかいの、お前自分の強みはなんだと思う?」


 何気ない一言だったが、倉九は就職での面接を思い出し、天から地に叩きつけられた。上目遣いで、自身のキーボードと天使のように微笑む智絵里に縋る。


「つ、強みって言えるかわかりませんけど、私は、やっぱり……」

「ピアノか? 上手いだけのやつなら腐るほどいる。それはお前の強みじゃない」


 倉九は言葉を失った。キーボードを悲しそうに眺め、喉の奥にある言葉を探す。


「わ、私、昔から人に合わせてばっかりで、気づいたら、居場所がなくて……。唯一味方だったのは、ピアノと、師匠と、麻雀と、パチンコと、競馬と、競輪と……」

「そんなことはどうでもいい。お前の気弱で湿っぽくて卑屈で奴隷根性のあるその性格。空気を呼んで合わせる事に長けている。それはセッションに必須だ」


 智絵里は小さな手を二つ使い、倉九の片手をぎゅっと覆う。


「まだ強みあるよ! 体がでかい!」

「も、もうやめて……」


 倉九は顔を伏せ、勘弁してくれと自分の腕に隠れた。


「フィジカルが強いのも奏者として有利だ。勿論、お前には課題も多いが……」


 黎木は床に落ちて割れているシンバルを見て続けた。


「お前は然るべき時にキレる凶暴さがある。それは強みだ。蓋をされた怒りは芸事に必須だぞ」

「黎木さん、それ自分を肯定したいだけじゃないですか」

「黙れ。事実だ」


 倉九は覆っていた顔を晒す。自分の長い指を眺めて「強み……」としばらく耽っていた。突然電池を入れられたように顔を上げ、黎木と智絵里を不思議そうに眺める。


「あの、そ、そういえば、オーディションは……?」

「そいつをバーに連行だ。確保しろ、パーカー」


 既に帰り支度を始めていた黎木は当然のように放った。

 智絵里は「了解! かくほー!」と抱き着く。巨躯にしては細い腰へ、か弱い腕がツルのように絡みついた。


「か、確保? えっ……?」


 眼下の栗毛の少女、壊れたシンバルを持って先に出て行ってしまう黎木、どちらになんと声をかけてよいかわからず、倉九は混迷極まり狼狽する他なかった。

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