モール・シフト ―UMAはズボンから狙う―
Algo Lighter アルゴライター
ズボンを狙うもの
休日のモールというのは、世界でいちばん「何も起きなさそう」な場所だ――と、佐伯ユウトは思っていた。
郊外の巨大ショッピングモール「LUNACITY MALL」。三階、カジュアルファッション店の試着室前。
彼は鏡に映る自分を眺めながら、黒のチノパンの裾をつまんでいる。
「うーん……悪くはないんだけどな」
価格はそこそこ。シルエットもそこそこ。履いている自分の人生も、わりと「そこそこ」だった。
社会人三年目、地味な事務職。特に大きな失敗もなく、特に大きな成功もなく、恋人もいない。
だからせめて、服ぐらいはちゃんとしていたい――そのささやかな決意の結果が、この休日ショッピングである。
そのときだった。
「……」
背筋に、細い氷の棒を差し込まれたみたいな感覚が、すっと走った。
視線。じっとこちらをなぞる視線。
鏡越しに、店の奥で立ち尽くしている人物がひとり。
色味の判然としないグレーのパーカー。同じような色のパンツ。深くかぶったキャップのつばが、顔の半分以上を影に沈めている。
顔立ちはよく見えない。だが、どこを見ているかだけは、はっきりわかった。
――腰から下しか見ていない。
「……え、なに。変態?」
ユウトは、ほとんど反射的に口に出していた。
視線をそらし、店員を呼ぼうかと考え――その前に、その人物が音もなく滑るように近づいてきた。
「ソレ」
しゃがみ込むような姿勢で、異様に滑らかに距離を詰めてきて、そいつは低い声で言った。
「それ、ほしい。ソノズボン」
顔を上げる。目が合う。
瞳の色が、おかしい。黒目と白目の境界が、溶けたインクみたいににじんでいる。
ビー玉を黒で雑に塗りつぶして、そのまま眼窩に押し込んだ、と言われたら信じてしまいそうな目だった。
「え、あ、これ、まだ買ってないんで……」
「ダイジョウブ。すぐ、もらう」
パーカー男は、にぃ、と笑った。
その瞬間、彼の右手が――ぐにゃり、と伸びた。
「伸ばした」ではない。「伸びた」だ。
指の関節がすべて逆方向に折れ、ゴム人形を引き延ばしたように、ありえない角度でこちらへ迫ってくる。
「は?」
ユウトの驚愕が言葉になるより早く、その手は彼の腰に到達していた。
指先がベルトの金具に触れた瞬間、小さな金属音が鳴る。
カチ。
ひどく簡単に、バックルが外れた。
次の瞬間――
ズボンが、ずりん、と落ちた。
「ちょっ、おまっ!?」
慌ててウエストをつかみ、事なきを得たものの、周囲を見回せばすでに手遅れだ。
近くの女子高生グループが「え、やば」「なにこれ」と言いながら、一斉にスマホを構え始めている。
それも困るが――それ以上に困ることがある。
今のあの手。動きだけ切り取って見れば、明らかに「人間ではない」側の何かだった。
「返せっていうか、下ろすな!」
怒鳴ると、パーカー男は小さく首をかしげる。
「フム……抵抗。ラーニング」
意味のわからないことをつぶやき、口元がゆっくりと――裂けた。
“笑う”のとは違う。
皮膚そのものが、耳の近くまでざっくりと割れていく。口の端から、墨のように黒い液体がぼたぼたとこぼれ落ちた。
床に落ちた液体は、じゅ、と音を立てて煙を上げる。
白いカーペットが、一瞬で焦げて抉れた。
「……え?」
店内の空気が凍る。
数秒の静寂を破ったのは、甲高い悲鳴だった。
「なにあれええええええ!?」
女子高生のひとりが叫び、その声が合図となって、店中の人間が一斉に動き出した。
悲鳴。足音。ハンガーが床に落ちる音。
パーカー男――いや、“それ”は、ゆっくりと立ち上がる。
灰色だったパーカーの生地が、皮膚と溶け合うように波打ち、やがて金属めいた銀色へと変わっていく。
肩口からは骨のような突起が伸び、指先は細い刃物じみた形状へと変形した。
「識別完了。ターゲット:ズボン保持者。名称……『ホシユニット』」
「いや、名字そこじゃないだろ!?」
思わずツッコんだ自分に、さらにツッコミを入れたくなる。
そんな場合じゃない。
“変形体”は、ズズ……と床を滑るように間合いを詰めてくる。
胸部の表面に、光の線が浮かんだ。幾何学模様のような記号が、複雑に交差している。
「フォーム:ターミネ・データ。衣類サンプル、解析優先度:高」
「ターミネ……データ……? 微妙に訴えられなさそうな名前だな……」
冗談を口にしていないと、足がすくみそうだった。
ようやく脳が現実を認める。
――こいつは、人間ではない。
その認識が腹の底まで落ちきる前に、“刃の指”が再び彼の腰へ伸びてくる。
「二回も下ろさせるか!」
ユウトは、すぐ横にあった空のハンガーラックを両手でつかみ、そのまま全力で横薙ぎに振り抜いた。
ガシャアアンッ!
金属ラックが変形体の胴を捉え、銀色の表面が大きく凹む。
変形体は一歩よろめく――が、すぐに表面が液体のように波打ち、凹みは何事もなかったように元に戻った。
「耐久、問題ナシ」
「いや、大ありだわ!」
ラックを投げ捨て、ユウトは店の外へ飛び出した。
悲鳴を上げながら逃げ惑う客。半泣きで「お客様、落ち着いてくださ――」と叫ぶ店員。
非常ベルが鳴り、赤い警告灯がモール中で点滅する。
通路を全力で走りながら、ユウトは必死で考える。
(とんでもないのにロックオンされた……! しかも狙いがズボンってなんだよ……!)
エスカレーター前を駆け抜けるとき、視界の端でショッピングカートの群れが目に入った。
スーパーの入口前に連結されている、銀色の鉄の列。
背後から、金属音が近づいてくる。
「追跡継続。ターゲット・ズボン、確保優先」
「ズボンって呼ぶな!」
反射的に、カートを一台引き抜く。向きを変え、変形体のほうへ押し出した。
ガラガラガラガラッ!
発射されたカートは弾丸のように通路を突っ走り、変形体の脚部にクリーンヒットした。
「解析――」
体勢がわずかに崩れた、その瞬間を逃さない。
ユウトは二台目、三台目と次々に押し出す。
カート同士がぶつかり合い、やがて金属の雪崩になって変形体の身体を飲み込んでいく。
最後にはカートの山ができ、その最下層に押し潰されるようなかたちで変形体が床に叩きつけられた。
「――っしゃ!」
息を切らしながら、カートの小山を見下ろす。
銀色の肢体は不自然な角度に折れ曲がり、動かない。
「やっつけた……?」
「やば……今の人、なに者?」
「ズボン守った……ヒーロー……?」
「その肩書きはぜんぜんうれしくないな……」
周囲のざわめきが、少しだけ緩む。
ユウトが額の汗をぬぐい、ふぅと息を吐いた――そのとき。
ピキ。
耳の奥で小さな破裂音がした気がした。
カートの隙間から、銀色の表面にヒビが走るのが見える。
そこから、肉のような何かが盛り上がった。
筋繊維じみた赤黒い組織が、裂けた金属の間からあふれ出す。
ボコッ、ボゴッ、メリメリ……と、嫌な音を立てながら膨張していく。
カートの山全体が、内側から膨れ上がり――爆ぜた。
「進化フェーズ開始。フォーム:マッスル・アジャスト」
現れたのは、さっきよりふたまわりは大きな怪物だった。
金属と筋肉がぐちゃぐちゃに編み込まれたような体躯。肩は岩塊、腕はケーブル束。
その隙間から、赤い光が脈動する。
「動き、強化完了。ズボン奪取確率:一二〇パーセント」
「数学からやり直せ!」
叫びながら、ユウトはすでに踵を返していた。
全力で走りながら、頭のどこか冷静な部分が状況を整理する。
(タフさもパワーも人間じゃ勝てない。
だったら、“人間にしかできない攻め方”でいくしかない)
エスカレーターではなく、非常階段へ飛び込む。
後ろから、鉄骨が軋む重い足音が追ってくる。
「追跡距離、維持。逃走経路、解析中」
(解析してろ。そのあいだに、こっちは段取り考える)
二階で階段を飛び出し、そのままフードコートへ突入した。
各店舗はすでに営業を止め、店員たちが半ばパニックで避難準備をしていた。
その一角へ、ユウトは息を切らしながら駆け寄る。
「すみません! ガス、まだ生きてます!?」
「え? い、今止めようとして――」
「ちょっとだけ、貸してください!」
カウンターをひょいと飛び越え、厨房へなだれ込む。
銀色の業務用コンロのつまみをひねると、ボッ、と青い炎が並んで立ち上った。
油、鍋、鉄板。
調味料棚の上でかろうじて立っている揚げ物用の大きな鍋。
危なそうなものを目にするたび、胸の奥で「これ使える」が増えていく。
そうしているうちに、厨房の入口が影でふさがれた。
「見つけた。ズボン」
「人をパンツみたいに呼ぶな!」
変形体が一歩踏み出した瞬間、ユウトは全力でフライパンを振り抜いた。
ジュバァッ!
中に入っていた揚げ油が火柱をかすめて飛び散り、変形体の胸部にぶち当たる。
高温の油と炎が、銀色の装甲と筋繊維を一気に焼く。
「温度上昇確認――」
言い終わる前に、ユウトは厨房奥の赤いボタンを叩いた。
キンコンカンコン――!
非常ベルがフードコート中に鳴り響く。
天井のスプリンクラーが作動し、冷たい水がシャワーのように降り注いだ。
燃えた表面に冷水が叩きつけられる。
金属と肉の接合部が、温度差に悲鳴を上げるように軋んだ。
「表面構造、ひずみ発生――」
「まだだ」
ずぶ濡れになりながら、ユウトはコンロの火をすべて落とす。
濡れた床を滑るように走り、変形体の背後へ回り込んだ。
「第二ラウンドだ、マッチョ怪人」
挑発を投げて、そのままフードコートを飛び出す。
吹き付ける冷房の風と、焦げた油の匂いが混ざり合う中を駆け抜け、階段を降り、一階へ。
スーパーの自動ドアが、非常事態モードで中途半端な角度のまま止まっている。
そこを体当たりでこじ開け、中へ飛び込んだ。
店内アナウンスはすでに緊急用の電子音に切り替わっている。
ほとんどの客は避難したのか、広い売り場は不気味なほど静かだった。
「ターゲット、依然逃走中。追跡継続」
重い足音が、一拍遅れて入ってくる。
ユウトは、冷凍食品コーナーへ向かった。
ガラス扉の向こうに、白い霜がびっしりと張り付いている。
冷気が顔に当たり、さっきまでの熱が嘘のように引いていく。
(――ここだ)
ガラスの一角を開き、その奥にある業務用の大きな扉を探る。
モールのバックヤードとつながった巨大冷凍室。分厚い銀色の扉を全開にした。
背後から迫る気配を感じながら、ユウトはさきほどフードコートから“拝借”してきた鍋を、冷凍室の床へぶちまける。
まだ熱を残した油が床に広がり、冷気で白い湯気を立てた。
「追い詰めた。逃げ場、ナシ」
通路に現れた変形体が、低く響く声で言う。
「逃げないよ」
ユウトは冷凍室の前に立ち、ズボンのポケットから小さなライターを取り出す。
電子タバコに一時期だけ手を出していた頃の名残。もうやめたのに、癖でずっと持ち歩いていた。
今日のために買ったわけではない。
けれど今日、その役目を終える。
「温度変化、解析完了。ここは低温域。戦闘行動に支障――」
「支障、出てくれ」
親指で火打ちを弾き、小さな炎を灯す。
床に広がった油へ、それを落とした。
ボッ!
短くも激しい炎が踊る。変形体の足元へ一気に燃え広がり、肉と金属の境界を再び焼きなぞった。
さっき浴びた高温、その直後の急冷、そしてここでの再加熱。
三段階の温度変化が、構造そのものに負荷をかけていく。
「構造――破綻、開始……?」
「こっちへ、来てもらう!」
ユウトは、炎をものともせず変形体の腕をつかんだ。
瞬間、皮膚が焼けるような熱さに目がにじむ。
それでも歯を食いしばり、巨体を冷凍室の奥へと引きずっていく。
変形体は本能的に抵抗しようとしたが、足元を舐める炎と、内部から走るヒビに動きが鈍っている。
「ターゲット、目的不明。行動、解析不能……」
「解析してる暇あったら、寒さに備えとけ!」
半ば引きずり、半ばもつれ合うように、冷凍室の中央まで連れていく。
そのまま腕を振りほどき、全力で外へ飛び出した。
銀色の分厚い扉を両手でつかみ、全体重をかけて引き寄せる。
ガチャン。
重いロックがかかる音がした。
すぐに内側から、鈍い衝撃音が続く。
ドン。ドン。ドン。
やがてそれは、ガリガリ、ギシギシといった異様な軋みへ変わっていく。
「温度……低下……構造……凍結……」
扉についている小さな覗き窓から、中をのぞく。
変形体の表面に、みるみる霜が降りていった。
先ほどまで不気味にうねっていた銀色のスキンは、まだら模様の氷に覆われていく。
関節部分がこわばり、動きが鈍り、
最後には、氷像のようにピタリと止まった。
「――終了プロセス。強制シャットダウン……」
その言葉を最後に、表面がピキピキとひび割れ始める。
次の瞬間、悲鳴のような音を立てて――砕けた。
銀と氷の破片が床一面に散らばる。
冷凍室に、静寂だけが残った。
どれくらい時間が経ったのか、よくわからない。
非常ベルの音はいつの間にか止まり、代わりに遠くでサイレンが鳴っている。
モールの空調は相変わらず働いているが、さっきより少しだけ冷たく感じられた。
安全確認が進んだのか、店員や客たちが、おそるおそる通路へ戻ってくる。
「さっきの、銀色のやつは?」
「警備の人が、『跡形もなく消えた』って……」
「ほら、あの人……さっき戦ってた」
視線が集まる。
ユウトは、なんとなく頭をかいた。
「えー……その、ありがとうございました、とか言う場面なんですかね、これ」
「ズボン、守ってくれてありがとうございました!」
さっき悲鳴を上げていた女子高生が、半笑い半泣きの顔で頭を下げた。
周囲から、クスッと笑いが漏れる。
「いや、守ったの自分のだし」
それでも、胸の奥で、小さな誇らしさがじんわり広がった。
手のひらは火傷でヒリヒリするし、ズボンの裾もところどころ焦げている。
けれど、まだちゃんと腰にある。
(……よかった。変なオチつけられずに済んだ)
ほっと息を吐いた、そのとき。
カタ……カタ……。
足元で小さな音がした。
視線を落とすと、銀色の破片がひとつ、床に転がっていた。
冷凍室からこぼれた、変形体の残骸。
それが。
ぴくり、と動いた。
「――」
銀の欠片の表面に、光の点が浮かんだ。
やがてそれらが線となり、文字とも記号ともつかない模様を形作る。
ひどく簡素なメッセージだった。
《データ送信完了。地球衣類、解析開始》
「やめろ」
思わず、ユウトはつぶやいた。
銀片は、その言葉を聞いたかのように、ピクリと震え――
そして、動きを止めた。
さっきまでのことが全部幻だったかのように、ただの金属くずに戻る。
騒ぎを聞きつけた警備員が駆け寄り、ピンセットのようなもので慎重につまみ上げた。
「危険物かもしれませんので、専門機関に回収を依頼します」
「専門機関ってどこだよ……宇宙服課とか?」
ユウトは冗談めかして返しながら、胸の奥のざわつきを誤魔化そうとする。
(“送信完了”って……どこに?)
空調の風が、さっきまでよりずっと冷たく感じられた。
今日はただ、ズボンを買いに来ただけだった。
普通の休日になるはずだった。
現実は、ズボン狙いの変形体と死闘を繰り広げ、冷凍室にぶち込み、粉砕し、そのデータが宇宙のどこかへ送信された――という結果になった。
「……帰って、ニュースチェックしとくか」
ユウトは伸びをし、三階を見上げた。
あの店の試着室には、まだ別のズボンたちが、無邪気な顔でぶらさがっているはずだ。
苦笑しながら、ふと考える。
――次に宇宙から来るのは、“シャツ担当”かもしれないし、“靴担当”かもしれない。
「そのときは、全身コーデでまとめてぶっ飛ばしてやるか」
誰にともなくつぶやき、焦げ跡だらけのチノパンの位置を直しながら、モールの出口へ向かって歩き出した。
ガラス戸の向こうには、休日らしい穏やかな青空が広がっている。
日常というやつは、意外としぶとい。
簡単には壊れない。
――ただし、何かが「変形」して戻ってくる可能性は、もう否定できない。
彼の知らないところで。
地球の「衣類データ」は、静かに宇宙の暗渠を流れ始めていた。
そしていつかまた、どこかのショッピングモールで――
誰かのズボンが、静かにロックオンされる。
そこそこでもいいけど、守りたいものはある(ズボンでも)」くらい…
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