第3話 秋 上
秋
季節は秋になった。山は赤く、空は薄く濁って、海は山の汚さの出汁みたいな色をしていた。
雅子と由紀は今日もバスの最後尾で下校中だった。
水滴の垢のついた窓ガラスの奥の海は少し荒れていた、先端に白い波を乗っけて動いていた。こういうものを見た時にどんな比喩表現がエモく映えるの考えてみる。以前、インターネットで流れてくる理想的な田舎にこの土地は近いけど、自分にはそこまで美しく見えない、それはきっと実態のない眼鏡の影響だと思った。白波にいい表現が浮かばないのもそれと一緒かもしれない。
次は赤浦だ。夏休みの前、一度だけ降りたことがある赤浦、それ以来一度も訪れてはいないけど、暑くない時期にまた来ようという約束を覚えている。
「ねぇ、またここで降りてもいい?」
由紀がそう切り出した。
「どうしたの?」
横を見る。由紀の発言に、はつらつさはないが芯を感じる。止まったら立ちやすいように目の前のポールを握る。
由紀が降りるためのボタンを押した。
バスの外は冷たかった、離れている時の冷たさを思う。何からかといえば、太陽かもしれないが、もっと概念的なものが秋を寒くしているように思える。
バスから降りた由紀はベンチに腰掛けた。
それに合わせて、とりあえず座ってみた、ベンチからゆっくりと冷たさが伝わる。
バスは相変わらず、ごとごとと発車した。先の暗いトンネルに飲み込まれるバスの背中を視線で追った。排気ガスの匂いは粒となって鼻腔をくすぐる。
バスが去った先には以前アイスを買ったボロい店がある。流石にもうアイスの温度ではない。
由紀はなかなか話を切り出さない。
「どうしたの?」
「いやちょっとスランプっていうか? またやる気が出ない感じ」
「夏休みはそこそこ出来たって言ってなかった?」
「やったよ、一日10時間なんて無理だったけど、あんなの時計じかけのオレンジじゃん」
「やったならいいじゃん、お兄ちゃんは結構、適当だったけど受かってたよ」
「MARCHだっけ? それより下のニッコマでE判定だったんだよ」
「まだまだ時間はあるし、由紀なら受かるでしょ、しっかりできるから」
「うん、自分でもね、それは思う、でも出来ない、不思議で仕方がないよね」
一旦、黙った。会話の生産性があない方向に向かっている気がしたし、具体的なアドバイスはないし、手伝える事が例えあったとしても、それで試験の点が直接上がるとも思えなかった。
「海見に行かない?」
少し嫌な予感がする。胸の奥がチクリと痛い感覚。
「うん」
バッグをベンチに置いて、由紀の背中を追いかける。夏みたいに蝉の声とかがない分、秋の沈黙は無音だ。
「由紀は最近、趣味とか出来てる? 息抜きも大事だよ」
「そういえば、何もしてない気がする。でも自分の趣味ってなだろう」
「読書とかしてみたら? 現代文で使えるし、読書の秋っていうじゃん」
「でも、正直文学ってよくわかんないだよね」
「別に純文学だって理解しなくていいじゃないかな? ただ読んで、終わり。文豪とか関係なくマッチする作品があるのはエンタメ小説と変わんないと思うけどね」
「じゃあ、まっこちゃんの思う、私にマッチする小説ってなんかある?」
少し由紀が持ち直したように見える。見えるだけという恐ろしい思考が駆け抜けた。
冷たい風が向かってきた。山が冷笑するように、枯れ葉がからから鳴った。
「うーん、読みやすくて好きなのは、蹴りたい背中ってやつ、聞いたことない?」
口は思考を通さずに開くようだった。
「聞いた事はあるかも」
「うん、あとニッチなので行けばベニスに死すってやつ、観察眼が光るし、単純に外国っていうのがいい、ほら、最近教科書で由紀が見てた魔笛の人の別作品」
連発するセリフ、これはセリフだ、そう意識することがその証拠だ。数ミリ現実と自分が剥離している感覚がする。
そうこうするうちに、階段に行き着いた。階段を登ると右手側には、海が見えてきた。だんだんと広がる海はいちいち白波を立ている、小さな潮騒ぎは絶えることがない。
海を見ながら、コンクリートの道を進む。コンクリートの道に乗ったら海まで止まれない。後ろから、バレないようにそっと由紀の表情を伺ってみたいと思う。一体、何が見えているのだろうか。
不意に由紀が振り返った。知性を感じる鼻が真っ先に視界に入る。由紀は三白眼だから目に意思を感じる。スローモーションに感じほど印象的だった。
「何?」
「いるか確認しただけ、迷子になってないかなって」
階段を降りて、海の向こうを見ようにも、遠くは白く掠れてよく見えない。
「本当に私が受かるって思ってくれてる?」
「うん、思う、真面目だし、由紀はすごく賢いもん」
「まこっちゃんには私が賢く見えてんの?」
言外に見る目がないなと言いたげに感じれた。
「見えるよ、お兄ちゃんに空気感が似てる、あんまり多くを喋んない感じが似てる」
「それはただ話すことがないだけだよ、それよりなんか特別何かあるわけじゃないのにバス一本遅らせちゃってごめんね」
「別にいいけど」
視線は砂浜を駆け抜けた、当然、夏に訪れた時の足跡は消えてなくなていた、でも、もしかしたら、前に見たのと同じような大きな貝殻だとか、なんなら海鳥の死体でもいいから落ちてないかと思った。
由紀はコンクリートを背に、砂浜に座った。それに合わせて隣に座る。風に乗っかって、薄紅色の柔軟剤の匂いがする。突然謝られたからか、碌に目を合わせられない。
視線を上に逃すと、自分が地の底に沈んでいる生き物だと思い知らされる。
「少し寒いね、ごめんね、後一時どうする?」
左に見える丘の側面は潮でえぐれていた。
「じゃあさ、徒歩で次のバス停まででも、どっか歩いてみればいいんじゃない?」
遠くで雲が割れて、光が差してきた、海面が赤を混ぜた黄金色に染まる。
「うん、そうしよう」
元来た道を戻る、さっきはあまり意識が回っていなかったが、遠くから見るとバス停の辺りの木は赤く染まっているのが印象的だ。由紀と足並みを合わせて歩こうとした。
トンネルには歩道が伸びていて、徒歩でも安全に行き来ができる。
「そういえば、まこっちゃんのお兄さんって、どこに就職したの?」
「三菱商事だったと思うよ」
「すごい、財閥系じゃん」
「由紀はそういう会社に就職したいの?」
「それがやる気が出ない理由でさ、なんか就職したくないっていうか、投資家とかなりたい」
「由紀なら成れるじゃない?」
「投資は結構資本金がいるみたいだからね」
「あれはどう? 最近ファイアーっていうのよく聞くじゃん、稼げる会社に就職して、投資してすぐ辞めちゃうってやつ」
「それも厳しいよ、キーエンスとかの話でしょ、生活の質というか、そういうのはあんまりだなって思うから投資家になりたいの」
「投資家もレートに張り付かない? 私のおじいちゃんとか趣味がトレードってのあるけど、ずっとそればっか、オンラインギャンブル感覚なんだろうけど」
トンネルを抜けると、海辺の町に出る、舟屋が並んでいて、その奥に瓦屋根の一般的な建物が並ぶ。緩やかな山の斜面にも瓦屋根が見える、二人には見慣れた光景で、エモいと思うものではなかった。
斜め右後ろ、由紀の歩く方向からの光を感じながら、歩みを進める。
「もっと、お金持ちになりたいの、悩まないくらいのつき抜けたお金持ち」
「じゃあ学生起業家だ」
「正直、それは考えたことがあるけど、簡単に大金持ちににはなれないなって思ったよ、実直に学力をあげて、就職がいいんだろうけどね」
「一回くらい挑戦してみなよ、由紀の見てる視点って面白そうだから、なんかが当たるかもよ、ってか多分東京に大学に行ったら感化されてなんかしたくなっちゃうと思う、お兄ちゃんは大学生の時にバンドマン目指してたし」
「本当、まこっちゃんってお兄さんのこと好きだよね」
「そうかな?」
「うん、結構ブラコンに見える」
遠くに猫が歩いていた。
兄のことが好きというのは少し違和感を覚える。嫌いではないけど、好きとも言いきれない、家族なのにちょっと緊張する感じがある。
「でも、由紀は私と違ってほんとに、由紀自身が思ってる以上に賢いと思うから、どうにかなるんじゃないかな?」
気づけば足並みはずれて、四足歩行の動物の足音になっていた。
「はいはい、オベンキョー頑張りますよ」
由紀は気がついてないだと思う、由紀とかが感じる生きづらさは多分、普通の人、私とかが感じる閉塞感とは少し違うんだと思う。そう思ってもはっきり意識させられる言葉が思いつかない自分歯痒く思う。気道に痒みを覚える。
意識を別のベクトルにやる、足音のテンポは表と裏。すぐ横の選挙ポスターの若造した人は実は歯並びが悪い。遠くに見える山の頂上高い木はぶっ禿げだ。
この昔ながらの町をさらに進んだ先に二人の家がある。歩くには遠い距離だった。
駅前のイオンがあって、学校のあるような地域が表なら、ここら辺の町はいわゆる裏側だった。一方は緩やかな山が壁となって、もう一方は海、その隙間の町だった。
受験、就活。ここ町の中にずっと生きていくなんてことはありえない。実感は持てないけれど、どこまでも時間が進んで行くという発想も持てなかった。由紀はお兄ちゃんみたいに、私が実感を持てずに考えることを、人生を懸けて知る事をさえも、すでに悟ってるのかも知れないと、幾ら近づこうにも、ガラスがあるように感じる。
一駅分進んだ所でバスを待つこととした。
由紀は英単語帳を眺めていた。隣でSNSの徘徊は態度として相応しく思えないから、最近、持ち歩いている川端小説を開いた。
単語とか全て理解できるわけではないけれど、表現がさっぱりしていても伝わる、これが上手い文章かと、思い知らされる。
何十分か待った後にごとごととなるバスは私たちを迎えに来た。
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