第28話 本音
誰かの気配が、すぐ間近に迫っていた。
寝台のそばの椅子がわずかに軋み、誰かが腰を下ろしたのだと感じた。途端に、どこか緊張を含んだ空気がふっと漂った。
瞳を開ける機を逃し、エリシアはそのまままぶたを閉じて、沈黙に身を委ねていた。
「エリシア……すまない」
久しぶりに聞いた声に、エリシアの肌は粟立った。
ずっと待ち望んでいた、あの人の声だった。
開口一番、謝罪を口にした彼の声はかすかに震えていた。
「君にリヴェール家が襲撃されたことを言わなかったばかりに、言い合いになって、攫われて……こんな目にあわせてしまった。こうなるとわかっていたら、言うべきだった。ただ僕は、君に安らかに過ごしてほしかっただけなんだ。困難は僕が解決するから、だからせめてアルベルトの屋敷にいるときくらい穏やかに過ごせるよう願って――黙っていた」
次の瞬間、ためらいがちに伸びてきた指先が、エリシアの手元にそっと触れた。
拒絶されることを恐れているのが伝わるほど慎重で、手探りするような、迷いを含んだ動きだった。
「あの場で君にプロポーズする気なんてなかったんだ。本当は、もっとゆっくり君と仲を深めてからプロポーズする気だったんだ。だけど、エリシアと再会して、話ができて、それが嬉しくてもう君を誰の目にも入れたくなくて。焦ってあんな公の場でプロポーズしてしまった。君が舞踏会を好まないことを知っていながら、僕は自分の気持を優先してしまったんだ。君のことを愛しているのに、君の嫌がることをしてしまった」
「……それは、嘘です」
つい、口をついて出てしまった言葉が、いつになく震えていることに気づいた。
胸の奥が締めつけられるように痛み、目の奥が熱くなる。
その嘘を見抜きたいわけじゃない。けれど、はっきりさせなければならなかった。
「エリシア!? いつから起きて――」
むくりと体を起こしたエリシアは、そのままハルトヴィヒに体ごと向けた。
久しぶりに顔を合わせたハルトヴィヒの顔には、疲れのようなものが溜まっており、きらびやかな青年とは程遠い姿をしていた。
「こそこそとレディーの部屋に入ってくるなんて、いくら完全無欠の公爵閣下といえども失礼です。人が寝ているのを良いことに、ぼそぼそと一方的にご自分の思いをおしゃべりになって……」
「すまない」
――ずっと、来なかったくせに。今になって言い訳のように言葉を並べるだなんて。
言いようのない憤りのようなものが溢れてしまう。
会いたかったのに、助けてくれたお礼をいいたかったのに――どうしてもエリシアの言葉は止まらない。
「……謝罪は結構です。私なんて最初から興味なかったのではありませんか? だって私は『鉄仮面』と悪名高いエリシア・リヴェールです。事の顛末はすべて聞きました。友人である兄が困っているから、助けてくれたのですよね」
「違う! 僕はずっと前からエリシアが好きだった!」
必死に否定するハルトヴィヒに、エリシアは苦笑した。
「ずっと前? 誰と勘違いなさっていらっしゃるのです? 私達はあの舞踏会で初めて会ったじゃありませんか」
「いや、その前だ。その前に会っている」
「お言葉ですが、ハルト様のような見目麗しいお方とお会いしていたら忘れるはずありませんわ。それに私、褒められたことではありませんが、ほとんど社交界には顔を出しておりませんから。記憶を辿っても、ハルト様とお会いしたことなんてありません」
エリシアははっきりと断言する。
胸を張って言えることではないとは自分でもわかっていたが、この際開き直ることにする。
「いや、僕たちは前に会っている」
「記憶にございません」
「――エリシアのデビュタントの日だ」
その言葉に、エリシアの顔が少しだけ強張った。
――デビュタントの日?
過去の記憶が胸の奥を刺激する。
「宮廷舞踏会の庭園で、僕は君に助けられた」
「私がハルト様をお助けした? そんなの記憶にございませんわ」
どれだけ記憶を巡らせても、その頃ハルトヴィヒはまだ社交界に出ていなかったはずだ。
ならば、そんな出会いが本当にあったとは思えない。
けれど、ハルトヴィヒは引き下がらない。
「いいや、確かにあれはエリシアだった。君は死にかけていた男を助けてくれただろう?」
「死にかけた……?」
その言葉に、胸の奥で何かがかすかに揺れた。
遠い記憶の欠片が、霧の向こうからそっと手を伸ばしてくるような感覚だった。
「まさか……あの時の?」
ハルトヴィヒはこくりと頷くと、おもむろに立ち上がり、無言で身にまとっていた服を脱ぎ始めた。
「ちょっ……な、なんで突然脱いでいらっしゃるんですか!」
「この傷、見てくれないか」
慌てて顔を覆った指の隙間から、そろりと覗き込む。
そこには鍛えられた身体があった。滑らかに流れる筋肉の曲線の中に、深く刻まれた一筋の傷跡が浮かび上がっている。
「あ……」
途端に、忘れかけていた記憶が鮮明に蘇った。
そうだ。エリシアはあの夜、血まみれの男に手を差し伸べていた――。
「君は叫び声を上げることなく、淡々と震える手で止血してくれたよな。僕には君が救いの女神のように見えたよ。君の助けがなかったら、僕は今ここにいない」
「あれからどうなさったのですか? いいえ、そもそもどうしてあんなお姿に? ……だってハルト様は公爵家のご子息だったのでは?」
「ブルーノとベルタから聞いたんだろう? 彼らに逃がしてもらったあと、僕はカルデコット侯爵家に匿ってもらっていたんだ。母がなにかあった時のためにと書いてくれていた書状に、カルデコット侯爵家に行けとあってね」
そしてハルトヴィヒは脱いだ服を身にまといながら、空白の彼の過去について語り始めた。
*
ハルトヴィヒはアルベルト公爵家を出た後、カルデコット侯爵家に身を寄せることになった。
幸い亡き母とカルデコット侯爵婦人が旧知の仲だったため、余所者である彼を快く受け入れてくれた。だが、ハルトヴィヒの行先を突き止めた伯父は次の手を打ってきた。
「サラに矛先を向けたんだ。彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。だから黙ってカルデコット家を出た」
幸い、当面の生活には困らないだけの金は手元にあった。
けれど、それからの日々は逃亡の連続だった。
ハルトヴィヒは次の手段として、レオナルドに宛てて手紙を送った。そして返ってきたのが、一通の短い返事。
宮廷舞踏会で落ち合おう――。
だが、王都に入る直前、待ち伏せていた追手に襲われた。
伯父は、王太子にハルトヴィヒへの仕打ちが露見することを恐れていたらしい。王都付近にも刺客を放っていた。
命からがら追手を振り切り、王宮の警備の目をかいくぐって中へと滑り込んだハルトヴィヒの体力は、すでに限界に近かった。その時――。
「エリシア。君に会ったんだ」
ハルトヴィヒはそう言うと、顔をほころばせた。
その後、エリシアを探して駆けつけたエドワードによって、ハルトヴィヒの素性が明らかになり、無事レオナルドと接触することができた。そして体制を立て直し、力をつけたハルトヴィヒは、伯父に刃をつきつけ、家督を奪い返した。
*
語り終えたハルトヴィヒは、ふっと一息吐いた。
エリシアは黙ったまま、その言葉の余韻に浸っていた。
この人は見かけによらず、重いものを抱えているとは感じていた。けれど、身内に命を狙われ、実際に致命傷の傷を負っていたとは思ってもみなかった。
これまで何気なく交わしていた言葉や仕草の裏に、どれほどの覚悟と孤独が隠されていたのか。その瞳の奥に秘められた重みを思うと、言葉が詰まり、胸が締め付けられる。
しばらくの沈黙の後、ハルトヴィヒはぽつりと口を開いた。
「だから、僕はずっと君のことが――」
「じゃあどうして……どうして会いに来てくれなかったのですか」
胸の奥から込み上げる疑問と寂しさを抑えきれず、エリシアは声を震わせた。
「本当に私のことを……すき、だと仰るなら、どうして……」
どうしてか、ハルトヴィヒの顔を見ることができない。
問い詰める声の裏に隠れた、エリシアの複雑な心情が滲んでいた。
「え……」
その問いにハルトヴィヒは、一瞬言葉を失い、戸惑いの色が浮かんだ。
静かな部屋の空気が重く張り詰め、互いの呼吸だけが微かに響く。
やがて、ハルトヴィヒは眉間に深い皺を寄せ、苦々しげに口を開いた。
「君を危ない目にあわせてしまった。リヴェール伯爵との約束を果たせなかった僕には、君に合わせる顔がないと思った。ただ、屋敷の外から君の無事を願うしかできなかった。けど、リヴェール伯爵がそんな僕を見かねたのか、顔だけでも見ていってほしいと言ってくれてね。僕には君に会う資格が、もう、ない。だから最期のつもりで……」
その言葉に、エリシアの心はぐらりと揺れ動いた。
憤り、寂しさ、そして愛しさが混ざり合い、抑えきれない感情が溢れた。
「……ハルト様は勝手です。プロポーズだって強引だったじゃありませんか! その後の行動だって、普通プロポーズの翌日に迎えに来る人がいますか! そのくらい、ハルト様は強引で……でも、優しくて。毎日お花をくれて嬉しかったのに。毎日褒めてくれて、こそばゆい気持ちになったのに。毎日貴方の話を聞くことが楽しくて、顔を合わせることが嬉しくて、貴方とのお出かけに心踊って……それなのに」
「え……」
ハルトヴィヒが驚いたように目を丸くして言葉を漏らす。
だが、エリシアの言葉は止まらない。止められなかった。いまだけは、自分の心のすべてを伝えずにはいられなかった。沈黙してきた日々の想いが、堰を切ったように言葉となって吐き出される。
「それなのに、変なところで気を遣って。私に公爵夫人の仕事をさせようとしなかったり、リヴェールの家の状況を知らせなかったり、挙句の果てには責任を感じて勝手に終わらせようとして……強引なのか、そうじゃないのか、はっきりしてください!」
「えっと……」
目の前のハルトヴィヒは、まるで思考が追いつかないかのように、呆けたような顔をしていた。
その様子に、どこかで冷静な自分がいるのを感じながらも、エリシアは口を閉じる気になれなかった。
――自分がこんなふうに声を荒げるなんて。
『鉄仮面』と呼ばれてきたのに、感情をそのままぶつけている。けれど、もう抑える理由も、余裕もなかった。
「大体、愛称で呼び合いたいって言ったのはハルト様です。それなのに、もうリーシャって呼んでくださらないのですか! あのときは呼んでくださったではありませんか」
「あのとき……?」
「助けに来てくださったときです……! あっ……」
言った瞬間、エリシアははっとして言葉を切った。
記憶が、ほんの少し曖昧だった。
あれは殴られすぎて見えた幻覚であり、幻聴だったかも知れない。
助けてくれたのはハルトヴィヒだと聞いていたが、そこまでのやり取りがあったかは定かではなく――顔が熱を帯びてくるのを感じながら、エリシアは視線を落とした。
「呼んでいいのか? リーシャって……」
「あ、や……えっと……」
なんだか、急に恥ずかしくなった。
けれど、顔を上げれば、ハルトヴィヒは真剣な目をしてこちらを見ていた。不意に見つめられて、心臓が早鐘を打つ。
「リーシャ」
「――っ」
その一言に、エリシアの心は跳ね上がるように高鳴った。
呼ばれた瞬間、体の奥から熱いものが込み上げて、思わず息を呑む。
「もしかしてリーシャは、僕が会いに来なくて寂しかった?」
「そんなことっ」
エリシアの胸がぎゅっと締めつけられた。反射的に否定してしまった自分に、言いようのない自己嫌悪が押し寄せる。
「だって、リーシャは待ってくれていたんだろう?」
「…………」
「ねえ、教えてよ。リーシャ。僕は期待してもいいの? 君も僕と同じ気持ちだって」
ハルトヴィヒの熱い視線が、エリシアの心を揺さぶる。
視線に耐えきれずそっぽを向いたが、少しの逡巡の末に視線を彼に戻した。
「…………待っていました。ハルト様が来てくれるのを、毎日ずっと。私も……ハルト様と同じ気持ちだから……」
「うん。ごめん」
瞳から雫が溢れ落ちる。
その瞬間、優しい腕の中に包まれた。
ハルトヴィヒの甘くて爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐり、自然と手が大きな背中へと伸びていく。
どくどくと彼の早い鼓動が伝わってくる。それに心地よさを感じていたのも束の間、自分の胸も同じように高鳴っていることに気づき、エリシアは顔が熱くなった。
「……もう、ハルト様なんて知りません」
恥ずかしさに駆られ、思わず手で彼を押しのけた。
「知らない? 本当に?」
「――っ!」
「強引な方が好きなんだっけ?」
ハルトヴィヒはいたずらめいた表情を浮かべながら、ぐいっと腰を寄せた。
すると、きれいな顔が間近に迫り、エリシアの視界をいっぱいに満たす。
「そ、そんなこと、言ってません」
「じゃあ、もっとリーシャに触れてもいい?」
そう言って、そっとエリシアの唇をなぞった。
彼のその視線に、心が強く揺れる。
そして――――。
「ん……」
そっと唇が触れた。
熱を帯びたその柔らかさが、エリシアの心を震わせる。じんわりと胸の奥深くから、波紋のように広がっていく。まるで凍りついていた心の氷がゆっくりと溶けていくようで、胸が締めつけられたかと思うと、温かさが満ちていった。
しばらくして、名残惜しげに唇が離れる。
その温もりが消え去ると、ふと冷たさが残る空気が胸を締めつけた。
「もしかして、嫌だった?」
「……そういうことは、訊かないでください」
「君が嫌がることはしたくないんだよ」
その問いに素直に答えるのが怖くて、エリシアはわずかに目を伏せる。
胸の鼓動だけが静かに高鳴り、心は言葉を探していた。
ふと、いつだったかサラが言っていた言葉を思い出す。
――『嫌か、嫌じゃないか』で考えるのも一つの方法よ。
そうだ、それなら言える。
エリシアはおずおずと視線を戻すと、消え入りそうな声で――。
「…………嫌ではありません」
その言葉を口にした途端、ハルトヴィヒは突然顔を覆った。
「はあ……。エリシアが可愛すぎる。やっぱり誰にも見せたくない」
(何を言ってるのかしら……)
エリシアには意味がわからず、つい怪訝な顔で見返してしまった。
ハルトヴィヒは覆った手をどけると、優しい眼差しをエリシアに向けた。
「これからは毎日会いに行くから」
「毎日は来なくてもいいです…………三日に一回でも……二日に一回でもいいですから」
ハルトヴィヒはくすりと笑った。
優しい笑顔に包まれ、エリシアの心はそっとほどけていく。
その微笑みは、これからの日々を約束しているようだった。
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