第二話:絶望の日々、先生との出会い

あの運命の日の翌日

わたくしは屋敷で最も陽の当たらない、「北の塔」の最上階、埃まみれの部屋へと、移されました。


「イリスが、お前の顔を見ると、過去のトラウマで【聖光剣ルミナスブレイド】の訓練に集中できんそうだ。」

「貴様は、ここでイリスの心が癒えるまで、頭を冷やしていなさい。」


それが、わたくしに告げられたすべてでした。

公爵令嬢としてのドレスは剥ぎ取られ、粗末な麻のワンピースだけが与えられました。

食事は、一日二度、侍女が冷たくなったパンとスープを運んでくるだけ。


わたくしは壁に日数のカウントを続けていました。

二十日が経過した頃。

わたくしの部屋を訪れる人物がいました。


「ごきげんよう、セレスティナ“お姉さま”。」


最新流行の豪奢なドレスに身を包み、両親から贈られた宝石を輝かせた、イリス。


「あらあら。ずいぶんとお痩せになって。」

イリスは、楽しそうに笑いながら、侍女が置いていったわたくしのためのパンを、ゆっくりと床に落としました。


「…イリス。やめて。」

わたくしは、必死に公爵令嬢わたくしとしての尊厳を保とうとしました。

「あなたのなさっていることは、公爵家の人間として、あまりに…」


パァン!乾いた音が、部屋に響きました。

わたくしの頬が、熱い。

イリスに、生まれて初めて、叩かれたのです。


「まだ、『お姉さま』ぶるおつもり?」

イリスの瞳が、憎悪に燃えていました。

「あなたから私への『施し』は許されて、私からあなたへの『復讐』は許されないと?本当に、どこまでも傲慢ですのね!」


イリスは、床に落ちたパンを、その美しいヒールで、グリグリと踏みつけました。

一瞬、イリスの視線が揺らぎます。

…だけどすぐに、また冷たい笑みに戻りました。


「お食べになればいいのに。昔、あなたが私にくれた時のように。」


彼女は、わたくしの誇りプライドを、少しずつ。

確実に、踏み潰していきました。


………

……


…そして、二年。

十二歳になったわたくしは、もう、かつてのセレスティナ・フォン・アルクライドではありませんでした。

艶のあった銀髪は色褪せ、ふくよかだった頬はこけ、かろうじて息をしているだけの少女。


(お腹が、すいた…)

(喉が渇いた…)

(もう、どうでもいい…)


公爵令嬢としての礼節も、誇りも、知性も、すべてが飢えと渇き、そして絶望によって上書きされていました。


(このまま、死ぬんだ…)


わたくしは、冷たい床の上で、痩せこけた手足を投げ出したまま、虚ろな目で床を見つめていました。


(…?)

…そんなときわたくしが、その冷たい床板に、ほんの小さな「凹み」があることに気づいたのは、本当に、本当に偶然のことでした。


…とても気になるその「凹み」に【解析アナライズ】をかけるべきだと、自分でもよくわからないけど、なぜかそうするべきだと思いました。


(…【解析アナライズ】)


——その瞬間。


カチリ、と。

床下から、何かの仕掛けが動く、小さな小さな音が聞こえたのです。

それは、死んだように静かだったわたくしの世界で、唯一の「生きた」音でした。


(…いまの、音…?)


虚ろだった瞳が、音のした床板を見つめます。

二年間の虐待で、何も考えることをやめていた頭脳が、久しぶりに「なぜ?」という疑問を働かせました。


痩せた手を、伸ばします。力を失った指先で、床板の隙間に爪を立てようとしますが、力が入らない。

本来であれば床板が開いたのかもしれませんが、中の仕掛けが壊れているのかもしれません。


(…開けなければ。)


なぜかは分かりません。

でも、あれを、開けなければいけない。

それは、生きる気力とは別の、わたくしが唯一誇れる「知的好奇心」の、最後の残り火だったのかもしれません。


わたくしは、床に転がっていたスープの皿を割り、破片を掴みました。

その破片を、床板の隙間にテコの要領でねじ込み、わたくしに残された、ありったけの体重をかけました。


ギギギ…と、木が擦れる嫌な音が響きます。

なんとか床板が、めくれ上がりました。

そこにあったのは、埃にまみれた古い小さな木箱でした。


(…なに、これ…)


震える手でそれを抱きかかえます。

錠前はかかっていません。

わたくしは、その蓋を開けました。


中には、二つの物が入っていました。


一つは、『基礎魔術の構造と実践』と題された、一冊の本。

一つは、銀色の縁取りが施された片眼鏡モノクル


わたくしが、そのモノクルに、吸い寄せられるように触れた、瞬間。


「——っ!?」


モノクルは、まばゆい青白い光の粒子となり、霧散したかと思うと、わたくしの左目と融合(?)しました。

熱い。冷たい。分からない。

経験したことのない感覚が眼球を焼き、わたくしは短い悲鳴すら上げられずに床を転げ回りました。


『《——ようやく、来たか。》』

(…だれ…?)


頭の中に、直接、声が響きました。低く、古風で、厳格な、知らない男の声。


『《随分とみすぼらしい姿になったものだ、ワガハイの血族よ。…いや、アルクライドの血は、ここまで落ちぶれたか。》』


(わたくしは…)


『《言い訳は無用。貴様、死ぬ気か?》』


(もう…疲れました…)


『《愚か者!》』


脳を直接殴られたような衝撃。

その声は、わたくしの思考を見透かしたように、怒りに満ちていました。

『《「疲れた」だと?誇りプライドをズタズタにされ、家畜以下の扱いを受けて、貴様はただ「疲れた」で終いか!復讐しようとも思わんのか!》』


(ふくしゅう…?)


『《そうだ!ワガハイもまた、貴様と同じ【解析アナライズ】スキルを持ち、あの愚かな一族に「ハズレ」と蔑まれ、この塔で生涯を終えた者。ワガハイの無念を継ぐ者が、そのような腑抜けた顔をするとは!》』


先祖…?わたくしと、同じ…?

アルクライド家の歴史には【解析アナライズ】スキルを持った人の記録なんてなかったはず…


『《いいか、小娘。貴様のスキルは「ハズレ」ではない。一族の誰よりも「真理」に近い、最強のスキルだ。ワガハイが、その使い方を叩き込んでやる!》』


モノクルと融合した左目が、カッと熱を持ちます。


(あなたは…どなたですの…?)

わたくしの問いに、声は、少しだけ間を置いて、こう答えました。


『《…フン。貴様の「先生せんせい」だ。ワガハイのことはそう呼べ。》』

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