第6話 2-2:最初の夜と兵士の慈悲
瘴気の森に足を踏み入れてから、体感で半日ほどが経過した。
空は紫がかった霧のせいで常に薄暗い。肌を撫でる空気が急速に冷たさを増し、夜が近いことを告げていた。
森の不気味な静寂が一層深まる。ここには鳥の声も、虫の音もない。わたくしが枯れ葉を踏む音と、瘴気が「ゴウウ」と唸る音だけだ。
(夜になる前に、安全な場所を確保しなければ)
日中あれほどわたくしを避けていた虫たちさえ、今は鳴りを潜めている。夜になれば、この森の真の主、おそらくは夜行性であろう魔獣たちが動き出す。
わたくしは枯れ木に背を預け、この三日間ずっと身につけていた作業用のエプロンを見下ろした。
王宮の土と樹液で汚れた、丈夫な麻布のエプロン。
今や、わたくしが生き延びるための全財産が、この中にある。
祈るような気持ちで、その無数にあるポケットに手を入れた。
(あった……!)
指先に触れる、冷たく硬い感触。
わたくしは安堵の息を漏らしながら、次々と「お守り」であり「武器」である道具たちを取り出した。
愛用の「剪定ばさみ」。手の形に馴染んだ柄と磨き上げられた鋼鉄の刃。今や護身用だ。
「園芸用ナイフ」。植物の採取や木を削るための万能ツール。
「麻紐の束」。
自ら調合した「薬草軟膏」。蓋を開けると、ラベンダーとカモミールの心が安らぐ香りが漂う。
そして、「火打ち石と火口」。これを見つけた時、思わず「よし」と小さく声を漏らした。これさえあれば火が起こせる。火は、暖と明かり、そして魔獣を遠ざける「結界」となる。
「作業記録用の手帳と鉛筆」。これは今日から、この瘴気の森の生態を記録する、わたくしだけの貴重な研究日誌になるだろう。
最後に、いくつかの小さな「種袋」。「食用の豆」と「薬草の種」。これらはわたくしの「未来」だ。
これだけあれば、生き延びられる。わたくしは、いつも通りの準備を怠らなかった過去の自分自身に感謝した。
その時、ふと、エプロンの最も大きなポケットの底で、カサリと何かが音を立てた。
わたくしの道具ではない、硬く、ずしりと重い感触。
(これは……?)
恐る恐る手を入れ、引っ張り出すと、それは粗末な軍用の「水袋」と、薄汚れた布にくるまれた「硬い黒パン」が二つだった。
「……え?」
一瞬、思考が停止する。
そして、脳裏にあの年嵩の兵士の、わたくしと決して目を合わせなかった横顔が蘇った。
彼がわたくしを乱暴に追い立てた、あの時。
彼は、王命に背く危険を冒してまで、これをわたくしのエプロンに密かに滑り込ませたのだ。
「達者で暮らせ」
「まあ、無駄だろうがな」
あのぶっきらぼうな言葉。
それは、わたくしがこの森で即座に死なないよう、せめて最初の数日だけでも生き延びられるようにと願った、彼なりの、ぎりぎりの「慈悲」だった。
「……ああ……!」
わたくしは、水袋と黒パンを胸に抱きしめ、込み上げる熱い塊を堪えた。
「白亜の間」でどれほど侮辱されても流れなかった涙が、今、止まらなかった。
あの理不尽な宮廷では誰もわたくしを助けなかったのに。名前も知らない一介の兵士が、わたくしに「生きろ」と、これほどの温情をかけてくれた。
「……感謝、いたします」
もう届くはずもない礼を、わたくしは嗚咽と共に呟いた。
このパンと水は、わたくしがこの森で生きるための最初の「希望」だ。わたくしは、まだ見捨てられてはいなかった。
手の甲で乱暴に涙を拭う。この慈悲を無駄にしてはならない。
水袋の水を一口だけ含んだ。三日ぶりに飲む生ぬるい水が、乾ききった喉と心を潤していく。
わたくしは再び立ち上がり、明確な目的を持って周囲を観察した。
(安全な場所を。火を起こせる場所を)
瘴気は低い場所に溜まる。少しでも高い場所、魔獣から身を隠せる岩陰や洞窟がいい。
ナイフを片手に斜面を登り、やがて根元が巨大な空洞になった古木の樫を見つけた。
(ここなら、雨風をしのげる。入り口も狭いから、大型の魔獣も入ってはこれないわ)
わたくしはナイフで周囲の枯れ枝をかき集めた。瘴気のせいかどれも湿っぽく、油を含んだように重い。
空洞の前で、一番乾いていそうな細い枝を削って火口の準備をし、冷たい両手をこすり合わせる。
火打ち石と火打金(ナイフの背)を強く打ち合わせる。カチ、カチ、と硬い音だけが森に響く。
火花は散るが、湿った火口はなかなか火種を拾ってくれない。
(落ち着いて。わたくしならできる。忍耐強く、丁寧に……!)
スカートの裾で火口を包み、体温で湿気を飛ばし、もう一度。
カチ、カチッ!
一際大きな火花が散り、今度こそ火口がチリチリと赤く燃え始めた。
「……!」
わたくしは、その小さな火種を両手でそっと包み込む。細く、長く息を吹きかけると、煙が目に染みた。
やがて、差し入れた枯れ葉の先に、ボッ、と音を立てて小さなオレンジ色の炎が宿った。
「……燃えた……!」
夢中で炎に枝をくべていく。炎はパチパチと安心する音を立て、勢いよく燃え上がった。紫色の瘴気の闇が、わたくしの周りから暖かい光によって一掃されていく。
わたくしは炎の前にどさりと座り込んだ。全身の力が抜ける。
(わたくしは、やったわ)
炎に照らされた手は土と煤で真っ黒だったが、今、わたくしの命を確かに掴んでいた。
黒パンを取り出し、水袋の水で表面を湿らせ、力を込めて噛みちぎる。
口の中に広がる、穀物の素朴で力強い味。
……なんと、美味しいのだろう。
王宮で体裁のために詰め込んでいたどんな豪華な料理よりも、今、この硬いパンの方が、よほどわたくしの体を、心を、内側から熱く奮い立たせてくれた。
兵士の慈悲を噛み締め、炎の暖かさに包まれながら、わたくしは燃え盛る炎の向こう、深い闇の森を冷静に見据えていた。
遠くで魔獣のものだろうか、低い遠吠えが聞こえる。
だが、わたくしは、もう何も怖くなかった。
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