第34話 9-2:屈辱の帰還要請

黒曜の門の、砦の広場。

そこは、王都の白い大理石とは対極の、力強さに満ちた場所だった。

黒曜石の石畳は、魔獣の爪痕や武器の修練の跡で無数の傷がついている。

アステル王国側のように瘴気で淀んではいない。空気は凍てつくように冷たいが、不思議なほど清浄だった。

だが、そこにはわたくしの「聖域」にあったような花の香りはなく、ただ鉄と鍛錬の汗と、そしてこの砦を守る竜人族の兵士たちの強靭な「誇り」の匂いだけが満ちていた。

王太子は、護衛も王家の馬車も、そしてレティシアさえも門の外に残し、文字通りたった一人でその広場の中央に立たされていた。

ゴゴゴ……と背後の門が閉まる絶望的な音が響く。

彼は、完全に敵地のまっただ中に閉じ込められたのだ。

(ひっ……)

周囲を、ギデオン配下の屈強な竜人族の兵士たちが槍を構え、遠巻きに囲んでいる。

彼らはアステル王国の騎士たちよりも一回りも二回りも大きく、その爬虫類のような硬い鱗は並大抵の剣など通さないだろう。

彼らの縦に割れた瞳孔が、隠しようもない侮蔑の色を浮かべ、王太子を「獲物」として品定めしていた。

「……あれが、人間の王子か」

「なんと、ひ弱そうな」

「瘴気に当てられて、もう半分死んでいるではないか」

「エリアーナ様を、こんな奴らが追放したのか……」

兵士たちのくぐもった嘲笑する声が、四方八方から聞こえてくる。

(……これが、敵国の、最前線)

王太子は、王宮のテラスから民衆を怒鳴りつけていた時の威厳など一片も残っていなかった。

腐食した甲冑を身につけた姿は、王族というより哀れな敗残兵だ。

彼は、その場で震える足を叱咤し、立っているのがやっとだった。

「……待たせたな」

広場を見下ろす城壁の上。

その凛とした声に、王太子ははっと顔を上げた。

そこに二つの人影があった。

一人は、この砦の主、軍務卿ギデオン。その巨体がまるでわたくしを守る壁のように半歩下がって控えている。

そして、もう一人は。

「……エリアーナ」

王太子の唇から掠れた声が漏れた。

彼女は、そこに立っていた。

わたくしが知る、あの「不快」な泥だらけの作業着ではない。

魔王領のものだという濃い藍色の、清潔で機能的な、しかし上質な生地で仕立てられた仕事着。

瘴気の森で二月以上も過ごしたというのに、その肌は王宮にいた頃よりもよほど健康的で血色が良い。

痩せ衰えているどころか、冷たい風に晒された頬はリンゴのように赤らみ、わたくしを射抜くように見つめるその瞳はまっすぐで力強い光を宿していた。

(……なぜだ。なぜ、死地で苦しんでいるはずの女が……)

(……むしろ、美しくなった……?)

王太子は、その変貌に愕然とした。

追放された女がみすぼらしく、後悔に打ちひしがれている姿を、彼は心のどこかで期待していた。

だが、目の前にいるのは、彼が知るどの貴族の令嬢よりも自信に満ち溢れ、輝いている「エリアーナ」だった。

そして、何よりも。

彼女の腕の中には、あの商人ギルドの報告にあった聖獣「カーバンクル」が、まるで王冠のようにちょこんと鎮座していた。

クリーム色のモフモフとした毛並み。額には清浄な光を放つ琥珀色の宝石。

その聖獣(コハク)が、わたくし(エリアーナ)の頬に、親しげに「キュイ」と鳴きながらすり寄っている。

(……聖獣に、愛されている……!?)

王太子は、レティシアが高価な宝石でどれだけ着飾っても決して手に入れることのできなかった、「本物」の輝きを今、目の当たりにしていた。

「……王太子殿下。ごきげんよう」

わたくしの声は、冷たく静かだった。

城壁の上から風に乗って、はっきりと広場に響き渡る。

かつて彼を「殿下」と呼び、園芸師として仕えていた時の、あの従順な響きはどこにもない。

それは、対等な、あるいはそれ以上の立場から発せられる冷徹な「賓客」の声だった。

「……このような場所でお目にかかるとは。アステル王国は、よほどお困りのご様子ですわね」

「……っ!」

王太子は、その皮肉とも憐れみとも取れる言葉に顔を真っ赤にした。

プライドが、彼の恐怖と屈辱を一瞬だけ上回る。

「エリアーナ! 貴様、その態度は何だ!」

彼は城壁の上に向かって必死に「王太子」としての威厳をかき集めて叫んだ。

「……わたくしが誰だか忘れたか! アステル王国の王太子が直々に、お前のような『毒草師』を迎えに来てやったのだぞ!」

(ああ、やはり)

わたくしは心の中で深くため息をついた。

この人は、まだ何も分かっていない。

国が滅びかけているというのに、まだわたくしを「毒草師」と呼ぶ。

まだわたくしが、彼らの「下」の存在であると信じて疑っていない。

「……黙れ、人間」

わたくしの隣に立つギデオンが、地を這うような低い声で王太子を威圧した。

その殺気だけで、王太子は「ひっ」と息をのむ。

「……エリアーナ様は、我が王の『賓客』であると先ほども言ったはずだ。その口の利き方、万死に値するぞ」

「ぐ……!」

「ギデオン様、おやめください」

わたくしはギデオン様の殺気を静かに手で制した。

わたくしは、魔王城の中庭で彼の部下たちのための薬草を育て始めてから、この竜人族の軍務卿がわたくしに不器用な敬意を払い始めていることを知っていた。

彼は魔王アビスに「エリアーナ様を守れ」と厳命されているだけでなく、彼自身の意思でわたくしを「守るべき存在」として認識し始めているのだ。

「……チッ。エリアーナ様がそうおっしゃるなら」

ギデオン様は不満そうに、しかし素直にその殺気を収めた。

わたくしは、広場で一人立ち尽くす王太子を見下ろした。

(……なんと、小さな人)

かつてわたくしが仕え、絶対的な権力者だと思っていた男。

今こうして魔王領の強大な城壁の上から見下ろせば、彼はなんとみすぼらしく、哀れな存在だろうか。

「……ご用件は、お伺いしております、殿下」

わたくしは冷たく言い放った。

「国が瘴気に沈みかけている。わたくしに戻ってこい、と。……そうでしょう?」

「そ、そうだ! その通りだ!」

王太子は、わたくしが話の分かる女だと勘違いしたのだろう。

彼は必死の形相でわたくしに訴えかけた。

「国を救うためだ! お前はアステル王国の伯爵令嬢なのだろう! お前の力が必要なのだ! 聖女として、国に戻ることを命じる!」

「……お断りいたします」

わたくしは、一瞬のためらいもなく即答した。

「……な……」

王太子は時間が止まったかのように口をパクパクさせた。

「な……何を言っている……? 聞こえなかったのか? わたくしは、お前を許してやると……!」

「いいえ。聞こえました」

わたくしははっきりと告げた。

「わたくしを『毒草師』と呼び、この瘴気の森に追放したのは、あなた方ですわ、王太子殿下」

「そ、それは……レティシアに騙されて……!」

「わたくしはあの時、申し上げたはずです。『わたくしの管理する花壇に、毒など入るはずがない』と」

「……っ」

「わたくしの、専門家としての言葉を一切聞き入れず。わたくしの矜持を、『不快』という一言で踏みにじり、この死地に捨てたのは、あなたご自身です」

わたくしの言葉が一つ一つ、冷たい刃となって王太子に突き刺さる。

「……わたくしは、ここで死にませんでした」

わたくしは腕の中の温かいコハクをぎゅっと抱きしめた。

「わたくしは、ここで、わたくしの力と知識を本当に必要としてくださる方々に、出会いました。……わたくしの居場所は、もはやアステル王国にはございません」

「き、貴様……っ!」

王太子は、わたくしが本気で彼を拒絶していることにようやく気づき、顔を恐怖と怒りで歪ませた。

「国を、見捨てるというのか!」

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