第32話 8-4:最悪の生存確認

アステル王国は、終わった。

玉座の間にいる誰もが、そう思った。

真の聖女は、自分たちの手で、最も過酷な死地へと追放してしまった。

もはや、この王都に流れ込む瘴気を止める術も、民を救う薬もない。

国王は、玉座に座ったまま、虚空を見つめている。

王太子は、自らの愚かさに、テラスの欄干に額を打ち付け、声もなく嗚咽している。

レティシアは、すべての罪が暴かれ、衛兵に引き立てられ、今はもう、この場にはいない。

まさに、その、王国が「死」を宣告されたかのような、静寂の中で。

「……申し上げます」

一人の、貴族でも騎士でもない、質素だが上質な服を着た男が、静かに広間に入ってきた。

彼は、王都がパニックに陥る中、衛兵の制止を巧みにかいくぐり、宰相への「緊急の謁見(えっけん)要請」を取り付けていた。

「……商人ギルドの者か。このような時に、何の用だ」

宰相が、力なく応じた。

「は。陛下、および王太子殿下に、お耳に入れたき儀が」

男は、この王宮の惨状を、冷静な、商人の目で見渡しながら、口を開いた。

彼の瞳には、貴族たちのような「絶望」はなく、ただ、新しい「商機」を見つけた者の、冷たい光があった。

「王都を覆う『奇病』……瘴気による衰弱でございますな。お困りのご様子」

「……分かっていることを、言うな」

王太子が、テラスから振り返り、憎々しげに男を睨む。

「実は」

商人は、そこで初めて、口元に笑みを浮かべた。

それは、獲物を見つけた狩人のような、冷徹な笑みだった。

「その『奇病』に、効果があるやもしれぬ、『薬草』の噂が、我らギルドの間で、駆け巡っております」

「……薬草、だと?」

それまで死人のようだった国王が、初めて、か細い声で、顔を上げた。

「どこだ!どこの国のものだ!」

「……は。それが、まことに申し上げにくいのですが」

商人は、わざとらしく、芝居がかった溜息をついてみせた。

「……『魔王領』にございます」

「魔王領だと!?」

「馬鹿な!」

貴族たちが、一斉にどよめいた。

「あの瘴気の森の中心で、薬草など育つものか!」

「敵国の、罠だ!我らを、一網打尽にする気だ!」

「ですが、旦那方」

商人は、その罵声を、平然と受け流した。

「我ら商人ギルドは、国境に関係なく、利益の匂いのする場所へは、どこへでも参ります。魔王領とも、細々とながら、交易を続けておりますので。これは、命がけで彼の地を踏んだ、我がギルドの者の、確かな情報にございます」

彼は、懐から、小さな桐の箱を取り出した。

そして、それを、国王の目の前の机に、そっと置いた。

「これが、その『奇跡の薬草』にございます」

宰相が、震える手でその箱を開ける。

中には、一枚の、まだ青々とした「葉」が、大切に布に包まれて入っていた。

箱が開けられた瞬間、それまで玉座の間に流れ込んでいた、あの淀んだ瘴気の腐臭を、一瞬でかき消すほどの、

(……なんだ、この香りは……)

清浄で、甘く、心を落ち着かせる、芳醇な香りが、広間に満ち溢れた。

その場にいる誰もが、そのあり得ないほどの「生命の香り」に、息をのんだ。

「……この香りは」

王太子が、その葉に、見覚えがあるような気がして、目を見開いた。

(そうだ……わたくしが、あの女を断罪した日。あの女の、泥だらけのエプロンから、微かに香っていた……)

(わたくしが、「不快だ」と切り捨てた、あの……)

商人は、続けた。

「魔王領では、この薬草を煎じた茶が、瘴気による『精神の病』を癒やすと、爆発的に流通し始めております。わたくしの部下も、それを一口飲んだだけで、瘴気による重い頭痛が、嘘のように消えたとか」

「……そして、その薬草を育てているのが」

商人は、そこで、わざとらしく、王太子の顔を、まっすぐに見つめた。

「……最近、魔王アビスに『賓客』として保護された、一人の……」

「……『人間の、女性園芸師』だ、そうでございます」

「―――ッ!!」

王太子の全身が、雷に打たれたかのように、激しく痙攣(けいれん)した。

(……人間)

(……女性)

(……園芸師)

(……まさか)

彼の脳裏で、わたくしが追放される間際に浮かべた、あの、爛々(らんらん)と輝く、不思議なほどに「希望」に満ちた瞳が、蘇った。

あの女は、死んでいなかった。

(……あいつは、生きていた)

王太子は、テラスの欄干に、再び崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。

(それも、敵国の……魔王の、城で……)

(わたくしたちが、国を救うために、今、喉から手が出るほど欲しい『浄化の力』を、あろうことか、あの、わたくしたちの宿敵である、魔王のために、使っている……!?)

それは、わたくしが瘴気の森で魔獣に食い殺されるよりも、よほど、アステル王国にとって、そして王太子である彼にとって、最悪の、最悪の「生存確認」だった。

わたくしは、死んでいなかった。

わたくしは、彼らが最も恐れる敵国で、「賓客」として、わたくしが王宮で求めていた、わたくし自身の「研究」を、思う存分に楽しんでいるのだ。

そして、その「研究成果」が、今、アステル王国の「命綱」として、目の前に差し出されている。

これ以上の、屈辱があるだろうか。

「……エリアーナ」

王太子の唇から、血の気の引いた、絶望の呟きが漏れ落ちた。

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