名前のない記憶

和よらぎ ゆらね

名前のない記憶

朝焼けが冷たい

雨混じりの空気には春の匂いが混じっていた

風が吹き白椿の花が一つ音もなく落ちた

誰も見ていない庭の片隅で静かに


乾いた土の上に踏みしめた足跡がゆっくりと過去を編んでゆく

戻れたはずの場所はいつの間にか扉を閉じていて

声をかけたかった背中はもう振り返らない

あの日言葉を飲み込んだ夕暮れ

差し出せなかった掌

祈りを一つ、嘘に変えてしまった夜


「ごめん」と言えればよかった

「ありがとう」と残せていれば

けれど月日は流れ続け

椿はまた静かに咲き静かに落ちる

花の記憶は土に還り人の記憶は胸に沈む


ふと立ち止まる

空を見上げてもそこにあるのは変わらぬ青


どれほど悔やもうと

どれほど願おうと


覆水は盆には返らない

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名前のない記憶 和よらぎ ゆらね @yurayurane

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