「レッツゴーハブサムファン! チェリー!」

 二杯目のカフェオレを飲み干し、智絵里は元気いっぱいにバーを出て行った。


「いってきまー!」

「行ってらっしゃい。気を付けてね」


 マスターはカツラの位置をチェックしながら彼女を見送った。カウンターの裏へ回り、静寂が戻った店を見渡す。

 スマートフォンをいじる黎木が背景のように溶け込んでいる。手際よくアイスコーヒーを淹れ、彼へ差し出した。


「やけに肩入れするね。あの子、そんなに気に入った?」


 黎木はスマートフォンをしまい煙草を取り出そうとしたが、目下の握りつぶされた箱を見て舌打ちした。店主へ所望する前に灰皿の横へ煙草が滑って来る。

 銘柄を確認し「不味いの吸ってるな」と悪態をついた。


 マスターは少し離れた所でアルコール類をチェックし始める。背を向けたまま尋ねた。


「もしかして君、ロリコンなの?」


 黎木は煙草を咥えて火をつけ、隣の席を一瞥してから遠慮なく煙を吐きだした。


「ソロ回しで勝負がつかなかったのは、人生で二度目だった」

「あぁ……一度目は前のバンドのアイツでしょ。ギターの天才だったからね」


 黎木は言い当てられたのが癪で黙殺した。煙草の灰を静かに落とし、沈黙を誤魔化す。

 アルコールのチェックが終わり、マスターは智絵里が使ったカップの洗い物を始めた。手を濡らしながらステージを眺め、懐かしそうに目を細める。

 装飾品と化している寂れたドラムとギターアンプは壊れていて、数年は使用されていない。ここで演奏するミュージシャンは皆、自前の楽器を持ってくる。


「君、夢を潰したアイツに罪滅ぼしでもしているつもりか?」


 黎木は毒見するように少量のコーヒーを舐めた。


「智恵理・パーカーはただのビジネスパートナーだ。才能は利用させてもらう」

「あぁそう。商売上手だこと」

「今日、上洲は? あいつにちょっと用がある」


 黎木は大して吸っていない煙草を潰し、わざとらしく話題を逸らした。マスターは洗い物終えて手を拭き、カツラの位置をチェックしながら思案顔をする。


「確か、シフト入ってたかな……っと」


 頭に添えていた手のひらを前に向け、急に飛んできた煙草の箱を受け止めた。借りたものを投げ返した黎木は、ノートパソコンを入れたバックを持って立ち上がる。


「夜また来る」


 丸椅子の部分が形状を戻す。マスターは出入口へ向かう寂しそうな猫背に溜息を吐いた。


「黎木」


 出来るだけ優しい声で呼び止める。彼がゆっくりと振り返ると、カウンターへ無気力な顔が再び向けられた。マスターは手の平を上に向け、前に差し出して言う。


「アイスコーヒー代、八百円」


 黎木は呆れて苦笑いした。


「商売上手だな」


          ♪


 バーの最寄り駅から一駅、智絵里は名刺に載っている住所までもうすぐだった。店を出発してから一時間も経過していなかった。

 都内雑居ビルがいくつも並び、多様な人物が行き来する中、小さい体を有利に使ってナビアプリ通りに進んでいく。


 雑踏の中を栗毛がぴょんぴょんと跳ね、桂馬の如くかき分けていった。

 目的地に到着しました、と音声ガイダンスが告げる。智絵里は顔を天に向け、五階建てのビルを一望した。


「おー! ここだなー!」


 手で日よけを作って天辺まで見渡し、敵地へ突撃する兵士の勢いで門を潜った。エレベーターのボタンを押すが中々降りてこない。そわそわしている足はすぐ横にある階段を選択した。


 指定された練習スタジオは三階にて営業しており、一段飛ばしで駆けあがる。

 エレベーターの前を通り、透明で重いガラスの扉を開けると、小奇麗な受付が現れた。ご予約ですか、と店員が尋ね、智絵里は自分の名前を伝える。


 部屋を教えてもらったそのまま勢いで、ノックもせずに扉を放った。


 「こんにちは! 智絵里・パーカーです! おねがいしまー!」


 広さ六帖のスタジオ中央、パイプ椅子に座って足を組み、堂々とした雰囲気で眼を瞑っている二十代の女性がいる。見た目は純粋な日本人ではなく、黒人とアジアのハーフの顔立ちをしていた。


 ドレッドポニー、ぶかぶかのパーカー、ほとんど足が出ているショートパンツを召した古着のストリートスタイル。まるで反応がない相手の目の前で、智絵里は再度叫んだ。


「はろー! 外国の人!?」

「アーユーオーケー?」


 目の前の智恵理へ、相手は圧縮されたバネのように開眼する。


「うわっ、喋った!」


 おもむろに椅子から立ち上がり、百八十センチに届く背で智恵理を見下ろす。


「あんた、生まれて初めて声を出したのかい?」

「え?」

「声を出すのが下手くそだね!」

「えー!?」


 雑居ビルへ訪れた時のように彼女を見上げ「いきなり酷いこと言われた……」とぷるぷる震えた。


「私はルイーズだ、よろしく。さぁチェリー、さっそく稽古をつけてやる」


 智絵里はチェリー? と呟きつつ、ダンスでリードされるようにパイプ椅子へ腰かけた。ルイーズは握手してからすぐに手を離し、自身の額を掴む。


「いいかい、あんたの声は喉から見えた。そうじゃなくて、ここから音を出すんだ」

「頭、ってこと?」

「聞いてな。最初は喉、次は頭から」


 片方の手で喉に手を当て、ロングトーンを放った。智絵里の人生で聞いたことがないくらい大きく、長く、強い音がスタジオに響き渡る。迫力ある発声に感心し目を丸くした。


 次にルイーズは頭頂部に手を当て、同じように声を出す。声量は変わらないはずが、透き通り、芯に響く感覚が耳を打つ。前者が外側を震わせるものとするなら、後者は内側を振動させるようであり、その技術に盛大な拍手を送った。


「凄い、全然違う!」

「チェリー! 感心してる場合じゃないよ!」

「智絵里です! ごめんなさい!」


 パイプ椅子の横に置いてあったペットボトルの水を一口飲み、ルイーズは軽く咳払いする。


「これは基礎、自然な発声で喉の負担を減らすのさ。レッツゴーハブサムファン! チェリー!」

「お願いします! あと智絵里です!」


 智絵里は立ち上がり、敬礼のポーズを取った。

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