「これからジャズのアドリブバトルをする!」
店のホールには再び忙しさの波が訪れていた。
客席はほぼ満員で、ホールスタッフは立ち止まる時間がなく、常に早歩きで移動している。
上洲は呪詛のように文句を垂れ、客が捌けたばかりのテーブルを掃除するためカウンターへ戻った。カクテルを作っているマスターの隣につき、台拭きと消毒用のアルコールを準備する。
「マスター、そろそろ智絵里戻してよ。このままじゃ私、忙しくて辞めちゃうかもよ?」
「じゃあ新しく求人広告出しておくね」
「おいおい~! 看板娘が居なくなるぜ!」
上洲はふざけて天を仰いだ時、特別耳の良い彼女にしか聞こえない、小さな音を拾った。それは慌ただしい声で、どんどんホールへ近づいてくる。両手を耳の脇に添え、野生動物のようにきょろきょろと辺りを見回す。
「どうしたの、気持ち悪い動きして」
「静かにして……って気持ち悪いとは失礼ね、このハゲ」
突然の暴言にマスターは魂が抜けそうになったが、会計の声がかかり、廃人のようにレジへ移動した。
カウンターに残っている上洲へ、注文いいですか? と声がかかるが、上洲は耳に手を当てたまま、客を無視してスタジオを繋ぐ通路の扉を眺める。
あの、お姉さん……と客が二度目の呼びかけをした時、ホールの端へ甲高い幼児の声が放たれた。
「ねぇ! 痛いってば! ハゲちゃう!」
先に現われたのは黎木だった。彼は左手にカホン、右手で智絵里の栗毛を掴み、引きずってバーのステージへ歩いて行く。上洲はレジで沈んでいるマスターへ慌てて騒ぎ立てた。
「ちょちょ! マスター! 黎木のバカがなんかやってんだけど!」
黎木はテーブルの間を潜り抜け、底が少し上がっているステージへ智絵里を放り出した。客の前で転んだ彼女は涙を溜めながら引っ張られていた部分を撫でる。注目の的であることに気付き、大きく捲れているスカートを赤面して隠した。
黎木もステージに上がり、カウンターに肘かけている客へ指差した。それは上洲から注文を無視されていた客で、ステージに上がるよう促されている。
彼は三瀬のバンドメンバーで、休憩の途中だった。困惑して拒否してるが、黎木の凄む顔を見て渋々と従う。
呼び出された彼は不服そうにピアノの椅子へ座る。カホンをピアノの横に置いた黎木へ「何なんだこれ、三瀬さんはどうした」と尋ねた。
「いいから弾け」
黎木は問答無用で命令し、司会者の道化を演じてホールへ両腕を広げる。客は次々ステージ上の騒ぎに目を向け、何が起こるのかと静かになった。
「これからジャズのアドリブバトルをする! 俺とこのガキで! 天才二人のセッションを聞きたいやつは拍手しろ!」
「えっ、アドリブ!? あの……!」
智恵理の狼狽を覆い隠すようにホールから拍手と期待の声が上がる。レジを終えたマスターは黎木の勝手なアナウンスを聞き、両腕を上げてバツを作った。
しかし変に盛り上がったホールを沈めるには手遅れで、そのままお手上げのポーズを示す。
黎木はスタッフの混乱をなおざりに、ピアノへ「チュニジア」と曲名を告げた。ピアノの彼は客の盛り上がりもあって仕方なく鍵盤へ張り付く。カホンに座った黎木のカウントを聞き、ビートに合わせて演奏を開始した。
カホン――知らない人から見ればただの木の箱にしか見えない打楽器だが、シンプルがゆえに奏力が試される。
彼は楽器の力を存分に発揮し、叩く場所、アタックの強さ、爪や指骨、ピアノに負けない表現力でリズムとノリを支える。
チュニジア、というのは正式には「チュニジアの夜」という題名で、激しい曲調の言わずと知れたジャズの名盤である。黎木は智絵里が聞きこんでいる事を見越し、確認を取るまでもないと選曲したのだった。
まだ当惑から抜け出せない智絵里は、曲が始まっても身動きできずにいた。レコーディングの時より一層凄みのある黎木の演奏と、観客の期待に気圧される。息を大きく吸っては、喉元で詰まってしまう。
「そんなもんでワールドジャズフェスに出るとは、大したもんだな!」
黎木が合図し、曲がループして再び序盤から伴奏が始まる。智絵里はぎゅっと眼を瞑り、歌い出しで思い切って声を出した。
「The moon is the same moon..」
客席からクスクスと笑いが起きる。「小学生?」「頑張れ~!」と声援が届いた。応援には違いないが、明らかに舐められていた。
ステージの下も上も、智恵理の声を馬鹿にしている。
(……これじゃダメだ。こんな場所で、スタートラインより前で、躓いてどうする)
歌を中断し、孤独に足元をじっと見つめる。
黎木は買いかぶったかとがっかりしたが、彼女の顔に臆病さは消えていた。
(このムカつく人の言う事は正しい)
こんな惨めなステージで終わる訳にはいかないと、智絵里の中で沸々と温度が上がる。
何度かつばを飲み込み、練習を思い出した。嘲笑ではなく、歓声を轟かせるために自分は歌う。喉に爆弾を抱えていることなどどうでもいい、これは父との約束を果たすための真剣勝負だ。
次にホールへ向けた顔は、覚悟を決めた人間の顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます