「ふーん、三十分か。ふーん……」
レコーディングスタジオは扉を入ってからさらに二つに分かれ、演奏するための部屋と、レコーディングの機材がある小部屋に分かれている。智絵里は小部屋のレコーディングミキサーの前で、足を抱えて椅子に腰かけていた。
二つの部屋は透明なガラスで仕切られており、隔たれた向こう側から黎木が智絵里に向かって手を上げる。それを合図に、彼女は指定されているボタンを押す。
それは録音開始ボタンのはずだったが、壁にかかっているモニターからは突然演奏が流れた。
黎木は演奏を止め、楽器のある部屋から苛々した様子で智恵理のいる小部屋へ入って来た。
彼女の前にある機器を操作して、音を止める。
「お前が今押したのは再生する方だ。録音はこっち。こんなことも出来ないのか?」
何度も同じ場所を示して忠告する。智絵里は素直に謝ろうとしていたが、言い方にへそを曲げて「すいやせーん」と平謝りをする。
黎木は「このガキ……」とうんざりしたようだったが、真面目に取り合わなかった。隣の部屋に戻り、今度こそバンドは録音のための演奏を開始する。
モニターから智絵里のいる部屋にも流れた。生演奏の躍動感に黎木の悪態などすぐに忘れ、目の前のジャズの演奏に嬉々とする。
しかしリテイクを繰り返すうちに、智絵里の笑顔は困惑に変わった。ついには真剣な眼差しになり、黎木の合図に気付かないこともあった。
演奏する四人は向かい合う形で目配せしながら弾いている。智絵里はベーシスト、ピアニストを観察し、ヴォーカルの歌声を刻み、ドラムのノリを体で感じて、思案顔で小首をかしげた。
(うーん……なんか、ドラムが変……? いや、違う、ドラムの人以外が『ダメ』なんだ)
即興演奏の録音が続き、違和感とは別の事に対し、彼女はあっと声を上げた。
ヴォーカルの三瀬が、上手くはないものの楽器の模倣――ヴォカリーズで歌っていた。
「これ、パパの特技……!」
驚きは一瞬に抑えた。椅子に身を預け、三瀬に合わせて歌う。顔を皺くちゃにして指揮者のように腕を動かし、モニターからの演奏が聞こえなくなる程の大きな声をあげ、アドリブで歌った。
プロの演奏をバックに歌う、彼女にとって新世界に触れた瞬間だった。世界で誰も知らない、楽器模倣での即興バトルが小部屋で繰り広げられていた。
黎木は手を上げて演奏を止めようとしたが、人知れず気持ちよさそうに歌っている智絵里を見て、叩き続けた。
そのまま黎木達は即興の部分を録音し、レコーディングは一旦終了した。
楽器を残したまま黎木たちはぞろぞろと部屋を出て行く。取り残された智絵里がおろおろしていると、重い扉を開けて黎木が肩まで姿を現した。
「三十分休憩だ。トイレなりどこへ行ってもいいが、機材と楽器には触るなよ」
「はーい」
黎木は無慈悲に扉を閉めた。智絵里は一人になった瞬間、椅子から立ち上がり「お礼も言えないのかー!」と地団駄を踏んだ。
ひとしきり喚き散らしたあと、楽器が並ぶガラスの向こう側を賭博師のように眺め、時計を確認する。
「ふーん、三十分か。ふーん……」
と、悪戯顔で言った。
智絵里はミキサーの再生ボタンを押し、今録音した黎木たちの音源を小さめに流す。小部屋の扉を開け、泥棒染みた動きで廊下に首を出した。
誰も居ないことを確認すると、満面の笑みで楽器のある隣の部屋へ向かう。
スタジオの中に入ると木の香りが鼻孔を突いた。スピーカーからは先程まで小部屋で聞いていた黎木達の演奏が流れ、バスドラムの面が小刻みに踊っている。
智絵里はウッドベースを発見し「かっこいー!」と駆け寄った。触れようとしたが、そうじゃなかったと首を左右にふるふると動かす。
飛ぶようにマイクスタンドの前に立ち、恐る恐る唇を近づけた。声を出す前に、カラオケとは全く別次元の光景に心が奪われる。
正面に軽装備のアコースティックドラム、その右方にカホンや細かいパーカッションの群、さらに右にはウッドベース、向かって左にキーボード。智絵里はごくりと唾を飲み、音に身を任せる。
最初は控えめに、鼻歌をマイクに通した。徐々に声を大きくし、演奏に合わせてダイナミックに声を出す。
スピーカーの音源はソロパートの段階に移り、智絵里はサックスを真似て伴奏をした。
歌詞や旋律は正確に覚えておらず、『ラ』と『ア』と『ナ』で代用した。一度じゃ飽き足らず、一曲が終わると部屋に戻って再生し、何度も楽しそうに歌った。
誰も居ない部屋で一人の世界をたっぷりと楽しんだ。
何度目かの曲が終わった時、分厚い入口の扉が開いた。夢中になっていた智絵里は天敵に出くわした子猫の如く振り返る。
「ちょっと聞こえちゃったわ。可愛い歌声ね」
滑るように入って来た三瀬が、少し毒気のある声で言った。
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