第5話 第2章:瘴気の森とサバイバル 2-1:絶望の地、あるいは希望の森
わたくしを乗せた粗末な幌馬車は、王都の門をくぐり抜けてから三日三晩、荒れた森道をひた走った。
ゴトゴトと不快な振動が、板張りの荷台からわたくしの全身に突き刺さる。
「白亜の間」での理不尽な断罪の後、わたくしは自室に戻ることも、家族に別れを告げることも一切許されなかった。あの日着ていた、土に汚れた作業着のまま、荷馬車の隅で固い木枠に背を預けている。
(お父様、お母様……)
一瞬、残してきた家族の顔が脳裏をよぎる。伯爵家の変わり者の娘が「毒草師」の汚名を着せられ、国で最も忌み嫌われる地へ追放された。彼らがどれほど嘆き、わたくしの身を案じていることか。
それを思うと胸が痛んだが、その感傷はすぐに別の熱い感情に塗り替えられた。
(いいえ、これでよかったのだわ)
わたくしは、無意識に作業用エプロンのポケットに収まる、愛用の剪定ばさみの冷たい感触を確かめた。
あの理不尽と欺瞞に満ちた王宮。偽りの聖女がわたくしの才能を搾取し、陥れる場所。
あんな場所で、これ以上植物たちと向き合い続けることができただろうか。
むしろ、これは僥倖だ。わたくしは、未知なる植物の宝庫へと、国費で「研究旅行」に送り出されたのだ。そう思うと、荷馬車の揺れさえも期待への序曲のように感じられた。
王都の豊かな田園風景はとうに消え、三日目には人の気配が完全に途絶えた。
御者台の二人の兵士は、目的地への強烈な「恐怖」からか、必要最低限の言葉しか交わさない。
「おい……本当に、あそこまで行くのか」
「馬鹿を言え、王命だ。だが、境界線より一歩たりとも先には入らんぞ」
「当たり前だ! あそこの霧に触れただけで、魂が腐るって話だ……」
彼らにとって、この任務は命懸けの仕事なのだろう。わたくしに与えられたのは、一日二回の、石のように硬いパンと生ぬるい水だけだった。
そして、四日目の朝。
馬車の車輪が軋む音を立てて急に止まった。馬の怯えたいななきが聞こえる。
「……着いた。ここまでだ」
御者の兵士が、絞り出すような震えた声で言った。
わたくしは幌の隙間から外を覗き、息をのんだ。
そこには、明確すぎるほどの「境界線」があった。
今いる場所は、まだ陽光が差し込む見慣れた森だ。しかし、数メートル先から、世界は一変していた。
まるで巨大な刃物で切り取られたかのように、生命の営みが途絶えている。
そこにあるのは、壁。ゆっくりと渦を巻く、紫がかった灰色の「瘴気」の壁が、天を突くようにそびえ立っていた。
こちら側の木々は、瘴気から逃れようとするかのように、不自然に枝をねじ曲げている。
そして、壁の向こう側。
そこは、色彩のない世界だった。
木々は生きたまま炭化したかのように黒くねじくれ、葉の一枚もつけていない。
地面には苔すら生えず、ただ乾燥してひび割れた黒い土が広がる。
風が吹いても木の葉の擦れる音はせず、ただ瘴気の壁そのものが、「ゴウウ……」と地獄の釜が開いたような低い唸りを上げるだけ。
空は紫色の霧に覆われ、太陽の光は一筋も届いていない。
「……ここが、瘴気の森」
わたくしの呟きは、馬のいななきにかき消された。
「おい、降りろ! さっさと行け!」
「これ以上いると、俺たちまで瘴気に当てられる! 早くしろ!」
兵士たちは恐怖で真っ青な顔をして、馬車から降りようともせずわたくしを追い立てる。
わたくしは何も言わず、静かに荷台から飛び降りた。革製のワークブーツが乾いた土を踏む。
彼らに向かって一度だけ、深く頭を下げた。罪人としてではない。ここまで運んでくれた職務への礼として。
「……っ、ちっ!」
年嵩の兵士が舌打ちした。
「……世話になったな。達者で暮らせ」
意外にも、彼がそう声をかけた。わたくしと目を合わせず、瘴気の森を睨みつけたまま、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「まあ、無駄だろうがな。……さあ、行け! もう二度と振り返るな!」
その声は、恐怖に裏返った悲鳴に近かった。
わたくしは、もう振り返らなかった。
背後で慌てて馬車が方向転換する音を聞きながら、ただ一人、ゆっくりと境界線へと歩を進める。
そして、ついにその紫がかった霧の中へ、足を踏み入れた。
「……!」
まるで、冷たく油を含んだ水の中に全身を浸けられたような感覚。
肌を刺す冷気と、腐臭にも似た濃密な瘴気の匂いが、一気に肺を襲う。
息が、詰まる。
だが、それは一瞬のことだった。
わたくしの体の奥深く、丹田のあたりがカッと熱くなった。王宮で植物たちと触れ合う時に感じていた、あの温かい力だ。
わたくしを中心に、まるで温かい陽だまりが広がるかのように、その力が瘴気を押し返していく。
(……息苦しくない)
深く息を吸い込む。空気は重く不快な匂いはするが、想像していたような精神が侵食される感覚は一切なかった。
わたくしの体が、この瘴気を無効化している。
それどころか、驚くべきことに、王宮で悩まされていた鬱陶しい羽虫の類が、わたくしが踏み出すとパニックを起こして逃げ惑い、数メートルの距離を保って近寄ろうともしないのだ。
(これは……)
わたくしは、土で汚れた自分の両手を見下ろした。
(わたくしの力は、ただ植物を元気にするだけではなかったんだわ)
確証が得られた。
わたくしの持つ「植物の力を引き出す」スキルは、この極限の環境において、わたくし自身を守る「聖なる盾」として無意識に発動している。
人々が「絶望の地」と呼ぶこの森で、わたくしは王宮にいた時よりも自由に呼吸ができ、不快な害虫にも悩まされずに済むのだ。
わたくしは、森の奥深くへと続く暗い道を見据えた。
口元に、笑みが浮かぶのを禁じ得ない。
(素晴らしい……最高の研究室じゃない)
真に警戒すべきは、ただ一つ。
この瘴気によって理性を失ったという、「魔獣」だけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます