第35話 9-3:『私の妃』
「国を、見捨てるというのか!」
王太子の絶望に満ちた悲鳴が、黒曜石の広場に響き渡った。
彼は、わたくしが「お断りする」という選択肢を万に一つも考えていなかったのだ。
彼にとってわたくしは、どれほど無礼を働こうとも、国が、王家が命じれば喜んで戻ってくる「都合の良い道具」でしかなかった。
(……この期に及んで、まだわたくしを「自分たちのもの」だと?)
わたくしは、そのあまりの傲慢さと愚かさに、もはや怒りさえ通り越し、深い憐れみを感じていた。
彼は、自分が何を失ったのか、今この瞬間ですら正確に理解しようとしていない。
「見捨てる?」
わたくしは城壁の上から彼を冷たく見下ろした。
砦に吹き付ける凍てつく風が、わたくしの髪を揺らす。
「先に、わたくしを『捨てた』のは、あなた方ではございませんか」
「そ、それは過ちだったと……! レティシアの嘘に、わたくしは……!」
「過ち?」
わたくしは思わず乾いた笑いを漏らした。
「あなた方は、わたくしが瘴気の森で魔獣に食い殺されることを望んだ。わたくしを『毒草師』と呼び、この国から排除した。……あなた方が『過ち』と呼ぶそれは、わたくしにとっては殺意そのものでしたのよ」
「う……」
王太子が言葉に詰まる。
「わたくしは、二度とあなた方の元へは戻りません」
「……っ、エリアーナ! 待て! これは王命だぞ!」
王太子がついに最後の、そして最も卑劣なカードを切った。
わたくしが絶対に拒否できないと、彼が信じ込んでいる脅し文句。
「そうだ、お前の家族! 伯爵家がどうなってもいいのか!」
わたくしは、その言葉を予測していた。
商人ギルドから魔王領に薬草の噂が流れたと聞いたあの日から、わたくしはアビス様とヴァイス様に相談していた。
『わたくしの家族が、心配です』と。
アビス様は即座に動いてくださった。
侍女長のセレス様が、彼女の配下である諜報部隊をすでに瘴気に沈みつつあるアステル王国へと秘密裏に潜入させていたのだ。
『エリアーナ様、ご安心を』
数日前にセレス様がわたくしにくれた報告を、わたくしは強く思い出す。
『ご両親はすでに王都の屋敷にはおられませんでした。王太子殿下がエリアーナ様の追放直後、ご実家である伯爵家を「毒草師を輩出した罪」で取り潰し、財産を没収。ご両親は王都の地下牢に幽閉されております』
(……やはり)
わたくしは、その報告に怒りと、そしてあの愚かな王太子のやりそうなことだという妙な納得を覚えた。
『……王のご命令です』
セレス様は、その冷たい瞳にわずかな同情の色を浮かべて続けた。
『「エリアーナ殿がアステル王国との交渉の場で何の憂いもなく選択できるように。彼女の『弱み』をすべて取り除け」と』
『……すでに我が配下が地下牢のご両親と接触しております。いつでも救出できる手筈にございます』
わたくしは今、王太子の卑劣な脅し文句を聞きながら、心の中で魔王アビスへの深い感謝と、そして王太子への底なしの軽蔑を感じていた。
(この人は、わたくしの家族をすでに牢に閉じ込めておきながら、今、その命を「人質」としてわたくしを脅迫している)
なんという、浅ましさ。
わたくしの表情が、一瞬で凍りついたのを彼は見逃さなかった。
(……やはり、そこか)
王太子は、自分が再び「優位」に立ったと、この絶望的な状況下で愚かにも確信した。
彼の顔に、瘴気で土気色になった頬に歪な笑みが浮かぶ。
「そうだ、そうだとも! お前はまだアステル王国の臣民!」
彼はわたくしを指差した。
「お前さえ戻れば、お前の家族の罪も許してやろう。戻って、レティシアの代わりにわたくしの側で、国のために尽くすのだ。……聖女として、な」
(……この人は、本当に)
彼はわたくしを「聖女」と呼びながら、その実レティシアの代わりとなる新しい「道具」としてしか見ていない。
家族を人質に取りわたくしを脅迫し、再びあの王宮の鳥かごに連れ戻そうとしている。
わたくしは、怒りに震える唇を強く噛みしめた。
わたくしが、その脅迫にどう応じようかと言葉を選んでいた、まさにその時。
「……それ以上、その薄汚い口を開くな。虫酸が走る」
わたくしの隣でも背後でもない。
わたくしが立っていた城壁の、さらに上。
砦の最も高い望楼から、地を這うような絶対零度の声が響き渡った。
その声には、わたくしが執務室で聞いたあの疲労の色は一欠片もなかった。
それは、自らの領地と自らの「所有物」を脅かされた、絶対的な捕食者の静かな怒りだった。
「……!?」
王太子がその声に弾かれたように顔を上げる。
わたくしもギデオン様も驚いて振り返った。
いつからそこにいたのか。
漆黒の外套を砦に吹き付ける瘴気の風にはためかせ、魔王アビスがその紅い瞳で、広場にいるちっぽけな王太子を見下ろしていた。
「……アビス、様」
わたくしの呟きに彼は気づかない。
彼の視線は、ただ一点、わたくしに「国賊」だの「わたくしの側で尽くせ」だのと宣まった王太子だけに固定されていた。
「ま……魔王……!?」
王太子は、本物の「死」の気配を初めて間近に感じ、腰を抜かしそうになって後ずさった。
ギデオン様の「武」の圧力とは比べ物にならない。
それは、この瘴気の森すべてを支配する圧倒的な「王」の威圧感。
広場にいる竜人族の兵士たちが魔王の登場に一斉に「グォオオ」と喉を鳴らし、その黒曜石の槍を王太子に向けた。
王太子は、完全に包囲された「獲物」だった。
「……今の言葉、聞き捨てならんな」
アビス様の声が城壁から落ちてくる。
その声は静かだったが、広場の隅々まで響き渡った。
「エリアーナは、わたくしの『賓客』だ。その彼女の家族を人質に取ると?」
「ち、違う! これは我が国の国内問題だ! お前には関係ない!」
王太子が恐怖を隠すために必死に虚勢を張る。
「関係ない?」
アビス様は、その言葉にわたくしが森で見たあの微かではない、はっきりとした「冷笑」を浮かべた。
「……愚かな。まだ、理解できんのか」
次の瞬間、アビス様の姿が望楼から消えた。
「……!」
王太子がその気配の消失に恐怖で目を見開く。
風がわたくしの髪を揺らした。
気づいた時には、彼はわたくしの隣に立っていた。
「影」を使った彼の転移魔法。
わたくしは彼の突然の出現に驚いて一歩後ずさる。
「アビス、様……。なぜ、ここに……」
わたくしは、彼が王都からの使節団との交渉の場に自ら出てくるとは思っていなかった。
彼はわたくしの驚きには答えず、わたくしの肩をそっと、しかし力強く引き寄せた。
「……!?」
わたくしの体が、彼の冷たい、しかしわたくにとってはあの夜の執務室以来、不思議なほど安心する体温に包まれる。
「きゃっ……!」
わたくしがその強引な仕草に小さく悲鳴を上げると、わたくしの腕の中のコハクがアビス様の腕に「キュ!」と抗議の声を上げた。
(わたくしのご主人様に何をするんだ!)
「……すまん、コハク。だが、今は黙っていろ」
アビス様はなんと、わたくしを抱きしめたままコハクの頭をぎこちない手つきでそっと撫でた。
コハクは意外にもその手つきを満更でもない様子で受け入れている。
(……あなたまで、アビス様の味方ですの……?)
わたくしは、二人の「男」に挟まれ顔が熱くなるのを感じた。
アビス様は、わたくしを片腕で抱きしめ、その庇護を広場にいる愚かな王太子に、そして砦にいる全ての魔族兵士たちに見せつけるように宣告した。
その声は、この砦全体を震わせる絶対的な「王」の声だった。
「よく聞け、アステル王国の愚かなる次期国王よ」
「エリアーナは、もはや『アステル王国の聖女』などではない」
彼の、わたくしを抱く腕に力がこもる。
「彼女は、『わたくしの妃』であり、『この魔王領の聖女』だ」
「……き……」
「……妃……?」
王太子が、広場の泥濘の上で呆然と、その言葉を繰り返した。
わたくしも耳を疑った。
(……き、き、きさき!?)
今、この方、何と……?
わたくしの頭が混乱で真っ白になる。
わたくしが驚きと混乱でアビス様の顔を見上げると、彼はわたくしにだけ聞こえる声で、その美しい顔に初めて見る楽しそうな表情を浮かべて囁いた。
「……すまん。こうでも言わねば、あの愚か者は、お前を諦めん」
その紅い瞳が、悪戯っぽくわたくしを覗き込む。
その瞳には、あの「不眠症」の苦悩の色はもうどこにもなかった。
(……この方、絶対に、楽しんでいらっしゃる……!)
わたくしは、自分の顔がカモミールの花のように真っ赤に染まっていくのを感じた。
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