第31話 舞踏会
胸元に寄せた手が、かすかに脈打っているのを感じる。
エリシアの頭上では、シャンデリアの光が天井で揺れ、まるで星の海のようにきらめいている。目の前にある大扉の向こうからは、会場に集まった招待客たちの賑やかな声が、かすかに漏れてきた。
「緊張してる?」
そっと囁かれた声の方へ顔を向ける。
隣に立つ青年は、相変わらず整った顔立ちに、人好きのする柔らかな笑みを浮かべている。
淡い海を閉じ込めたような青の瞳に、エリシアを映している。そこには慈しみのような光が宿っていた。
ただそこに存在しているだけでも、心臓がうるさくなってしまうくらい麗しい顔をしているのに、こんなにも優しく見つめられてしまえば、鼓動が落ち着くはずもない。
久しぶりに顔を合わせてからずっと、エリシアの胸の奥はそわそわと騒がしかった。
「……はい」
けれど、胸の高鳴りを悟られたくなくて、エリシアは久しぶりの舞踏会のせいにした。
半月ほど前、ハルトヴィヒの名前で届いた手紙は、アルベルト公爵邸で行われる舞踏会の招待状だった。
ハルトヴィヒが当主になってから初めて主催する舞踏会ということで、招待客はハルトヴィヒと親交のある者ばかりだという。
エリシアの兄とサラ、それからカルデコット侯爵も招待しているという。
エリシアが身にまとっているドレスは、ハルトヴィヒが贈ってくれたものだった。
彼の瞳と同じ淡い海のような青地のドレスには、彼の髪と同じ金の糸で繊細な刺繍が施されている。まるで穏やかな波間に陽の光が差し込んでいるかのように、動くたびにきらりと繊細な輝きを放った。
腰から下に広がるスカートには、透明感のあるチュールがたっぷりと使われており、まるで柔らかな潮風に揺れる波のさざめきを思わせた。
以前、ハルトヴィヒと共に訪れたカメリア・クチュール。あの時は夜会用のドレスだけを仕立てたのかと思っていたが、実は彼は密かにこの舞踏会のためのドレスまで用意してくれていたらしい。
それだけではない。
髪飾りや耳飾り、手袋に扇子――ドレスに合わせた宝飾類も一式揃えられていて、エリシアは驚きを隠せなかった。
今日の身支度は、チェルシーがやってくれた。
エリシアが療養のためにリヴェール家に戻った際、チェルシーも一緒に戻ってきていたが、以降は侍女長であるシェリーが身支度を担当していた。だが今回シェリーは、チェルシーに任せると言い、本人はその様子を見守っていた。
チェルシーの手で丁寧に仕上げられたエリシアの白銀の髪は、左側から丁寧に編み込まれ、波を描くように右肩へと流れていた。編み込みの隙間には、小さなパールがあしらわれており、優雅で繊細な印象を添えていた。まるで柔らかな潮風に揺れる波のように、穏やかで清楚な雰囲気を漂わせている。
渾身の出来栄えにチェルシーが鼻から血を垂らすと、シェリーがすかさず叩いていたのは言うまでもない。
「綺麗だ……。リーシャはどんな色も似合うが、淡い色もよく似合う」
ハルトヴィヒは柔らかく目を細めた。
「……ハルト様だって」
夜空を思わせるような深い青地に、襟元や袖にはエリシアの髪色と同じ白銀の糸で刺繍が施されている。ハルトヴィヒの金色の髪とも相まって、まるで星の軌跡のようだった。
「さあ、行こうか」
ハルトヴィヒの腕にそっと手を添える。
見知ったアルベルト公爵家の使用人が、ゆっくりと大扉を開けた。
次の瞬間、目の前に飛び込んできた光景に、息を呑んだ。
天井を支えるアーチに、幾重にも重なるベールのようなカーテン、黄金に輝く壁面の装飾──そのすべてが、記憶の中よりもずっと華やかで、眩しかった。
招待客の視線が、主催者にエスコートを受けているエリシアに向けられる。
以前は影のように目立たず、ひっそりと壁の花でいることを意識していた。地味な色を好み、こんな淡い色のドレスだって選ぶことなどなかった。しかし、ハルトヴィヒから贈られた淡い色のドレスを身にまとい続けるうち、次第に慣れてしまった。毎日のようにハルトヴィヒから褒められたことも、エリシアの自信へと繋がっていったのだと思う。ゆえに、視線を向けられても、不思議と以前ほど気にならなくなっていた。
もっとも――あの裁判のおかげで、エリシアに対する悪評が薄れつつあるのも一因だと思っている。
そんなことを考えながら、エリシアは会場の奥へと足を進めた。
*
主催者として壇上に立ったハルトヴィヒが、会場を見渡しながら口を開く。
「今宵はご多忙のなか、お集まりいただき誠にありがとうございます。皆さまとこのひとときを分かち合えることを、心より嬉しく思います」
その堂々とした挨拶に、会場からは自然と拍手が湧き上がった。ハルトヴィヒは拍手に応えるように軽く微笑み、さらに言葉を続けた。
「それでは、まもなく舞踏会の幕開けを告げる最初の一曲が始まります。皆さま、どうぞフロアへお進みください」
完全無欠の若き公爵の言葉に、会場の招待客たちは一斉に動き出し、華やかな衣装がゆっくりとフロアへと流れ込んでいく。
ハルトヴィヒは迷わずエリシアのもとへ歩み寄ると、優雅な所作で左手を差し出した。
「僕と踊っていただけますか?」
「喜んで」
差し出された手に、自分の手をそっと重ねる。指先が触れた瞬間、かすかな温もりが伝わり、視線がそっと絡み合う。
しっとりとした旋律が流れ始め、二人は自然と足を踏み出した。
優雅な三拍子の舞踏曲に合わせ、淡いドレスの裾が舞い、深い青の衣がその輪郭を包むように動く。
「リーシャと踊るのは、あの舞踏会以来だね」
「そうですね」
ハルトヴィヒが感慨深げに呟く。
思えば、ハルトヴィヒとの縁はあの時から始まった。いや、彼にとってのきっかけはもっと前だったのだろう。けれど、エリシアにとっての始まりは、カルデコット侯爵家が主催したあの舞踏会だった。
半ば強引にハルトヴィヒと踊ることになり、殺意のこもった視線をご令嬢方から向けられ、生きた心地がしなかったことをエリシアは鮮明に思い出した。
「あの時のリーシャの『早く終わってほしい』って顔は今でもちゃんと覚えているよ」
「……そうですか」
どうやら、あの時のエリシアの気持ちには気づいていたらしい。確かに、あの時は早く終わってほしいと願っていた。
だが――。
「今は、そんなこと思っていませんよ」
「じゃあ……『早く帰りたい』とか?」
おどけたように言うハルトヴィヒに、少しむっとした。
「……違います。そんなこと思うはずないじゃありませんか。ただこのときが長く続けばいいと――」
つい本音を漏らしてしまい、ハルトヴィヒの顔を見上げれば、したり顔でこちらを見ていた。
――嵌められた。
「…………たった今、早く帰りたくなりました」
「かわいいなあ、リーシャは」
エリシアはぷいっと顔を背ける。けれど、怒っているわけではない。
とくとくと鼓動が早くなって、顔が火照ってしまい、ハルトヴィヒの顔をまともに見られないだけだ。
どれだけ胸の内が騒がしくても、ハルトヴィヒのリードのおかげで、エリシアは軽やかに舞うことができていた。次第に高鳴る鼓動は落ち着きを取り戻し、今はただこの時間を心の奥で噛み締めていた。
やがて、奏でられていた旋律が穏やかに終わりを告げる。
曲が終わったにも関わらず、突然ハルトヴィヒに腰を引かれた。
そのままぎゅっと抱きしめられる。
「ハルト様?」
何がなんだかよくわからないが、エリシアはそっと自分の手を大きな背中に回すと、無意識にぽんぽんと優しく叩いた。すると、抱きしめる腕の力がふっと抜けた。
見上げたハルトヴィヒの顔は――――その瞳に、今まで見たことのないほどの熱を宿していた。
その熱に、エリシアの心臓は飛び跳ねる。
ハルトヴィヒはそのままエリシアの左手を取ると、その場に跪いた。
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