「あなたは圧倒的に声が向いてないわ」

 智絵里は時計を見て三十分経過しそうだったことに気付き、急いでマイクスタンドから離れた。続けて腰を折り曲げ「勝手にごめんなさい!」と謝罪を述べる。

 三瀬は面食らった様子で彼女を眺めた。余裕のあった表情に一匙の不機嫌が混じる。


「あなた、ハーフよね?」


 思ってもいなかった返しに今度は智絵里が面食らい「まぁ、はい」と抜けた声で頷く。


「歌に興味あるのね」


 三瀬は獲物にありつこうと周回するハイエナのようにスタジオ内を散歩した。

自分の周りをゆっくりと周回する彼女を、智絵里は目で追う。

 床のカーペットが微かに軋む。


「あの、ジャズの歌手になるには、どうしたらいいですか?」


 智恵理は相手がプロだと聞いてから、絶対に質問しようと思っていたことだった。三瀬は歩みを止め、首を些か上に向けて腕を組む、明らかに威圧的な態度を取った。


「なりたいの? プロに?」嘲笑を漏らして続ける。「あなたは圧倒的に声が向いてないわ」


 急な敵意に智絵里は動揺したが、負けじと顎を引く。


「実は私、チェット・パーカーの娘です。どうしてもプロになりたいんです」


 三瀬は「はぁ?」とさらに攻撃的な態度に出た。


「チェットって……さっき、私のソロを聞いたからそんなこと言ってるの?」


 楽器模倣で歌うヴォカリーズでのソロはチェット・パーカーの十八番であり、ヴォカリーズといえば彼と言うくら定番だった。突拍子もなく、相手が適当な事を言っているのではないかと懐疑する。


「大天才の子供が、こんな馬鹿っぽい声な訳ないでしょ。浴びる程のお酒で喉を焼いて、ようやく一般人以下ってとこよ」


 智絵里は臆せず、挑戦的な目で口角を上げた。


「嘘じゃないです。私、あなたより上手く歌えます」


 三瀬は「ぷっ」と破裂音を出した後、腹を抱えて嗤った。たっぷり十秒は大きな声をスタジオ何に響かせ、目尻に溜まる水を掌で拭う。心を許した友人と冗談を言い合ったような様子のまま続けた。


「そっかそっか。自分の声をちゃんと聞いたことないでしょ、お嬢ちゃん」

「ドラムの人に誰もついて行かなかった。自分の声をちゃんと聞いたことないでしょ、おばさん」


 二転三転、三瀬は歯を噛みしめて「は?」と再び表情を怒りに変える。智絵里は殺意すら籠った視線から逃げなかった。

 ガチャリ、と扉の開閉音が一触即発の雰囲気を割く。亀裂の入った隙間から、欠伸をする黎木が現れた。


 彼は智絵里を発見するなり「おい、勝手に入るなって言っただろう」と野良犬を払うように呟いた。溜息を吐きながら歩を進め、パーカッション群の床に置いてあったペットボトルを手に取り口に含む。

 彼は蓋を閉め、ツンとしている二人の様子を端無く観察した後、


「……何か揉めたか?」


 と、面倒そうに尋ねた。

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