第29話 救いの女神
ハルトヴィヒは公爵家の馬車に揺られながら、これまでのことを思い返していた。
両親が亡くなり、伯父に実権を握られ、命を狙われた日々。辛くなかったと言えば、嘘になる。だが、ハルトヴィヒは決して一人ではなかった。
ハルトヴィヒが道を誤らぬよう、気にかけてくれた人がいた。
ハルトヴィヒが困らぬよう、手を貸してくれた人がいた。
そして、そんなハルトヴィヒを、まるごと受け入れてくれた人がいた。
いつもハルトヴィヒのことを、誰かが助けてくれた。
あの日もそうだった。
瀕死の彼を救ってくれた少女は、まるで地上に降りた救いの女神のように見えた。
救いの女神を見るのは、二度目だった。
一度目は――幼い頃のこと。ハルトヴィヒの代わりに、ある女の子が階段から落ちてたのだ。
それは両親が亡くなり、伯父が実権を握っていたある日のこと。
ハルトヴィヒは伯父に連れられ、とある令嬢の誕生日パーティーに出席した。
いつものように見せしめに連れて行かれたハルトヴィヒは、伯父の実子の脇役として影のように過ごしていた。やがてパーティーの主役である女の子が、彼女と同じ銀髪の少年にエスコートされ共に会場に入ってきた。だが、主役の女の子は終始ちっとも楽しそうには見えなくて、ハルトヴィヒはそれがひどく気になった。
しばらくして、彼女はエスコートした少年に何かを囁くと、静かに会場をあとにした。
伯父の様子をちらりと伺えば、伯父は自分の息子を売り出すのに必死になっている。
ハルトヴィヒは伯父に気づかれないよう、こっそりと会場を抜け出した。
幸い、少女はすぐに見つかった。階段上の空間で、ひとりうずくまっていたのだ。
「具合、悪いの?」
ハルトヴィヒは声をかける。
ぱっと顔を上げた少女は、怯えたように肩を震わせたが、次の瞬間には、どこかほっとしたような表情を見せた。
「……いえ」
だが、否定の言葉とは裏腹に、その顔色は決して良いとは言えなかった。
「今日は君の誕生日パーティーなんだろう?」
「……はい」
素っ気ない返事だった。
けれど、ハルトヴィヒは不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、自分の誕生日なのに、どうしてこんな場所でうずくまっているのか。その疑問が、胸に広がった。
理由はわからない。ただ、誕生日くらい幸せな気持ちでいてほしい――そんな思いが、ふと湧いた。
彼女の名前を思い出す。たしか――エリシアだったか。
「エリシア、お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」
「え……?」
エリシアは目を丸くした。
何をそんなに驚くのだろう、とハルトヴィヒは幼心で不思議に思った。
今となっては遠い記憶だが、ほんの少し前のハルトヴィヒにとっては、それがごく当たり前のことだったから。
だから、その言葉をエリシアに伝えることにした。
「ぼくのね、死んだお父様とお母様はいつも誕生日にそう言ってくれたんだ。だから今、辛くても、お父様と同じ髪の毛でいられなくなっても、ぼくが生きていられるのは、その言葉があるからなんだよ」
「……わたしのおかあさまも、もういないんです。わたしをうんで、しばらくしてなくなってしまった。わたしはどこかで、おかあさまのいのちをうばったとおもってて……」
「誰かが、そう言ったの?」
エリシアはふるふると首を振った。
「じゃあ、大丈夫だよ。エリシアのせいでお母様の命がなくなったなんて思っていたら、こんなパーティーは開かない。君はみんなに愛されてる」
そう笑顔で伝えれば、さっきまでの顔色の悪さが嘘のように、エリシアの顔が真っ赤に染まった。
「エリシアはかわいいね」
つい、口に出していた。他意はない。ただ、目の前の彼女が無垢で、愛おしく感じただけだった。それなのに――。
「……へんなひと」
エリシアはそう言うと、一瞬だけふっと笑った。
その笑みがあまりにも可憐で、儚くて。
ハルトヴィヒの心は一瞬で撃ち抜かれたかのように胸の奥が熱くなり、言葉を失った。なんだか気恥ずかしくなって、頬をかく。
この感情を何と呼ぶのか、この時のハルトヴィヒにはわからなかった。ただ、この瞬間だけ、温かい空気が二人を包んでいたと思う。
だが――――まさかエリシアの笑みが、あの男の地雷だったとは思わなかった。
赤髪の少年はハルトヴィヒの腕を掴むと、力づくで引っ張っていく。
ろくに食事も与えられていない身体では、抗うことすらできなかった。
「お前のせいで、こいつは死ぬ」
ハルトヴィヒを階段上まで引きずり出すと、赤髪の少年はエリシアに向かってそう言った。
――何を言っているんだ、こいつは。エリシアの何なんだ。
そう思った瞬間、ふと我に返った。自分に刻々と死が迫っていることに背筋が凍る。
逃げなければならない。だが、その一方で、禁じられた考えが胸をよぎった。
――これで、お父様とお母様のもとへ行けるのだと。
けれど、その瞬間、ハルトヴィヒの体が強く引っ張られた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかったが、エリシアが階段を派手に転げ落ちていくのが見えた途端、ハルトヴィヒの全身から血の気が引いた。
その後のことはあまり覚えていない。
ただ、当然ながら伯父には折檻された。勝手に抜け出した挙げ句、疑われても仕方のない場に居合わせていたのだ。それは避けられなかった。
痛みに耐えながらハルトヴィヒは、エリシアが無事であることだけを祈り続けた。
そして、数年後。
ハルトヴィヒは再び、エリシアに救われることになる。
その時のことは彼女も覚えていたが――幼い頃の記憶はないように思えた。
覚えていないことまで掘り返す必要はない。あれは彼女にとっても苦い記憶だろう。
けれど――その気遣いが裏目に出るのは、そう遠くない未来のこと。
真実を知ったエリシアに数日間、口を利いてもらえなくなるのだが――それはまた別の話。
それよりも今は――夜明けに向けて、心の奥で覚悟を固めていた。
あの男とその家族は今、貴族が入る特別室で裁きの時を待っている。
エリシアを歪んだ愛情で支配しようとし、歪んだ正しさを押し付けた男の行く末を見届けなければならない。
それがどんな結末になろうと――。
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