第2話 夏 下
「海行かない? 海」
「少しだけなら、でもどこからいくの?」
「ちょっと進んだ方に階段があるでしょ」
「その奥って降りれるの?」
「行けばわかる、冒険、冒険」
今回は雅子もバックを置いていくようだった。
数十メートルトンネルとは反対方向に進んだところに、コンクリートの壁に階段が埋まっている。
ここまで移動するだけで少し、汗をかいた。暑い分距離が長かった気がした。
階段の最上段に到着する前に、右側に海が見え始めた。思わず息を呑む。
急に世界が無限に拡張されたような気がした。
最上段に到着すると、はっきりと潮の香りがした。澄み渡った潮の香りだった、生臭さのない香りは最早食欲をそそる程だ。
雅子は由紀の隣にそっと立った。
「すごいね」
由紀には雅子のその一言が全ての縮図に思えた。
視界を左右に向けると、バス停のちょうど真上あたりから、海へ降りる道階段が近そうだった。
コンクリートの上は完全に日光を浴びる道だが、潮風がある分涼しく感じられた。
由紀は少し走って、雅子から10メートルくらいの距離を取って、振り返った。雅子が小走りで距離を詰めてくる。
潮風と小走りになれば前髪が揺れてしまう、それを片手で抑えて走ったりする人も居るが雅子は抑えなかった。その様が凄く絵になると思う。文化祭の写真部の出し物くらいだったら勝てそうだ。
「なんかエモいね」
「エモいって最近聞くけどそれ何? 流行語とかよくわからないんだよね」
「エモいはエモいだよ、うわー、エモ、みたいな感情だよ」
「そう、エモいはあれだけど、なんかいい感じだよね」
由紀は芸術的ワンシーンをカメラに収められなかったことを悔やんだ。エモいとは何か、言われてみれば、生まれた時から使っている言葉でもないから、幼い頃から使っている感情表現の単語達と比べたら、新参者の分よくわからない単語だなと思った。
砂浜へ通ずる階段は一段踏むごとに小さくじゃりじゃりと鳴った。一段降りるごとに海が狭くなっていった。
雅子が降り終わるの待って、由紀は海へと向かった。遠くの入道雲の方から果てしなく潮風が吹いてくる。
足を二度ほど砂の中に埋め掛けて、靴の中まで少しじゃりじゃりし始めていた。
雅子は由紀のルートを辿っていた。二人の足跡が混じって、一匹の靴を履いた大型動物の跡みたいだ。
由紀は海の縁にまで寄ってみて、清らかな海の中に小さな魚の一匹でもいないかな、と思ったが、それっぽい影すら見えなかった。
「まこっちゃん、波よけゲームしない?」
「え?」
「宣言して、立って、動いたら負け、濡れても負け」
「数回ならいいよ」
「じゃあ私ここね」
「そこの砂めっちゃ濡れてるじゃん」
「だからゲームなの。てか、それは少し守りすぎじゃない?」
「濡れなくて勝ちなら、攻める価値がないじゃん」
「ギリギリを攻めた方が勝ちなのは当たり前でしょ、ひろゆきなの?」
由紀は雅子の方を振り返ったその時、雅子の視線が下に向いた。次の瞬間、弱い衝撃、そして冷たいのが足に触れた。
しっかりと波に直撃してしまった。
由紀は不思議と心の底から、沸々と笑いが湧いてきた。雅子も由紀の笑う寸前の顔とシュチュエーションで釣られて笑ってしまった。
幸い海水は大して靴に中までは侵入しなかった。波打ち際から離れて、二人は近かず離れず海岸を散策した。靴細かい砂を付けて、きなこ揚げパンみたいになった。
「まこっちゃん、来て」
「何?」
「でかい貝殻」
「どうしてこんな大きいのが海底にないんだろうね」
「さぁ? 歩いてきたんじゃない?」
「何のために?」
「実は貝殻はスピーカーで、潮の立体音響を演出してるんだよ」
「ディズニーの隠しスピーカーみたいなシステムなんだ」
「えっとさ、私の耳は貝の殻、海の響ひびきをなつかしむ、みたいな詩がなかった?」
「何それ」
「現代国語の教科書か何かにさ、最後の方の現代詩のパートに載っててなんか好きなんだよね」
「うん、でもなんかいいね。うん」
由紀は貝殻を電話みたいに耳にあてがった。
「どう? 海から連絡あった?」
「直接、語り掛けられてるだけみたい」
今度は雅子が波打ち際に向かった。
由紀は雅子の背中をぼんやりと眺めた。海の方に太陽が昇っているから、波打ち際に立つと若干の逆光なって、美しさとか、複雑さが増して、一瞬、一瞬が完璧な芸術だった。
はっきり言葉で表そうとしても、具体的な形を掴めないけど、そんなにはっきりさせる必要はないのかもしれない。思う、その瞬間、その感情の移動する慣性は固定した感情よりも重たいと考えた。
由紀はスマホのカメラでこれをいつかのために留めれないかと思った。
思い切って、ずっと続く海岸線を眺める雅子の顔のあたりにズームして一枚。カシャっと、スマホは機械仕掛けの音を鳴らした。結構、忠実に瞬間を収められた。次は引きで、全体を手際よく、バランスよく収めた。
画面の中の雅子と目があった。こっちに向かってくるようだった。連写、連写。
「由紀ー? なーに撮ってんの?」
「芸術です、芸術家になろうと思ってね」
「見せてみ?」
「発表前の作品はちょっと」
「ネットとかには勝手にアップしないどいてよ」
「どんだけネットリテラシーが低いと思ってるの?」
雅子は笑ってから、ガンマンみたいにスマホを取り出してシャッター一発。
「ぐは」
由紀の撃たれた人の演技に対して、雅子はさらに撃ち込んだ。終いには由紀は地面に仰向けに伏して、青空を見上げた。
「どう? 取れた?」
「一応」
「見せて」
「無理ー」
由紀はやりとりが終わりかけた瞬間に意識が青空へと向かって、ゾッとするような感情に浸った。今、重力が反転したら、どこまでも、どこまでも落ちていくんだろうなと思った。写真は情景を永遠にするのに、カメラに収める瞬間そのものは永遠にはできないと悟った。
スマホの時計を確認すると、後十分ほどでバスは来るはずだ。バスというのは大概時間がズレるものだから、余裕を持つべきだ。
じゃりじゃりする階段を登って、最後に広い海を視界に、納めきれないけど、できるだけ多くを抱えてこんで、アスファルトの道に戻った。
靴の中で砂が少し痛い。ベンチに向かう道は、海に向かう時よりももっと長く感じられた。
ベンチでバスを待つ。一時間で流れた塩で服が肌に張り付く。落ち着いた時、疲れが現れた、ポッケの中のスマホの重みを意識する。
「まこっちゃん、また来ようね、次は暑くない時」
「11月とか?」
「そうそう、それくらいの時」
蝉の声が透明に空間を染めている。
遠くにバスが見えてきた。
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