「この服で鼻水かむぞ! いいのか!?」

 スパルタの教鞭が三時間に及び、ほとんど休憩なくレッスンが終わろうとしていた。智絵里は用意された水を常に口にし、言われた通りに幾度となく新しい発声へ挑戦した。

 素人であろうが関係なく、容赦のない要求が部屋を飛び交った。


「だから喉仏動かすんじゃない! 変なエッジボイスも封印! 癖ついてるよあんた!」


 智絵里は闘志を欠いた様子でパイプ椅子へ全身を預ける。腰を浅めに背もたれへ後頭部を乗せ、天井の防音材を眺めた。


「難しい……もう、ダメ……」


 ルイーズは腰を折り曲げ、巨人のように視界へ割って入る。


「チェリー、こっちを向きな」

「智絵里です……」


 ルイーズは蚊を叩き潰す勢いで両頬を挟んだ。乾いた破裂音と「ぁうっ!」という智絵里の声がほとんど隙間なく鳴り響く。


「あんた、あのチェット・パーカーの娘なんだろう。基本的にはセンスがいいよ。アジア人にはない伸びやノリがある」


 唇をウの形にされる智絵里の顔に生気が戻った。


「ふぉんと?」

「パパの顔に馬のクソを塗りたくないんだったら、悩む暇なんてないんだよ」

「う、うまおくふぉ……頑張う、頑張いまふ」


 よし、とルイーズは頬を離し、満足そうに腰に手を当てた。正面にある時計でそろそろ午後四時になることを確認する。くるりと体を半回転させ、部屋の角にある、レッスン中使用していた録音機器へ手を伸ばした。

 最後に歌ったやつだよ、と告げて再生ボタンを押す。


 英語の歌がスタジオを流れた。音声だけを聞くと海外の子供が歌っていると言われても不思議ではないが、細部に訓練を受けた様子が伺える。

 眼を瞑り、険しい顔で智絵里は聞いていた。反対にルイーズは手料理が美味しくできたような様子で耳を聳てる。

 程なくして歌は終わり、成果を噛みしめる時間が数秒過ぎた。


「まぁ、今日はこんな所かね。癖はまだまだあるけど、最初に比べると抜けはいい」


 智絵里は咳払いをしてつばを飲み込む。痛みはなく納得した様子を見せるが、表情には一滴の不服さが混じっている。


「確かに負担なくて歌いやすいけど、思いっきり地声みたいな……ロリロリ感が増しちゃいますね」

「言ったろう、まずは基礎で負担を抑える。それからジャンルごとの歌い方って訳さ。ユアソゥスィリィ、オーケー?」

「よくわかんないけどオーケー! ……ごほっ、けほ」


 智絵里は咳込み、急いで水へ手を伸ばした。細かく何度も流し込み涙目で咳払いをする、という行為が何分か続いた。ルイーズは問題を発見した研究者のように眦を上げる。


「……レッスン中にも思ったけど、あんた今、かなり喉が痛いだろ」

「いやっ、ちょっと風邪気味で……あーあー、うん、もう全然大丈夫」

「甘いね。私は騙されないよ」ルイーズは大仰に首を横に降った。「悩む暇がないっていうのは、前言撤回だね。ボイトレの継続はかなり負荷がかかる、このまま続けていいか一応医者へ聞きな。レイキーにも伝えておくから」


 先生、と前置きしてから智絵里は人でも殺す覚悟を宿して二の句を継いだ。


「喉が弱いっていうのは、誰にも言わないで」


 ルイーズは間を挟んだが、胸を張り、顎を引く。


「ノー。その体はパパとママがくれた大事な宝物だ。進んで壊せなんて私は言えないね」

「そのパパと大事な約束があるの」

「ノー。ダメだ」


 智絵里は悔しそうに下唇を噛む。しかし次には表情が一転し、悄然とした態度になっていた。立ち上がって相手に抱き着き、上着を引っ張って駄々をこねる。


「お願いお願いお願い! なんでもするから! 頼むよ後生だよ!」


 視野の下方で揺れる栗毛を、ルイーズは呆れて眺める。


「そうは言ってもね……」


(この子の父親、チェットは確か咽頭がんか何かで亡くなったはず。そうするとこの違和感を放置するのもどうかね……でも天才の子を育てたい気持ちも……)


 何か唸りながら目を瞑って上を向くルイーズ。あと一押しだと見た智絵里は次の仮面を考えた。眉を吊り上げ、些か狂乱して言う。


「この服で鼻水かむぞ! いいのか!?」

「それは勘弁願いたいね」


 やれやれとルイーズは穴が開いたように嘆息し、彼女の肩へ力強く手を置いた。


「じゃあ……痛みが少しでも増したらすぐにいうこと。約束破ったらすぐにレイキーにチクる。オーケー?」


 智絵里の百面相は歓喜で終わり、花が咲いたように笑顔を向けた。


「オーケー! センキュー!」

「あんたは小学生なのに立派だね、チェリー」

「違う! 高・校・生! あとチ・エ・リ! アーユーオーケー!?」


 智絵里は憤慨して声を荒げ、ルイーズの服で鼻をかんだ。

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