白百合の毒

—— 女スパイ・時尾の記録


 文久三年、京の夜。

 攘夷派と佐幕派が血を流し、街には常に火薬と焦げた油の匂いが漂っていた。


 その混乱の只中、烏丸の一角にひっそりと佇む遊宴の場「白百合亭」。

 そこでひときわ美しく、名の知れた芸者がいた。


 名を 時尾(ときお)。


 白い肌、黒髪、柔らかな所作。

 誰もが彼女に見惚れたが、彼女の本性を知る者は、京で三人といなかった。


 時尾は、芸者であると同時に——

 幕府直属の女諜報員(スパイ)である。




 その夜、時尾は見知らぬ客に呼ばれた。

 黒羽二重の羽織、目は鋭く、酒ではなく茶を飲む。その様子だけで“普通ではない”と分かる。


「白百合の時尾殿。あなたにしか頼めぬ仕事があります」


 男は黒漆の箱を差し出した。


「“龍脈図”をご存知ですな?」


 時尾の扇が一瞬止まる。

 龍脈図——地形と軍略を記した禁断の秘図。

 各藩が血眼になって奪い合い、持つ者が国を動かすと言われる。


「長州の浪士どもが、この図を手に入れようとしております。

 あなたには——それを奪い返してほしい」


 つまり、死亡率の高い任務だ。


 時尾は淡く微笑む。


「興味深いお話ですね……」


 その笑みの奥で、冷たい刃が光っていた。




 その夜更け、時尾は“迷い込んだ芸者”を装い、長州浪士が屯する旅籠へ向かった。


「すみません、道に迷ってしまいました……

 どなたか京の者に道をお聞きしたくて」


 長州浪士たちは、時尾の姿を見て口元を緩める。


「こんな夜に芸者一人とは危ないな」「こっちへ来なよ」


 男たちの視線を感じつつ、時尾は気づいていた。


(奥に……“本物”がいる)


 旅籠の最奥。

 闇の中から、爬虫類のように冷たい“視線”が彼女を舐めていた。


(護衛か……あるいは、図の持ち主)


 時尾は焦らず、浪士たちを酒で酔わせながら、その視線の主が出てくるのを待った。




 やがて襖が静かに開いた。


 現れたのは長身の痩せた男。

 目は細く、彼が笑っているのか怒っているのか、誰にも判断できない。


 手には——黒漆の箱。


 目標だ。


「女。どこで芸を磨いた?」


 男の声は低く響き、旅籠全体の空気を締め付けた。


「白百合亭でございます」


「ふむ……人殺しの目をしておる」


 その言葉に、時尾は眉を僅かに動かした。


「……私のどこを見て、そう思われるのです?」


「歩みが軽い。指先に迷いが無い。

 そして何より——“逃げ道を常に数えている目”だ」


 時尾の背筋に冷たい刃が走る。


(見破られている……)


 男は口元を歪めた。


「俺の名は——高杉晋次郎。

 この図の“護衛役”だ」


 時尾は即座に理解した。


 この男——ただ者ではない。


「あなたは、私に何を?」


「簡単だ。

 お前が敵か味方かではなく、どんな“死に方”を選ぶのか知りたい。」


 その瞬間、旅籠の空気が変わった。

 寒気を伴う静寂。

 雀の鳴き声すら消えるような重圧。


 だが時尾は扇を広げ、静かに微笑む。


「私の死に方を決めるのは私の“任務”です。

 あなたではありません」


 晋次郎の目が細く、愉しげに光った。


「いい。ますます気に入った」


 そして——


 刀が一閃した。


 時尾の扇が砕け散り、畳が裂ける。


 浪士たちが慌てて立ち上がり、旅籠は瞬時に殺気の巣と化した。


 時尾は袖から短刃を抜き、跳ねるように後退する。


「さて、女。殺し合うか」


 晋次郎が踏み込む。


「この国を動かす“地図”を懸けて。」


 高杉晋次郎の踏み込みは、武士のそれではなかった。

 刃は音もなく迫り、畳が裂ける前に時尾は横へ跳んでいた。


 短刃を握りしめた右手に、じんと熱が走る。

 この男とは、舞や色事の技では渡り合えない。


(正面から挑めば、確実に殺される……)


 時尾は浪士たちの間を駆け抜けながら、晋次郎との間合いを探る。

 だが晋次郎は彼女の動きを完全に読み切っているようだった。


「芸者の身でよく動ける。しかし——」


 刀風が時尾の頬をかすめ、白い肌に赤い線が走る。


「殺意が薄い」


 その瞬間、背後から浪士が飛び掛かってきた。

 時尾は身を沈め、袖から隠し毒針を取り出して浪士の首筋に突き刺す。


 浪士は苦悶とともに崩れ落ちた。


「なるほど、“白百合の毒”か」

晋次郎は愉しげに言った。


「毒は嫌いではない。戦場でよく見た」


 時尾は息を整え、目だけで笑う。


「私も“野蛮な戦場”で学んだのです」


「ほう?」

晋次郎の目が僅かに興味を帯びた。


「女は“毒”を学ぶしかなかった、と?」


「いいえ。

 ——男に斬り殺されぬため、です。」


 その一言に、晋次郎の動きが一瞬止まった。




 時尾はその隙を逃さない。

 机の上の燭台を蹴り、炎を散らして旅籠内を薄暗くする。


 闇は彼女の味方だ。


 靴音のしない歩法で晋次郎の背後へ回り込み、短刃を振り上げる。


 しかし——


「甘い」


 晋次郎は振り返ることなく肘で時尾の腹を突き飛ばした。

 時尾の細い体が畳を滑り、肺から空気が抜ける。


「“殺意が薄い”と言ったはずだ」


「……殺すために近づいたわけではありません」


「ならば奪い返しに来たのか。“龍脈図”を?」


 晋次郎の手にある黒漆の箱が、月明かりに照らされる。

 時尾の視線が自然とそこへ吸い寄せられた。


「龍脈図には……何が描かれているの?」


「国の未来だ」


 晋次郎は箱を開け、中の巻物を少しだけ見せた。

 しかし時尾が驚いたのは内容ではなく、その紙質だった。


「……焼けていますね」


 巻物の端が煤に染まり、火で焦がされた跡がある。


「その紙……まさか」


「察しがよい」


 晋次郎は薄く笑った。


「これは偽物だ。

 本物は既に焼かれた。“誰にも利用させぬため”にな」


「じゃあ、あなたたちは……」


「これを“本物だと思わせるために”動いていた。

 敵のスパイをあぶり出すためにな」


 時尾は息を呑んだ。


 つまり——

 彼女の任務そのものが罠だった可能性がある。


 幕府の依頼主は本物の龍脈図など承知していない。

 彼らは時尾を“長州の罠”に送り込んだのだ。


(私を……捨て駒に?)


 胸の奥に、冷たい痛みが広がった。


「さあ、時尾」

晋次郎が歩み寄る。


「その短刃で俺を殺すか。

 あるいは——俺の側に来るか」


「……私を引き抜くつもり?」


「お前ほどの女は珍しい。殺すには惜しい。

 何より、幕府はお前を“使い捨て”ようとしている」


 時尾は唇を噛んだ。

 否定できない。

 女であるという理由で、諜報として何度も危険な最前線へ送り込まれた。


(でも……私は幕府の犬じゃない。

 “私を支えてくれた人たち”への恩だけで動いてきた……)


 時尾の胸に、師匠である隠密の老女の姿が浮かぶ。

 彼女は言った。


『時尾。あんたが選ぶのは“仕える主”じゃない。

 あんたが守りたいと思ったもののために動きな』


(私は……何を守りたい?)




 晋次郎が最後の一歩を踏み出す。


「決めろ、時尾。

 生きたいなら——俺の側へ来い」


 時尾は短刃を下げ、静かに答えた。


「私が守りたいものは……幕府でも、長州でもない」


「ほう? では何だ」


 時尾はまっすぐに晋次郎を見上げた。


「——“私自身の生き方” です」


 次の瞬間、時尾は短刃を手放し、懐からもう一本の細針を抜いた。


「偽物の図を守るために死ねるほど、私は安くありません」


 その言葉と同時に、時尾は針を投げる。

 針は晋次郎の頬をかすめ、血の雫が落ちた。


 晋次郎の目が愉悦に輝く。


「……いい女だ」


「あなたを殺す気もありません。

 でも、幕府にも戻りません」


 時尾は旅籠の障子を蹴破り、外へ飛び出した。

 月明かりに照らされた瓦屋根を駆け抜け、京の闇へと消えていく。


 背後で晋次郎の笑い声が響いた。


「また会おう、白百合の毒よ!」




 その夜、時尾はどの勢力にも属さない“孤独な諜報員”となった。

 幕府にも、長州にも属さず、

 ただ己の選んだ道を歩く影。


 いつか再び晋次郎と出会う日まで——

 白百合の毒は、京のどこかで静かに咲き続ける。

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