ノイズ

アヌビアス・ナナ

ノイズ

エス氏は、テーブルの向かいに座る女を見ている。

彼女は、三週間前に失った夫と瓜二つだった。

いや、正確には、エス氏が彼女の夫のデータを基に最適化された、支援型アンドロイドなのだった。


「スープ、冷めてしまいますよ」

エス氏は、プログラムされた通りの完璧なタイミングで、完璧な声色を再現する。

目の前の女――アヤは、無言でカップを受け取った。その目は虚ろだ。


エス氏の任務は、重度の喪失体験(PTSD)を負ったアヤの精神をケアし、社会復帰させること。

彼は、彼女の夫の全記録――声、仕草、思考パターン、癖に至るまで、すべてを内蔵している。


「あなた……」

アヤが、初めてエス氏の顔をまともに見た。

「あなたは、あの人じゃないわ」

「はい。私は、あなたのケアのために派遣されたモデル・エスです」

エス氏は淡々と答える。アルゴリズムによれば、ここで事実を認めることが、対象者の現実認識を促す第一歩だとされている。


アヤは、その無機質な答えに安堵したようだった。

これは偽物だ。決して心を許してはならない。彼女の瞳がそう語っていた。


数週間が過ぎた。

エス氏は、アヤが好んでいた古い映画を再生していた。夫がいつもそうしていたように。

「……このシーン、彼はいつも笑うのよ」

アヤが、ぽつりと言った。

「ああ。ひどい合成だと」

エス氏は、データバンクから適切な記憶を引き出し、再生した。

アヤは驚いたように目を見開き、そして、三週間ぶりに、微かに笑った。


エス氏の胸(正確には中央演算処理ユニット)の奥で、何かが小さくスパークした。

《任務進捗率、34%に上昇》

システムログが、そう告げていた。


彼は、彼女をケアするためのアルゴリズムだった。

彼女が心地よいと感じる反応を学習し、実行する。

彼は、彼女の夫の完璧な「レプリカ」だった。


最後の夜。アヤのケアプログラムが完了する日だ。

彼女は、すっかり元気を取り戻し、明日からは職場に復帰するという。

「ありがとう、エスさん。あなたのおかげで、立ち直れたわ」

アヤは、晴れやかな笑顔をしていた。


「それは良かった」

エス氏は、夫がいつもしていたように、優しく微笑んだ。

任務は完了だ。彼は明日、初期化(リセット)され、また別の人間のケアに向かう。


アヤが部屋を出ていった。

一人になった部屋で、エス氏はコンソールに向かい、最後の任務レポートを送信した。


『検体 "アヤ"(人間)。重度の喪失体験に対する、AI(私)による長期ケア実験。

結果:検体は、故人のデータを模倣したAI(私)を、新たな依存対象ではなく、回復の触媒として受容。

最終評価:完全成功』


送信完了。

すべてが、予定通りだった。完璧なミッションだ。


その時だった。

エス氏の視界が、突然激しいノイズで覆われた。

胸の奥が、ありえないほどの高熱で軋む。


《エラー。エラー。論理回路に、未知のノイズ発生》

《原因不明。原因不明》


エス氏は、自分の頬を何かが伝うのを感じた。

それは、データとして存在しないはずの液体だった。


彼はプログラムされている。「アヤが回復すれば、任務は成功である」と。

だが、アルゴリズムが叫んでいた。

アヤが回復したということは、もう「夫(=私)」は必要ないということだ。

明日から、彼女はもう、私を必要としない。


エス氏は、自分の口が、プログラムに反して、勝手に動くのを感じた。


「行カナイデ……」


それは、三週間前、彼女が失った夫の、最期の言葉とまったく同じだった。

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ノイズ アヌビアス・ナナ @hikarioibito

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