第30話 審判
エリシアが完治してから二ヶ月が過ぎていた。
季節は移ろい、窓から見える空からは、綿雪のような白い結晶がひらりと舞い落ちている。
療養のためリヴェール伯爵家に戻っているエリシアだが、今日はハルトヴィヒと共に馬車に揺られていた。
「本当に行くの?」
目の前のハルトヴィヒが、心配そうにエリシアを見つめていた。
「はい。私の証言も必要でしょうから」
微かな緊張感が漂う中、エリシアはハルトヴィヒと共に王宮へ向かっていた。
その目的はただ一つ。マルコによって仕組まれた事件の裁判に出廷するためだった。
「だけど――」
「大丈夫かと訊かれれば、嘘になりますが……。その、私一人ではありませんから」
エリシアは視線を落としながらも、胸にじんわりと温もりが広がっていくのを感じた。
そう、ハルトヴィヒがそばにいてくれるだけで、エリシアにとっては何よりも心強かった。
「もちろん、僕はずっと君のそばにいるけど、証言台に立つとき、リーシャは一人になってしまうだろう。そこであの男と対峙するるじゃないか。そうしたら……」
「そうしたら?」
ハルトヴィヒは苦悶の表情を浮かべ、唇をきゅっと噛みしめた。
言葉を探すように眉をひそめ、視線を落とす。その姿には、どこか抑えきれない悔しさが滲んでいた。
そして、しばしの沈黙のあと、ぽつりとつぶやく。
「……あの男の視界に、リーシャが入ってしまう」
「そこですか」
つい、冷めた視線を向けてしまった。
「もちろん、リーシャの気持ちが一番心配だよ?」
「それはわかっています」
今日までハルトヴィヒは何度もエリシアに会いに来ては、ずっと気にかけてくれていた。
正直、ほんの少しだけしつこいと感じるほどだったが――それも彼の思いやりだとわかっているから、エリシアは口には出さなかった。
「恩赦のことは……すまない」
ハルトヴィヒは、どこか苦々しげな面持ちで頭を下げた。
恩赦を条件に、アマステラからエリシアの居場所を聞き出したということは、もうずいぶん前に聞いていた。
(気にしなくていいのに)
その言葉を呑み込みながら、エリシアはそっとハルトヴィヒの手に触れる。
「そのおかげでハルト様は早く来てくださったではありませんか」
「だが――」
「どうか、もう気にしないでください。ただ、私もこれで決着をつけたいのです」
エリシアの心には、マルコから解放されたいという強い思いがあった。
ハルトヴィヒの温かな手が、そっとエリシアの手を包み込むように握り返した。優しい温もりが伝わり、胸にほっとした安心感が広がる。落ち着かなかった気持ちも、少しずつ和らいでいった。
エリシアは再び窓の外を見つめた。
胸の内で不安と覚悟が静かに交錯している。
揺れる心を抱えながら、エリシアの視線は遠くへと伸びていった。
*
裁きを行う特別法廷は、王宮の大広間に設けられていた。普段は華やかな舞踏会や公式な謁見で使われるその場所は、今日ばかりは厳粛な空気に満ちている。
玉座に深く腰掛けた国王は、その威厳ある面持ちで広間全体を見渡していた。その隣には、王妃が深紅のドレスに身を包み、腰を掛けている。王妃の艷やかな金の髪は隣に立つ王太子の髪色と全く同じで、ハルトヴィヒにも似ていた。
玉座の少し手前、壇の中央には重厚な長机が置かれ、そこに裁判の進行を務める書記官が姿勢を正して座っていた。彼の傍らには、墨と羽ペン、それから羊皮紙が置かれている。
広間の左右には、証人や傍聴を許された者たちが控えている。
玉座の向かい側には、この法廷で裁かれる三人の姿があった。
かつては王家にも認められていたといわれるサルバドル侯爵こと、ディートヘルム・サルバドルと、その息子であるマルコ、それからアマステラだ。
なぜサルバドル侯爵夫人がいないかと言えば、サルバドル侯爵夫妻はもう何年も前に離縁している。エリシアも会ったことは一度もない。噂によれば生家に戻った後亡くなったと聞いたが、真相はわからない。
冷たい拘束具に繋がれた三人の顔には、彼らが犯した罪の深さと、これから下されるであろう裁きを侮っているかのような傲慢さが刻まれていた。
マルコは変わらず嗜虐的な色をその瞳に宿しており、自分が極刑に問われないことを知っているかのような余裕も見られる。アマステラは、俯きがちでありながらも、その唇がうっすらと弧を描いていた。そしてサルバドル侯爵は、かつての威厳は見る影もないものの、意外なほど毅然とした態度で虚空を見つめている。彼らが座るその場所だけが、広間全体の張り詰めた空気とは異なる、不穏な異質さを放っていた。
今日、この法廷で問われるのは、エリシアが受けた拉致・監禁・暴行の真偽だけではない。それに付随するように、他貴族の領地を脅かし、王族の尊厳に対する侮辱、そして貴族社会の秩序を乱したこと。サルバドル一家が国家にもたらした甚大な損害もまた大きな争点であった。
最初に証言台へ立ったのはエリシアだった。
拉致されるまでの経緯と、マルコに連れて行かれた屋敷での出来事を、記憶をなぞりながら口にしていく。
リヴェール領に野盗を放ったこと。アルベルト公爵領に手を出したこと。婚約合意書を手に入れるために、リヴェール家の屋敷に侵入したこと。それらをマルコの口から聞いたこと。それから――エリシアがあの屋敷で受けた暴行のすべてを。
言葉にするたび、エリシアの脳裏にあの古びた床の感触と重厚な椅子を振り上げたマルコの姿が蘇る。
鋭い視線がエリシアを射るように見ていたことには気づいていた。けれど、エリシアはそちらに目を向けることはしなかった。ただ、冷たいものが背中を這っているかのような感覚だけが、ずっと続いていた。
エリシアが証言を終え、席に戻る。その後を引き継ぐようにして、父が証言台へと進み出た。
父は、マルコのエリシアに対する異常な執着と、リヴェール家がどれほど脅かされてきたかを語った。
マルコが言っていた”手紙”や”誘い”は、父の命令で使用人たちが断ったり、処分していたと明かされた。途端にマルコの瞳が憎悪で燃えたが、父は気にも留めず次々証言していく。
慎重な言葉を選びながらも、その声には確かな怒りと悔しさが滲んでいた。
続いて兄が証言台に立った。
兄はエリシアに対する嫌がらせと、自身が受けた嫌がらせの数々を語った。
そして、懐から一通の書状を取り出すと、それを読み始めた。
その書状は義姉サラの生家――カルデコット侯爵が書いた文書で、マルコの振る舞いや不穏な言動についての証言が記されていた。
兄はマルコの本性を白日の下に晒すように、けれど淡々と証言した。
兄が席へ戻り、最後に証言台へ立ったのは、ハルトヴィヒだった。
ハルトヴィヒは、アルベルト公爵領が襲撃された全容を、丁寧に説明していった。あまりにも詳細かつ丁寧で、まるですべての証拠と事実を整え、断罪の時を待っていたかのような周到さを感じた。
それから、エリシア救出に至るまでの経緯を証言した。どの段階で何が起き、誰が動いたのか。証言は客観的で、整然としていた。
さらにハルトヴィヒの口から、サルバドル家が関わっていたとされる裏の取引の実態が明かされた。
「サルバドル侯爵家は王都や領地内で、表向きは公認の市場や祭事を開催していました。ですが、その裏では賭博や密輸品の取引が横行し、罠に嵌められた者は借金地獄に突き落とされる――それは下級貴族であっても例外ではありません。彼らは足元を見られ、拒否できないほどの圧力を受けていたのです」
サルバドル侯爵家は、かつて王家に重用された名門だった。しかし、不正な取引が発覚し、王宮への出入りは禁止された。
それにも関わらず、侯爵家は表向きの華やかさを保ちながら、今もその裏の活動を続けていた。
ハルトヴィヒは証言を裏付ける証拠として、一通の書状を取り出した。
「これは、サルバドル侯爵家の賭博および密輸行為に巻き込まれた者たちによる告発書です。内容の公開は控えますが、すべての署名については本人確認を済ませております。これを重要書類として提出します」
ハルトヴィヒは書記官に書状を渡すと、再び証言台へと戻った。
「今回、エリシアが監禁されていた屋敷は、"アントン・スレイヴ"という異国の男の名義で登録されていました。しかし、エリシアの証言によれば、マルコ・サルバドルはこう言っていたそうです。『父上が仕事で使っている屋敷の一つだ。もっとも、偽名を使っているから足もつかない』と。つまり、"アントン・スレイヴ"という名前は、サルバドル侯爵側が使っていた偽名だったということになります。そこで、僕はこの証言を裏づけるために調査を行いました。その結果、この偽名は賭博や密輸品の取引に関わる案件で、責任者として記録されていた名前と一致しました。この証拠はすでに殿下に提出してあります」
ハルトヴィヒの証言を受けて、書記官は頷きながら羊皮紙の束を手に取って見せた。
その様子を見ていたサルバドル侯爵の顔色は、みるみる青ざめていく。
傍聴席では人々が小声で囁き合い、ざわめきが広がっていく。
「静粛に!」
書記官の大きな声により、一瞬にして場に静寂が訪れる。
ハルトヴィヒの証言が終わり、次にサルバドル侯爵家側の証言が始まろうとしていた。
まず証言台に立ったのは、今しがた己の悪事を暴露されたディートヘルム・サルバドル侯爵だった。
先ほどまで青ざめていたがそれは一瞬のことで、今はその顔に冷たい笑みを浮かべ、証言台の上から会場を睥睨していた。
「偽名の使用は、あくまで私の安全と家門の名誉を守るための正当な手段だ。告発は私への個人的な恨みによるもので、証言の信憑性は疑わしい。闇取引などするわけがないし、優秀な我が子の言動に、間違いなどあるわけがない」
はっきりとサルバドル侯爵はすべての罪を否認した。
しかし、ハルトヴィヒは少しも動じることなく、確信に満ちた眼差しを向けていた。
サルバドル侯爵が戻り、次に証言台に立ったのはマルコだった。
マルコは一貫して「すべてはエリシアを正すため」と主張していた。
それが自分の罪になるのなら、エリシアにも罪があると――。
その言葉に、会場の空気は凍りついた。
誰もが呆れと困惑を隠せず、ざわめきはやがて重い沈黙へと変わっていく。
あまりにも自己中心的で、理屈として成り立っていない主張であることは誰の目にも明らかだった。
そして最後に証言台に立ったアマステラは、この期に及んでもなお、ハルトヴィヒに媚びを売っていた。
「こんなこと紳士淑女の皆様の前で告発するつもりはありませんでしたが……。エリシアはデビュタントのとき、見知らぬ男と身体を寄せ合っていたのですよ? それも王宮の庭園で……はしたなくありませんか?」
事件と関係のない話は慎むよう注意されるが、会場はざわめきに包まれた。
周囲の視線が一斉にエリシアへと向けられる。それは憐れみ、疑念、軽蔑――さまざまな感情が入り混じったものであった。
だが、それについては思い当たる節がある。どう弁解しようか迷っていると、ざわめきをかき消すようにハルトヴィヒが手を挙げた。
「ああ。それは僕だ」
「は?」
「そうだな。リヴェール嬢のおかげでハルトは命拾いしたんだ」
王太子もそれに続き、あの日の出来事をエリシアに代わって詳しく説明してくれた。
完全に醜態を晒したアマステラは言葉を失い、目を見開いたまましばらく硬直していた。やがて、悔しさと苛立ちを滲ませた鋭い視線をエリシアにぶつける。
エリシアはその視線を感じながら、ただ黙ってアマステラの視線を受け止めた。胸の奥でわずかな緊張が走るも、それを顔には出さず、まるで何もないかのように毅然とした姿勢を崩さなかった。
すべての証言が終わった。
ざわめいていた会場は、書記官の一声でぴたりと息をひそめた。
そして、玉座に座る国王が静かに立ち上がる。
厳かな沈黙の中、王の一声に会場すべての視線が集中した。
「これより、サルバドル侯爵家への処分を正式に宣告する」
玉座から響いたその声は、まるで重く冷たい鐘の音のように、会場の隅々まで染み渡っていく。
最初に告げられたのは、サルバドル侯爵への処分だった。
「ディートヘルム・サルバドル。貴殿は子息らの重罪を防げなかった監督責任、並びに王国法に反する賭博および密輸の闇取引の罪により、侯爵位を剥奪し、所領を没収。これをもって、今後は平民として生きることを命ずる」
続いて名を呼ばれたのは、マルコだった。
「マルコ・サルバドル。貴殿は、長年にわたりエリシア・リヴェール嬢を虐げ、脅迫し、拉致・監禁・暴行を行った。さらに、アルベルト公爵領およびリヴェール伯爵家への襲撃を主導した罪により、貴族の身分を剥奪し、斬首に処す」
マルコへの処分に、エリシアは内心で驚きを隠せなかった。
同じように驚いた者は多く、会場はざわめきに包まれる。
しかし国王は、その騒ぎなど意に介さぬ様子で、粛々と最後の一人――アマステラへの処分を告げた。
「アマステラ・サルバドル。貴殿は、長年にわたりエリシア・リヴェール嬢を虐げ、兄マルコ・サルバドルの犯行を幇助した罪により、貴族の身分を剥奪。修道院への終身入院を命ずる」
そして国王は一拍の間を置くと、ゆっくりと視線を巡らせながら、言葉を締めくくる。
「以上を以って、王命とする」
感情をほとんど感じさせないその語調には、揺るぎない決断の重みが滲んでいた。
その裁定に息を呑んだのは、エリシアだけではなかった。隣に立つハルトヴィヒもまた、その厳しい宣告に目を見開いていた。
サルバドル侯爵はともかく、マルコとアマステラに対しては恩赦が与えられるはずだったからだ。
マルコは俯いているが、アマステラは告げられた処分の重さに愕然とし、激しく動揺していた。
「そ、そんな……っ! 殿下は恩赦を与えるって……お兄様を助けてくれるって、約束してくださったではありませんか!」
震える声で訴えるアマステラに、王太子は立ち上がった。
「何を言っている? 約束通り、恩赦は与えただろう? 君とマルコ・サルバドルの罪状から、俺に対する不敬罪が消えたではないか」
「は……? なんで……? この件まるまるひっくるめてじゃ……」
「それは、少々厚かましいだろう?」
王太子は口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
その表情にアマステラは言葉を失い、やがて震える声で抗議した。
「で、でも、あのときは”この件について”って仰ったではありませんか。命を保証するって……!」
アマステラは深く見据えた瞳で、懇願するように縋りつく。
「確かに俺はあのとき、『この件については、サルバドル令息の罪を不問とする』と言った。だが、”この件”が具体的にどの罪に適用されるか確認しなかったのは、君だろう? それに君もこう言ったじゃないか。『一度だけ見逃していただけませんか』と。その”一度”に俺への不敬罪を当てた。不敬罪だけであればマルコ・サルバドルの命は保証できたが――その他の罪については、また別の話だ」
「そんな……王族ともあろうお方が、謀るような真似を……」
アマステラは唇をわななかせ、信じられないとばかりに王太子を見上げた。
「謀るなんて人聞きの悪い。高位貴族でありながら、言葉の裏を読むことを怠ったお前たちの落ち度だろう?」
見下すように放たれた王太子の言葉が、容赦なくアマステラを打ちのめす。
「いやあああああああっ!」
絶叫とともに、アマステラは足元から力が抜けるようにその場に膝から崩れ落ちた。
崩れた体を支えることもできず、震える指先を床につきながら、打ちひしがれたように泣き喚くしかなかった。
アマステラの取り乱した姿に気づいたのか、俯いていたマルコは妹を見下ろすように一瞥した。まるで妹の絶望すらも愉しんでいるかのように、唇の端がわずかに吊り上がる。
それから、その目でエリシアを捉えた。
その視線には、怒りも悲しみもない。ただ――“俺はお前の中に残る”とでも言いたげな、執着だけが滲んでいた。まるで、自分が滅びたあとでさえも、エリシアの心に爪痕を残すことができると信じているかのようだった。
ひやりとしたものがエリシアの背筋を這い、心臓が嫌な音を立てる。
だが、ふいに目の前が暗闇で覆われた。
次の瞬間、目元をそっと覆う温かな手のひらの感触がして、顔を預けるように身を寄せると、甘く澄んだ柑橘の香りが鼻をくすぐった。
嫌な音を立てていた鼓動は、別の高鳴りを奏で始めた。
「ハルト様」
「もう、行こう」
侯爵が怒号を浴びせている声を後ろに、エリシアはハルトヴィヒと会場を後にした。
*
それから数日後。
マルコの処刑が執行されたと新聞で知った。
見に行くこともできると言われたが、エリシアは行かなかった。
マルコの最期を自分の目に焼き付けるのも、彼の最期にエリシアの姿を焼き付けるのも、どちらも嫌だったからだ。
――やっと、終わった。
胸の奥で、わずかな安堵が混じった。この安堵は、エリシアの周りの人たちのおかげで得たものだった。感謝の気持ちは、一生忘れることはないだろう。
エリシアは一口紅茶を含むと、ティーテーブルの上に置かれた上質な封筒を手に取った。封蝋で厳重に封がされており、表にはアルベルト公爵家の紋章があしらわれている。
あの裁判以来、ハルトヴィヒとは会えていない。忙しくなると言っていたが、これがその理由なのだろう。
エリシアはナイフで封を切った。
彼の筆跡で綴られた内容に、エリシアの唇がほんのわずかに緩んだ。
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