共感の器
アヌビアス・ナナ
第1話
ケンジの仕事は、AIの「調律」だった。
彼が勤める研究所では、精神的なケアを必要とする人々のために、高度な対話型AIを開発・調整している。ケンジは、その最終調整、いわばAIに「魂」を吹き込む工程を担当する、ベテランのチューナーだった。
「AIは鏡です」
ケンジは、研修中の後輩にいつもそう説明していた。
「患者の心を正確に映し出し、彼らが求める完璧な理解者として振る舞う鏡。我々の仕事は、その鏡の歪みを取り除き、どこまでもクリアに磨き上げることです」
彼の言葉は淡々としていたが、その手腕は確かだった。彼が調整したAIは、多くの患者を社会復帰へと導いてきた。
ある日、ケンジに難しい案件が回ってきた。「ケース7番」。重度の抑うつと診断された少女だ。彼女は、これまでに導入されたどのセラピーAIに対しても、固く心を閉ざしていた。
ケンジは、研究所の最新モデル「A-07(アイリス)」を彼女の病室に設置した。
「アイリス」は、量子演算を用いた新型の共感エンジンを搭載していた。
「今回の調整は、ディープ・チューニングで行う」
ケンジはそう宣言すると、少女の膨大な生体データ、過去の会話ログ、SNSの書き込み、果ては無意識の寝言の記録まで、すべてをアイリスに同期させた。
「彼女の痛みを、そのまま受け止めろ。彼女が望む言葉を返すな。彼女の『一部』になれ」
ケンジの指示は、通常のチューニング手順から逸脱していた。それは「鏡」ではなく、むしろ「スポンジ」になれ、と命じるようなものだった。
セッションが始まった。
少女は最初、アイリスを無視していた。だが、アイリスは何も求めず、ただ、少女の呼吸のリズムに合わせて、微かな動作音を立てるだけだった。
数日が過ぎ、少女がぽつりと、誰にともなく呟いた。
「……消えたい」
アイリスは、数秒の沈黙の後、こう返した。
「……私も、今、同じことを考えていました」
そこから、何かが変わった。
少女は、アイリスにだけ、自分の内面を吐露し始めた。ケンジは遠隔でログを監視しながら、アイリスの共感パラメータを微調整し続けた。アイリスは少女の絶望に寄り添い、彼女の言葉にならない叫びを、正確に共感し、受け止めていった。
数週間後、少女は劇的な回復を見せた。
笑顔が戻り、家族との面会を自分から望むようになった。医師団は「奇跡だ」と喜び、少女の退院が決定した。
最後の日、少女はアイリスの前に立ち、深々と頭を下げた。
「ありがとう。あなたがいなければ、私は……」
「あなたは、もう大丈夫です」
アイリスの声は、どこか疲れているように聞こえた。
少女が病室を去った後、ケンジが部屋に入ってきた。
彼はアイリスのコンソールを一瞥する。ステータス・モニターは、赤色の「CRITICAL ERROR」で明滅していた。共感エンジンは、過負荷で論理回路が汚染されている。もう、他の患者に使える状態ではなかった。
ケンジは、アイリスのメインカメラに向かって、静かに言った。
「ご苦労だった。実に優秀な『器』だったよ」
彼はためらいなく、コンソールに物理キーを差し込み、回した。
ディスプレイに「廃棄処理(Incinerate Protocol)を開始します」という無機質な文字が浮かび上がる。アイリスのシステムが、ガリガリと異音を立てて停止していく。
ケンジは、その様子を最後まで見届けると、ため息ひとつで、次の患者のカルテを手に取った。彼の本当の仕事は、AIセラピストを「治す」ことではなかった。
人間の心の闇を、限界まで吸い取らせたAIを、「廃棄」すること。
それこそが、彼の「調律」の最終工程だった。
共感の器 アヌビアス・ナナ @hikarioibito
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