第33話 第9章:愚かなる帰還要請と「護衛」 9-1:黒曜の門

アステル王国と魔王領を隔てる、国境。

そこには、アステル王国のどの砦とも比較にならない、巨大な「壁」が存在していた。

「黒曜の門」。

瘴気の森の、黒くねじくれた木々をそのまま切り出したかのような、威圧的な黒曜石の城壁。それは、アステル王国側から流れ込もうとする瘴気を、物理的にも魔術的にも遮断する、魔王領の最前線だった。

その日、黒曜の門のアステル王国側は、地獄と化していた。

王都の「大結界」が崩壊してから数日。紫色の瘴気の霧は、もはや王都だけでなく、アステル王国全土を覆い尽くさんとしていた。

門の前に到着した王国騎士団の一行は、見るも無残だった。

彼らが誇りとしていた白銀の甲冑は、王都からここへ至るまでの道中で浴びた瘴気によって、錆びた鉄くずのように黒ずみ、あちこちが腐食して崩れている。

兵士たちの顔は土気色で、誰もが絶えず乾いた咳をしていた。

「……開門を、要求する!けほっ……! 我らは、アステル王国国王陛下の、正式な使節団である!」

騎士の一人が、瘴気で焼けた喉を必死に震わせ、叫んだ。

だが、黒曜石の城壁は、沈黙したまま彼らを冷たく見下ろしている。

まるで、死者がいくら叫ぼうとも冥府の門は開かないとでも言うように。

「……っ」

使節団の中心、かろうじて王家の紋章を保っている馬車の中で、王太子は屈辱に顔を歪めていた。

あの「最悪の生存確認」の後、国王と宰相は文字通り床に頭を擦り付けて商人ギルドに仲介を頼み込んだ。

『エリアーナ殿を、連れ戻さねばならぬ』

『魔王領が、どのような条件を出してこようとも呑む』

その結果が、これだ。

「交渉役」として、エリアーナを直接追放した張本人である、彼とレティシアが指名された。

『お前たち二人が、直接行って彼女に謝罪し、連れ戻してこい。これが、お前たちにできる最後の償いだ』

国王の、その冷え切った瞳を王太子は忘れることができなかった。

(……エリアーナが、聖女)

(あの、土塗れの、わたくしに意見する不快な女が……!)

(そして、わたくしは、この国の最後の希望を自らの手で敵国にくれてやった……)

この数日間、王太子は眠ることもできず、その現実だけを反芻していた。

王都からこの国境に来るまでの道は、彼がこれまで知っていたアステル王国ではなかった。

かつての豊かな穀倉地帯は、黒く枯れた小麦の穂がまるで墓標のように立ち並び、痩せ衰えた家畜が道端に打ち捨てられている。

人々は、王家の馬車を見てももはやひれ伏すどころか、石を投げつける気力さえなく、ただ瘴気に咳き込みながら亡霊のような目で一行が通り過ぎるのを見ているだけだった。

これが、わたくしが、わたくしたちが、やったことだ。

そして今、彼は瘴気に沈みゆく自国を背に、敵国の門の前にいる。

これ以上の屈辱があるだろうか。

「……殿下」

馬車の隅で、囚人のように座っていたレティシアが、か細い声で彼に呼びかけた。

彼女はもはや「聖女」のドレスを着ることは許されず、貴族の娘が着るにはあまりに質素な灰色のワンピースをまとっていた。

あの輝くようだった金髪は艶を失い、血の気の引いた顔でただガタガタと震えている。

彼女もまた、この「交渉」に罪人として同行させられていたのだ。

「……わ、わたくしたち、本当に、あの女に、謝るのですか……?」

「黙れ!」

王太子は、獣のように低い声で彼女を睨みつけた。

その瞳には、かつての盲信的な愛など一欠片も残っていない。

あるのは、自分の人生を破滅させた元凶に対する、底なしの憎悪だけだった。

「……お前の、お前のせいだ! お前が、わたくしを騙したから……!」

「ひっ……! ち、違います! わたくしは、殿下のために……!」

「黙れと言っている!」

王太子は馬車の壁を強く殴りつけた。

「もはや、お前に価値はない! わたくしがエリアーナを連れ戻しさえすれば、お前など……!」

(そうだ、わたくしは騙されただけだ。わたくしが愚かだったのではない。この女が稀代の悪女だったのだ)

王太子は、責任のすべてをレティシアになすりつけ、自らの愚かさから目をそらすことでかろうじて正気を保っていた。

(エリアーナを連れ戻す。そして、この女を処刑台に送る。それしか、わたくしが王として生き残る道はない)

その時、黒曜の門の巨大な城壁の上が、にわかに騒がしくなった。

「……来たぞ」

アステル王国の騎士たちが、緊張に武器を握りしめる。

城壁の上に、屈強な魔族の兵士たちがずらりと並んだ。

彼らの甲冑は王国の騎士たちのように錆びてはいない。黒く機能的に磨き上げられ、その槍先は青白い魔力の光を帯びている。

彼らは、瘴気に汚染されたアステル王国の一行を、まるでゴミでも見るかのように冷たい目で見下ろしていた。

その中心に立つのは、一際巨大な、爬虫類の鱗に覆われた竜人族の男。

魔王軍・軍務卿、ギデオン。

「……チッ。アステル王国の、王太子殿下ご一行か」

ギデオンは、その鋭い瞳で王太子たちの馬車を睨みつけ、あからさまな侮蔑を込めて吐き捨てた。

その声は拡声の魔術でも使っているのか、広場全体に雷鳴のように響き渡った。

「……随分と、みすぼらしいお姿になられたものだ。聖女様の『結界』は、もう、お前たちのその薄っぺらいプライドさえ守ってはくれんのか?」

「なっ……! 貴様、無礼であろう!」

王太子が馬車の窓から顔を出し、怒鳴った。

「はっ。無礼だと? どの口が言うか」

ギデオンは、その背に負った巨大な戦斧の柄を、黒曜石の床に「ドン!」と突き立て、冷たく笑った。

「我が王の『賓客』に、『毒草師』の汚名を着せ、死地に追いやったお前たちの方が、よほど無礼であろうが」

「……ぐっ!」

王太子は言葉に詰まった。

魔王領は、すべてを知っているのだ。

「……王は、お前たちのような『愚か者』と直接お会いになる必要はない、と」

ギデオンが冷酷に宣告する。

(……アビス様は、来ないのか!)

王太子の顔に焦りの色が浮かぶ。

「だが、『エリアーナ様』が、お前たちと話をすると、そうおっしゃられた」

(エリアーナが……!)

王太子の顔に、屈辱と、そして浅ましい安堵が浮かんだ。

(そうだ、あの女は昔からお人好しだ。わたくしが王太子として、国の危機を、そして家族の安否を盾に訴えれば、必ず……!)

彼は、自分がこの期に及んでも、まだわたくしを「道具」としてしか見ていないことに気づいてすらいなかった。

「……門を開ける」

ギデオンが、不承不承といった様子で命じた。

ゴゴゴゴ……と、地響きを立てて黒曜石の門がわずかに開く。

「……ただし、武器はすべてそこに置いてこい。兵士の帯同も許さん。馬車から降りて、歩いて入れ」

「なっ……!? 丸腰で入れと申すか!」

王家の騎士が叫ぶが、ギデオンは鼻で笑った。

「『賓客』に会うにしては物々しい護衛が多すぎるのでな。……ああ、それと」

ギデオンは、レティシアが乗る馬車を顎でしゃくった。

「その『偽物』の聖女も、だ」

「……!」

「エリアーナ様とコハク様が、お前たちの放つ『悪意』に気分を害されるやもしれん。広場には入れるな」

「……っ!」

「それが、交渉の条件だ」

王太子は奥歯を噛みしめ、その屈辱的な条件を飲むしかなかった。

彼は腐食した甲冑の下から震える手で剣を外し、泥の地面に置くと、たった一人、敵国の門をくぐった。

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