第26話 ――会いたい

 次の瞬間。

 椅子の角が背中にめり込み、柔らかな皮膚は裂け、鮮やかな赤が溢れ出る。背筋を電撃のように走る鈍痛に、骨の奥にまで響くような、重く、逃れられない衝撃。

 その激しい痛みが、エリシアの全身を貫く――はずだった。


 だが、いくら待っても痛みは来ない。


 ぎゅっと閉じた目を恐る恐る開くと、マルコは椅子を振り上げたまま、今にも爆ぜそうなほどの狂気をその目に宿していた。


「…………最後にチャンスをやろう」


 マルコは椅子を置くと、エリシアを見下ろした。


「チャン、ス……?」


 まだ安心はできない。

 返答を誤ってしまえば、今度こそこの重厚な椅子を振り落とされるだろう。


「お前からアルベルト公爵との婚約を解消しろ。お前が好意を抱かなければ、この婚約はなかったことになるんだ。そもそも、アルベルト公爵が鉄仮面のお前の相手をするわけがないだろう? 現にお前はあの庭園で、プロポーズは間違いだったと言われていたじゃないか」


 エリシアは思わず目を見開いた。

 それは、あの庭園にいた三人――王太子とハルトヴィヒ、それからエリシアしか知り得ない話だ。

 それをなぜ、マルコが知っているのか――。


「なぜ……それ、を……」

「お前の後をつけていたからだ」


 マルコはゆっくりと口角を上げた。

 つまり、あのバルコニーで別れた後から、マルコはずっとエリシアの後を追っていたのだ。

 ただひとりで探し歩いていると思っていたあの時間、そのすぐ背後にマルコの足音があったということになる。

 息を呑むほどの寒気が、喉の奥から這い上がってきた。

 なぜ、気づかなかったのか――悔やんでも、もう遅い。


「アルベルト公爵との婚約を解消すれば、俺の妻にしてやる。俺ならお前を正しく導いてやれる。人前での振る舞いも、人との接し方も、家族との接し方も、全部教えてやれる」


 マルコは、まるでエリシアのすべてを支配するかのように、ゆっくりと手を差し出してきた。


(私がハルト様に好意を抱かなければ、婚約は解消される……)


 ハルトヴィヒとの婚約を解消すれば、もう誰かが傷つくことはないのだろうか。

 父も、兄も、義姉も、そしてハルトヴィヒも――。

 エリシアのせいで傷つく人がいなくなるのだろうか。


 けれど――――。


 一瞬だけ、感情が揺らいだ。

 受け入れるべき現実のなかで、それでも否定しきれない気持ちが胸に残っていた。













 ――――――会いたい。


 ついさっき、ハルトヴィヒに愛がなかった現実を突きつけられたのに。

 今、この瞬間にも頭に浮かんだのはハルトヴィヒの姿だった。


 目頭がじんと熱を帯びる。

 こらえようと瞬きをしたのに、視界はすぐににじんでいった。

 ぽたり、と雫がひとすじ、頬を撫でるように伝う。


 もう少しだけ、人付き合いがよかったら。

 お礼を言うときくらい、にこりと微笑むことができていたら。

 あの人の偽の愛の言葉に、頬を赤らめることができていたら。

 何かが変わっていたかもしれない。

 あの人から、本当の愛の言葉をもらえていたかもしれない。


 死の淵でそんな後悔など、何の意味もないというのに。


 それでも――――。




「婚約は、解消……しま、せん。できま、せん」

「それは、どういう意味だ?」


 彼に愛されていなかったと知ってしまっても、私は――――。


「ハルト様を……お慕い、して、いるから……。なかった、ことには……したく、あり、ません」

「エリシア、お前――っ!!」


 マルコの動きに躊躇いはなかった。

 椅子が振り上げられるその瞬間、冷たい風が頬をかすめた。

 エリシアは反射的に目を閉じ、全身に緊張が走る。


 ――死ぬ。


 そう覚悟したその時、心臓が止まりそうなほどの破裂音が部屋中に響いた。

 重く揺れる床の振動が、手足の先まで震わせる。

 瞼をゆっくりと開けると、ついさっきまで扉だったものの残骸が視界に飛び込んできた。

 マルコの動きが止まり、視線は自然と破られた扉へと向かう。

 暗がりの中、まるで夜空に浮かぶ星のように輝いたものが、あの人に見えた気がして――。

 

「ハルト、さ、ま……」


 つい、声に出していた。


「エリシアっ!!」


 殴られすぎて幻覚が見えているのかもしれない。

 ハルトヴィヒが来てくれるなんて、そんなの願望に過ぎないのに。

 現にエリシアの元へ駆け寄ってきた彼は、今にも泣き出しそうな顔をしている。完全無欠の公爵閣下が、そんな情けない顔するはずもないのに。

 けれど、エリシアを抱きしめるその温もりは現実のように思えた。


「リーシャ……」


 幻聴まで聞こえてきた。

 そういえば、愛称で呼び合いたいと言われていたことを思い出して――。

 だから、これは幻聴だ。都合のいい夢に違いない。

 だって、エリシアはまだ許可していないのだから。


 ――ああでも、夢ならば。


 いつの間にか自由になっていた手を、美しく整った顔に伸ばした。

 初めて触れた頬は思ったよりも柔らかく、けれどその奥には芯のような強さがあった。


 淡い青の瞳を大きく見開いたハルトヴィヒに、ほんの少しだけ口角をあげてみせた。

 きっと醜悪な笑みを浮かべた顔に違いない。でも、夢の中でくらい微笑んでもいいだろう。

 愛称で呼んでくれたのだから。


 そして――エリシアは意識を手放した。

















 ハルトヴィヒはエリシアを抱きかかえると、静かに立ち上がった。

 腕の中にいるエリシアの顔は腫れ上がり、血が滲み、肩や腕には痣ができている。恐らく、ドレスで隠れた部分にも痣ができていることは想像に難くなかった。


「どうしてここが? いや、それよりも、俺のモノに触らないでもらいたい」

「…………」


 マルコの言葉には、一瞥も向けなかった。

 これほどまでに傷ついた彼女を、誰にも触れさせたくはなかった。だが、この場にとどまれば、エリシアの身をさらに危険にさらすだけだということも、理解していた。

 ハルトヴィヒは同行していたアルベルト公爵家の護衛にそっとエリシアを託した。


「エリシアを頼んだ」

「承知しました」


 エリシアを抱えた護衛を守るように、他の護衛がぴたりと張り付く。

 この屋敷にいた見張りは、すでに制圧していた。だが、油断はできない。もう同じ轍を踏むわけにはいかない。

 

「おい、下賤な者が俺の所有物に触れるな!」


 特徴的な赤髪を振り乱し、エリシアを取り返そうと喚き散らす男の前に、ハルトヴィヒは静かに立ちはだかった。

 何も言わず、ただ射殺すような視線で男を見据える。

 マルコはその視線に怯んだのか一歩後退したが、すぐに薄ら笑いを浮かべた。


「……アルベルト公爵閣下は一体何をお考えなのでしょう? こんなところにまで乗り込んで、人のモノに手を出して……。貴方でしたら、エリシアなんかよりもっといい女がいるでしょう? あいつは馬鹿で愚図で、俺が面倒見ないと――――」


 気づけば言葉よりも先に拳が出ていた。

 マルコは衝撃であっけなく床へと倒れ込む。その拍子に、カラン、コロンと小さな何かが硬い音を立てて床を転がった。

 だが、ハルトヴィヒはそんな些末なことには目もくれず、マルコの胸ぐらを掴み馬乗りになった。


「二度と、その汚い口でエリシアの名を呼ぶな」


 ハルトヴィヒは拳を振り抜くと、ためらいなくマルコの顔面に叩きつけた。


「お前ごときが、エリシアを罵るな」


 拳が顔面に跳ね返り、マルコの呻き声が耳をつく。

 けれど、止まることはできない。


「お前ごときが、エリシアの尊厳を奪うな」


 鼻を強く殴打し、マルコの呼吸が乱れる。

 マルコの鼻血が手につこうとも、ハルトヴィヒは次の手を繰り出す。


「お前ごときが、エリシアに触れるな」


 拳を叩き込むたびに、胸の内の怒りが燃え上がる。


 こいつのせいでエリシアは、笑えなくなった。

 こいつのせいでエリシアは、社交界から居場所がなくなった。

 こいつのせいでエリシアは、あんなにも傷ついた。

 こいつのせいでエリシアは、何年もの間苦しんできた。


 容赦など、絶対にしない。


「お前ごときが――――――」


 まだ足りないと拳を振り上げた、その瞬間。


「ハルトヴィヒ様! それ以上は!」


 護衛の言葉に、ハルトヴィヒは手を止めた。


「サルバドル令息が、死んでしまいます」

 

 気づけばマルコの顔は、見る影もなく大きく腫れ上がっていた。前歯は欠け、鼻は曲がり、すでに意識を失っているようだった。

 狡猾な男だと警戒していたが、マルコは反撃の素振りすら見せなかった。

 結局は、弱者にしか手を出せない臆病者だったというわけだ。


 ――こんな男、殺す価値もない。


 ハルトヴィヒ個人の恨みならともかく、この男はあまりにも手を出しすぎた。

 すべての罪を特別法廷で明らかにし、法で裁くべきだ。

 レオナルドが恩赦を与えるとしても、今は生かしておかなければならない。

 そう、己に言い聞かせて――振り上げた拳を、思い切り床に叩きつけた。


「……捕縛しろ」


 掴んでいた胸ぐらを離し、命じる。次の瞬間、護衛たちが一斉にマルコを縛り上げた。

 ハルトヴィヒは、拳に残る痺れを振り払うように立ち上がると、エリシアを乗せた馬車へと向かった。


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