「俺がお前をワールドジャズフェスに出してやる」

 智恵理は喉仏を下げ、少しでも幼児感を失くすように努める。

 歌声には命を削る迫力が備わっていた。黎木は追い込むようにピアノへもっと煽れと指示を出す。


 ピアノは歌を食うように高音や音数を増やし、黎木も手数を増やしてテンポを上げ、わざと歌を潰しにかかる。

 智絵里は二つに負けない声量でやり返し、幼児声を利用して常人より伸びる高音で圧倒した。

 力技だったが、暴力を暴力でねじ伏せるやり方は聞く者を本能的に魅了した。


 智恵理は歌がない伴奏の最中、喉の締めあげと裏声を操りピッコロのような音を出す。巻き舌を使ってピアノの演奏を真似、煽り返した。ヴォカリーズの技術に観客も、奏者の二人も舌を巻く。


 ピアノの彼は指が回らず智絵里のテンポについていけなかった。黎木がいくらテンポを揺らしても彼女は途切れず、肺活量も異常だった。

 智絵里の様子は先ほどの動揺が嘘のように、鳥が大空で羽ばたく快感で溢れていた。歌が続いていくうちに客の声援はご愛敬から真面目な驚嘆へと変化する。


 今度は黎木に冷や汗が光る番だった。カホンを叩く指の痛みに耐えながら、楽しそうにしている智絵里を睨む。


(このガキ、楽しそうに演りやがって)


 彼女を窮地に陥らせる程、小さな体に眠っている獅子が何匹も踊り狂い、殺しても殺しても襲い掛かってくる。彼は久々に心の底から胸が震え、興奮が止まなかった。


 笑っていた智絵里は一変、急に咳き込んだ。口を押さえ、嗚咽して苦痛に顔を歪める。彼女の目に、自分の様子を憂いているマスターや上洲が映った。

 上洲の手にはこれから掃除するはずだった消毒用アルコールが握られている。


(あれか……! 今になってめちゃくちゃ痛い!)


 智絵里は無理やり咳払いし、自分に向けられる心配の芽を摘み取ろうと息を大きく吸う。出かけた声は途切れ、掠れている。

 それは自分が求めたハスキーボイスに一番近かった。しかし歌い過ぎたせいで息も上がり、力が入らない。


 その時初めて、ピアノとカホン以外の音が智絵里へ届いた。

 ホールの客席から本気の応援が飛んでいる。智絵里は喉に添えていた手を胸に下し、ゆっくりと口角を上げた。


「度肝抜いてやる」


 曲は終盤、即興演奏のパートに入る。智絵里はホールに向けていた体を黎木へ向けた。

 タンギングを駆使して音符の粒を増やし、早口でまくし立てた。黎木はギリギリで付いていくが、ピアノは諦め伴奏に徹する。カホンと歌で二小節ずつアドリブを取り合い始めた。


 智絵里が叫ぶ、黎木が叩く。

 智絵里が叫ぶ、黎木が叩く。

 智絵里が叫ぶ、黎木が叩く――そして奇跡的に、全く同時に負けを認めた。


 それは引き分けを意味していた。


 二人の息が限界に達し、見合わせるでもなく黎木はロールを、智絵里が高音でロングトーンを同時に始める。

 終わりを察しピアノの男は派手に鍵盤を鳴らし、ようやく三人は目線を合わせ、最後の拍を合わせた。


 演奏が終了した。

 ピアノの彼は疲労でサスティンペダルを離すことを忘れ、余韻が長く長く続き、演奏はグラデーション気味に終演した。


 智恵理と黎木の肩で息をする音以外誰も何も発さず、厳かな空気が流れていた。圧倒されていたマスターのズラが床に落ち、金具の部分が床を打った。

 その金属音が静黙の終わりを告げる。


 堰を切ったようにホールは大きな拍手に包まれた。客やスタッフは王の凱旋でもあったように鼓舞激励を送っている。

 ただ一人、後ろの方から眺める三瀬を除いて。

 彼女は爪を噛みすぎて血が滲み、親の仇を見るように殺気立っていた


 ステージ上の黎木と智絵里は両者息切れしながら、相反する顔で凝視している。

 黎木は険しく、智絵里は満面の笑みだった。ピアノの彼は痛そうに両手首を振り「ついていけねぇ」とステージを逃げるように降りた。


 黎木はカホンから腰を上げ、剣呑な雰囲気のまま彼女の前に立つ。相手の胸倉を掴んで、小さい巨人を手繰り寄せた。


「ちょ、な、なんですか?」


 殴るような勢いだったが、彼は歓声の中でも聞こえるように顔を近づけただけだった。


「途中で怖気づくなよ。俺がお前をワールドジャズフェスに出してやる」

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