「……ロリ声でジャズはだめですか?」
三瀬は天を仰いだ。表情は僅かに余裕を繕っている。
「そのガキ、ジャズシンガー志望なのよ。だから現実を分からせようとしてあげたの」
黎木はカホンへ座り、智絵里の短躯を上から下までなぞった。
「小学生にはまだ早い」
「何言ってるのよ、中学生でしょ」
智絵里は二人へ交互に指差し「こー! こー! せい!」と高らかに声を上げた。向けた指を上に掲げ、真剣な眼差しを向ける。
「私はいつか、ワールドジャズフェスの舞台に立ちます!」
ワールドジャズフェス、という単語が黎木の耳を打つ。対して、三瀬は鼻で笑った。
「可哀想ね。海外の血が混ざっているからって、才能あると勘違いしちゃったのかしら」
「おばさんより才能ありますけど」
二人の視線は再び弾け合う。黎木は重い腰を上げて智絵里へ近づき、改めてじっくり眺めた。日本人離れした顔のパーツ、ふわふわとした栗毛。
顎に手を当てて思案する。彼女は彼の顔が近かったために、些か紅潮していた。
「あ、あの、なにか付いてます?」
黎木は距離を置いて、大きく肩を落とした。
「マスターから冗談半分に聞いてたが……まさかお前なのか? チェットの娘ってのは」
「残念そうにしないで!」
「そんなの絶対嘘よ」三瀬は大仰に手を振った。「そのガキ、ドラムに誰も付いていかないとか言ったのよ、耳が腐ってるわ」
興味のなさそうだった黎木は、感心した様子で眠そうな目を見開く。
「いや、腐ってるのはお前の方だ」
「……なんですって?」
「栗毛、少しは分かるらしいな」
黎木は文句をつけてくる三瀬を無視し、一度小部屋に行って録音した音源を流した。すぐにスタジオへ戻り、カホンへ腰掛けて監督するように智恵理へ告げる。
「歌ってみろ」
「あの、メロディと歌詞が……」
「主旋律は適当でいい。歌詞はそうだな、即興で思いつくか?」
智絵里は言い淀んで口を噤む。作詞はしているが、確固たる自信がなく物言いたげに首を左右に振った。
「じゃあ『ラ』とか『ナ』でいい」
と、彼から指示が飛び、智絵里は唾を飲んだ。
口を大きく開け、スピーカーに負けない声量を放ち、先ほどの要領で歌を紡ぐ。大人びようと無理をする幼児声がビバップ調の旋律を奏で、熱と冷、柔と剛、静と動の対立がノイズを混じらせる。
あまりの不向きさに黎木がやめさせようとする度、積み重ねた練習の破片がもう少し聞いてみようかという気にさせ、気難しそうに続きを許す。
曲も終盤、アドリブパートが始まり黎木は思わず組んでいた足を解いた。肘に手を着き、前のめりになって聞く。三瀬も目を向いた。チェット・パーカーが得意とする、楽器を模倣する歌い方、ヴォカリーズがそこにあった。
フルートの音色を真似て浮遊感の漂う音符の粒を吐き出す、三瀬とは比べ物にならない表現力だった。
黎木は無意識に裏拍に合わせて左足を踏んだ。先ほどまで見下していた三瀬は、指の爪を噛んで恨めしそうな態度に変わった。
曲が終わるとスタジオは静寂に染まり、智絵里の肩で息を切る音が支配する。黎木は化かされた様子だったが、はっとしてカホンから立ち上がった。
「成程。大したもんだ。相当聞き込んでるし、ニュアンスや即興のセンスが日本人離れしてる」
「えへへ」
智絵里は喉を抑え、嬉しそうに頭を掻いた。
「だが、お前は色気も怠さもウィスパーさもない。幼児声でジャズは厳しい」
「……ロリ声でジャズはだめですか?」
決定的な否定を叩きつけられるが、智絵里はショックを受けているというより、棋士が次の一手を読むような侮れない表情だった。そして王手を思いついたが如く、手の平に拳をぽんと置く。
「でもセンスはいいんですよね! じゃあ、あとは声だけだ!」
ちょっと待って下さい、と残し、智恵理は止める間もなく出て行った。
急ぎ足でホールへ戻り、忍び足でカウンターへ。マスターは丁度レジの対応している所だった。上洲や他のメンバーに見つからないよう、カウンター裏に腰をかがめて侵入する。
どうにかスタッフには見つかっていないが、カウンターに座る人からは丸見えである。智絵里は口元に人差し指を乗せ、しー、と必死に懇願した。愛嬌のある彼女へ、数人の客は耳打ちしながら、子供の悪戯へ加担するようにクスクスと笑みを零すに留める。
ウィスキーやジンを狙ったが空いている瓶がなかった。どうしたものか考えてあらゆる扉を開けた末、シンク下に漂白剤と洗剤、消毒用アルコールを見つけた。
少し悩んだが、マスターのありがとうございました、という声に焦って手に取り、鼠のようにスタジオへ逃げ帰った。
重い扉を開け、中に戻ると黎木と三瀬は剣呑な雰囲気で対峙していた。智絵里はお構いなく持ってきたボトルを掲げ、
「どーん! アルコール!」
と、叫んだ。
ノズルを回し取り一口含むと、堪らず「うえっ! ぺっぺっ!」と吐きだして床を汚した。
「痛い! にがぁい!」
「お前、何やって……!」
咄嗟に黎木が止めようとするも、智絵里は距離を取って今度こそアルコールを微量喉へ流し込む。熱と痛みがゆっくり浸食していく感覚に吐き気を催す。
吐しゃ物の代わりに、喉を裂くつもりで大声を放った。
マイクでも通しているような声量に黎木も三瀬も思わず耳を塞ぐ。
息が続く限りひとしきり叫んだあと、再びアルコールを流し声帯を潰すために叫ぶ。
「馬鹿じゃないの! うるさい! 黙れ!」
三瀬がたまらず彼女の口を塞いだ。その間も藻掻き大声は収まる気配がなく、さながら首を締められまいと揉めている二人に見える。
埒が明かず智絵里は手を噛んで相手を引き離した。
「痛っ! このクソガキ!」
反射的に三瀬は平手を振り上げた。しかし衝撃が来たのは智絵里の頬ではなく、鳩尾だった。
「ぉぇっ……!」
息が出来なくなって崩れ落ちる。智恵理の腹へは当て身が入っていて、殴ったのは黎木だった。
彼は水でも入ったように耳の穴をいじって言う。
「馬鹿が。喋れなくなるぞ。酒で焼けるなんて都市伝説だ、音楽を舐め――ぶっ」
黎木の顔面に智絵里の頭突きが刺さった。
彼は体勢を崩し、マイクスタンドを巻き込んで一緒に床に倒れこむ。きゃあ! と三瀬は後退り、自身の腕を胸に抱えた。
先に立ち上がった智絵里は頭頂部と腹部を同時に擦り、勝気に声を張り上げる。
「舐めてるのはそっちです! 私は絶対プロになって、ワールドジャズフェスに出るんだ!」
仰向けに倒れていた黎木は、蘇った死体ようにゆっくりと上半身だけ起こした。唇に垂れて来る鼻血を手の甲で拭い、不敵に笑う。
「上等だ」
彼の目には仄かな怒気と、嬉しさが宿っていた。
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