第27話 目覚め
エリシアが目を覚ますと、目の前には懐かしい天井が広がっていた。
やわらかな光が、寝台のそばに座るやつれた壮年の男性の姿をそっと照らしている。節くれ立つ大きな手が、エリシアの手を優しく包みこんでいた。
エリシアの気配に気づいたのか、壮年の男性は勢いよく立ち上がった。
「リーシャ……」
父が涙を浮かべて見つめていた。
「お父……さま」
エリシアが呼んだ途端、父の瞳から雫がこぼれ落ちた。
父は握った手を自身の額に引き寄せ、涙を流し続けている。
こんな父の姿を見るのは初めてで、安心させたくて、起き上がろうとする。
だが、深い眠りから引き戻された身体は、どこもかしこも痛みで満ちていた。まるで骨の一本一本が焼けるように疼き、動こうとすれば刺すような鈍痛が走り、動くこともままならない。
「起き上がらなくていい……。目を覚ましてくれただけで、十分だ……」
そう言うと、父はそっとエリシアを止めた。
その瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。
ゆっくりとそちらに顔を向けると、また懐かしい顔がそこにあった。
「エリシア様……っ!」
「シェリー……」
シェリーは耐えきれないと言わんばかりに、その場で泣き崩れた。
父はシェリーに声をかけると、エリシアの目覚めを皆に告げるように言った。
しばらくして、兄とサラが姿を現した。
サラはエリシアを見るなり駆け寄ると、寝台のすぐそばに腰を下ろした。
サラの目は腫れ上がり、涙の跡が頬を濡らしていた。
久しぶりに顔を合わせた兄はどこかやつれていて、それは少なからずエリシアのせいだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
*
「アルベルト公爵との婚約は、お前を守るためのものだった」
目が覚めてしばらくして、エリシアは事の顛末を聞いた。
ちなみに、全治一ヶ月と言われ、しばらくは寝たきりの生活になるらしい。
実際、起き上がろうとすると身体を貫く痛みに襲われるため、横になったまま話を聞いている。
父の話は、概ねマルコが語った通りだった。
最初の出会いは、サルバドル侯爵がマルコを連れてきたことから始まった。
将来の伴侶となる令嬢の見極めを既にしていたのだろう。
その時、エリシアはマルコに見初められたらしい。
「見初める……?」
マルコが、エリシアを見初める。
妙な違和感が胸いっぱいに広がるが、父は静かに頷いた。
「あれは……歪んだ愛情の持ち主だったんだ」
マルコは、誰よりも自分が優れていると信じて疑わなかった。
他者を見下し、自分の意にそぐわない者は徹底的にわからせた。周りの人間など、自分の意志に従うべき存在にしか見えなかった。
マルコの世界は、彼を中心に回り、その座を揺るがせるものは許せなかった。
エリシアは幼い頃から人付き合いが苦手だった。とくに初対面の相手となると緊張がひどく、視線を合わせるのも、まともに言葉を返すのも難しかった。うまく話せない自分が恥ずかしくて、つい無表情になってしまうのだ。いわゆる「人見知り」と呼ばれるものだった。
マルコと初めて会ったあの日。兄と穏やかな時間を過ごしていたところに、見知らぬ男の子がやってきた。エリシアはとっさに警戒し、表情を固くした。自分では隠しているつもりでも、心の内はすぐに顔に出てしまう。近づかないで、という無言の拒絶を、きっとマルコも感じ取ったに違いなかった。それがマルコの支配欲に火をつけてしまった。
エリシアを自分の思い通りにする――。
「エリシアが気に入った」
そうマルコは、自分の父であるサルバドル侯爵に伝えたらしい。
そして、そこから自然な流れのように、二人の婚約話が持ち上がった。もちろんエリシアは寝耳に水だったし、父にとっても、まさか本気に受け取られるとは思っていなかったようだ。ただの社交の場のひとこと、挨拶の延長のようなもの――。
けれど今、父は深くうなだれていた。
「初めから確固たる思いで断っていれば、今、エリシアがこんな目に遭うこともなかっただろう……」
その悔しそうな声を、エリシアは黙って聞いていた。
そして、事件は起きた。
あの誕生日パーティーで、エリシアは階段から派手に落ちて大怪我を負った。
エリシアがマルコの言いつけを破り、見知らぬ男の子に微笑んでしまった。その一瞬を見られてしまった。その瞬間、マルコの嗜虐的な影が、冷たく長く伸びた。
「お前のせいで、こいつは死ぬ」
そう吐き捨てるように言うと、マルコは男の子の腕をつかみ、無理やり階段の上へと引きずっていった。
――やめて。
言葉にならない叫びが、エリシアの中で弾けた。
咄嗟に駆け寄り、少年の手を必死に掴んだ。引き戻そうとした。けれど、無理に力をかけた拍子に、自分の足元が崩れた。重心を失った身体は、宙を舞った。
次の瞬間、視界がひっくり返り、世界が真っ白になった。
冷たい階段に叩きつけられた痛みと、周囲のざわめきだけが、遠くぼんやりと聞こえていた。
この一件で、マルコとの婚約話がなかったことになった。
「聞き取りのときにな、『エリシアが間違いを犯したから、正そうとしただけだ』と言ったんだ。これを近づけてはいけないと思ったよ。この件を他言しない代わりに、婚約の話はなかったことにしてほしいとサルバドル侯爵に申し出た」
サルバドル侯爵は当時、王室との関わりが深く、立場も影響力もあった。
もし問題が表沙汰になれば、波紋は広がる。
だからだろう。父の申し出に対し、侯爵は素直に頷いたという。
「謝罪はなかったがね」
父は口元をわずかに歪めた。
そして婚約話が立ち消えたことで、マルコの執着はさらに酷くなった。
それは時間とともに静まるどころか、むしろじわじわと深く、濃く、形を変えていった。
避けられない社交の場では、なるべく兄と行動を共にしていた。けれど、マルコは兄――エドワードにすら嫉妬を向けた。まるで、エリシアの周囲にいる人間すべてが、邪魔だと言わんばかりに。
すべての要因は、マルコの執拗さにあった。
兄の結婚に水を差し、仕事にまで影響を与えた。
その様子を見かねたハルトヴィヒが、協力を申し出てくれたのだという。
マルコの異様な執着からエリシアを守るため、簡単に手出しができないよう公爵家に匿う口実として婚約を結んだと――。
「……この様子だと、みなさんご存知だったのですね」
エリシアを守るためという名目だ。エリシアだけが知らされていなかった理由がよくわかった。
だが、そのせいでみんなが危険な目に遭ったのだと思うと、やるせない。
思わずぎゅっとシーツを握りしめると、細い手がエリシアの手を包んだ。
「ごめんなさい、リーシャ……」
「謝らないでください。サラお義姉様は悪くありません。全ての元凶は私ではありませんか」
そう。エリシアがいなければ、兄とサラは今頃結婚式を挙げられていた。
純白のドレスに身を包み、愛らしい笑みを浮かべるサラと、そんな妻の姿を愛おしそうに見つめる兄の姿が目に浮かぶ。
それが叶えられていないのは、エリシアのせいだ。
「違う! あなたのせいじゃないわ。全部、サルバドルが――」
「お兄様とサラお義姉様は、私が憎くないのですか?」
エリシアはその言葉に、口を挟むようにして言葉を続けた。
「憎いわけないだろう」
「なぜ、わたくしたちがリーシャを憎む必要があるの?」
二人は、まるで「そんなこと言うなんて信じられない」とでも言いたげに、首を振って否定した。
「リーシャを謀っていたわたくしの言葉なんて信じられないわよね。けれど、あなたを恨んだことはただの一度もないわ。だってあなたは……わたくしが愛するエドワードの妹で、わたくしの母の友人の子を助けてくれたやさしい子なのだから」
その言葉に、エリシアの心は静かに解きほぐされていった。
だが、サラが口にした”母の友人の子”という言葉が引っかかる。
少なくとも、兄とサラが結婚してからは、子どもを助けた記憶がまったくない。
それでも、その言葉は胸に小さな違和感を残していた。
「わたくしは、不自然なほどあなたにつけられた悪名を取り除きたかった。わたくしが憎んでいたのは、あの男ただ一人よ」
そう言うと、サラはゆっくりと目を細めた。
「俺は兄でありながら、お前をいつも守ってやれなかった。情けないよな。自分一人じゃ解決できない。それどころか殿下にまで迷惑かけて。本当はハルトにも頼る気はなかったんだ。だってあいつは――――ああ……いや、この先は本人から聞くべきだな」
兄は何か言いかけて目をそらした。不自然に言葉を濁し、話題を避けようとするその姿にエリシアは少し戸惑った。
話の流れで、エリシアは気になる気持ちを抑えきれずに口を開いた。
「……その、ハルト様は?」
「ハルトは今、後始末に追われている。ハルトには知らせを入れておく。お前が目覚めたと知ればすぐに会いにくるさ」
兄は表情を和らげ、エリシアの頭をそっと撫でた。
けれど、ほっとするような気持ちになったのは束の間のことだった。
エリシアが目を覚ましてから二週間が過ぎても、ハルトヴィヒが来ることはなかった。
会いたい気持ちはあった。しかし、相手にそんな気持ちがないことは、エリシアにもわかっていた。
ハルトヴィヒが助けてくれたのは、ただ協力を申し出てくれたからに過ぎない。
その思いを胸に、日が経つにつれて、ハルトヴィヒを待つ気持ちを少しずつ諦めるようになった。
自分の中で整理をつけなければならない――そう感じるようになっていた。
やがて、寝たきりで衰えた体力を取り戻すために、屋敷を歩く練習を始めた。
けれど、思っていた以上に体力が戻っていないことを実感する。歩き始めても、数歩進むだけで息が上がり、脚が重く感じられる。普段なら何でもないことが、今はとても辛い。
足元がふらつき、ふと立ち止まってしまうと、すぐに背中や足にだるさが広がり、体力の限界を感じる。
「疲れたわ……」
それが精一杯だった。ほんの数歩しか歩けず、すぐに立ち止まらなければならない。シェリーがすぐに支えに回り、エリシアはため息をつきながら、再び寝台に横たわることにした。
「今すぐお休みになってください」
シェリーは食い気味に、けれど優しい声色で言った。
部屋を出る間際に見せたその表情は少しだけ心配そうに見えて、彼女にもどれだけの心労をかけたのだろうと思うと胸が苦しくなった。
部屋の静けさが長く続く中、エリシアは疲れが取れるどころかますます頭が冴えていくのを感じていた。
目を閉じても、まぶたの裏で微かな光が浮かぶような気がして眠ることができない。頭の中には雑念が巡り、身体は疲れているのに心だけが静まらない。
その時、部屋のすぐ外から微かな声が聞こえた。誰かが話しているようだったが、その内容までは聞き取れない。
しばらくして扉が開く音が聞こえると、エリシアは反射的に目を閉じ、息を潜めた。
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